フォルトゥーナの羽の靴フォルトゥーナの羽の靴
「油断しすぎなんだよ、ベルナルド」
からかうような口調。ジャンはベルナルドの無防備に曝け出された喉に歯を立てた。
――油断。
そうだ、油断しすぎた。
薄い皮膚に食い込む犬歯の鋭さを感じながら、ベルナルドは仰のいて眼を閉じる。ジャンが首筋から顔を離すと、唇の感触が残る場所に水滴が落ちた。壁に掛けられたままのシャワーヘッドから零れた生ぬるい雫は、喉仏の隆起を下ると鎖骨に挟まれた小さな窪みへ流れる。引き締まった胸郭をこえて腹筋へ。臍の脇を掠めて脇腹へと落ちていく感触がくすぐったい。
蒸気で温められた浴室の中で、ベルナルドとジャンの距離は近い。
けれど、肌は触れない。
ジャンは裸足になり、スーツごと袖を捲り上げてはいるがその他はいつもの服装のまま。そしてベルナルドは、上半身は衣服を纏っていないものの、代わりに左肩を中心に白い布が覆っている。苦い後悔と共に皮膚を包む包帯。その下には、ベルナルドの油断の結果である、無様な銃創がある。
自分の血が凝固し、赤黒い瘤の出来た髪。治療を終えた往診の医師が帰るなり、その髪を引っ張られて浴室に放り込まれた。椅子の背もたれに寄りかった体勢で、汚れた髪を洗われる。
言葉少なく泡を弄るジャンの指先は心地好く、じくじくと痛む傷口を癒してくれる気がした。しかしこびり付いた血を洗い流す湯は、苦い失態をも忘れさせるには些か、生温すぎた。
女の股の間に隠れるようにして、こそこそと蠢くしか能のないケチなチンピラどもだった。
GDがデイバンから撤退した後、この街に送り込まれていたGDの構成員達も引き上げていった。しかし、CR:5が傾いたと判断してネズミのようにこそこそと奴らに擦り寄って行った薄汚い裏切者共は、当然ながらGDに面倒を見てもらえるはずも無く。途方にくれたままデイバンに残された。組織の刺青を焼きつぶしたようなあからさまな裏切りをした奴らは容赦なく処断した。それでも残っているのは、日和見にGDに靡こうとし、けれどそれだけの実力も、気概も、チャンスも無かったクズ共だ。
奴らはCR:5がデイバンの支配を取り戻すと、何事も無かったかのように組織に戻ろうとした。
だが、オメルタの強い絆で結ばれているCR:5において、裏切りとは絶対悪。たとえ実行に移してはいなかったとしても、周囲の目は冷たい。当然だ。彼らは自ら、背を預けられぬ人間だと申告したようなものなのだから。もしまたCR:5が危機に陥ることがあったとき、彼らはまた裏切るだろう。そんな人間を信じる阿呆はいなし――CR:5はそれほど甘い組織ではない。
居場所をなくした蝙蝠たちは、じわじわと息苦しくなる空気に燻し出されて、穴倉から出てくる。
その機を狙って、うっとうしい羽音を一掃しよう――、というのがベルナルドの策だった。
途中までは上手く、万事順調に進んだ。だからこそ、簡単すぎるくだらない後始末に気を抜いてしまった、のかもしれない。十名ほどの薄汚いクズどもは、ベルナルドの焚いた煙に翻弄されて、網を張った出口目掛けて飛び出してきた。
予想を超えていたのは――彼らの愚かさ。
自暴自棄になった彼らは、銃口をカタギの人間に向けた。折り悪く、人払いをしていたはずのしなびた倉庫に、ひょっこりと顔を出した子供たちがいたのだ。その倉庫を秘密の遊び場としていた少年達は、突如目の前に現れた非日常の光景にパニックを起こし――
「まったく、最悪の一日だったよ」
混乱に乗じて奴らの放った銃弾が、ベルナルドの肩を射抜いた。肉を抉る衝撃によろめくベルナルドの姿に、部下達の間に動揺が走った。その隙をつかれ、奴らを取り逃がしてしまった。
恥晒しもいいところだ。たかが子供にペースを乱されて、あんな雑魚に手間どうなど。
うんざりと吐き棄てるベルナルドに、ジャンは喉の奥を鳴らすようにして笑いながら髪を梳いていく。露わにされた額に一つ、羽のようなキスが音を立てた。
「薮蚊の一、二匹を叩き潰し損ねたって、あんたが男前だって事実は変わらねぇけどな、ダーリン」
「わかっておくれよ。かわいいハニーの前では、いつだって格好をつけていたいものなのさ」
離れていくジャンの頬にそっと手を添えて、もう一度引き戻す。ただし今度はさっきよりも下へ。ベルナルドの額に重なるのは、ジャンの唇ではなくブロンドの生え際。唇は唇へ。なぜならそれが一番気持ちがいいからだ。閉じた口唇を舌先でノックすると、僅かに開かれた隙間からこっそりと招き入れられる。敏感な器官を絡めあって、お互いの味を探って。キスは好きだ。そのまま溺れたくなる。
調子に乗ってさらに深く求めようとすると、甘噛みというにはやや強く、ジャンに歯を立てられた。
「あんたは少し、我慢ってモノを覚えたほうがいいと思うぜ」
「我慢ね……昔は知っていた気がするな。お前に触れた瞬間に、綺麗さっぱり忘れてしまったけど」
「――ばーか」
眼を閉じろよ。
シャワーのノズルを手に取りながら言われて、素直に従う。視界を閉ざし、無防備に喉をさらした姿は、ジャンで無ければ見せないものだ。たとえば傍にいる人間の手に、カミソリの小さな刃が一つあれば――地獄への門は簡単に開かれる。身体を晒し、心を晒し、ベルナルドが魂ごと預けて眼を閉じるのはラッキードッグただ一人だ。そして、その信頼は報われる。閉じた瞼の上に、振ってくるのは優しい口付け。自分から仕掛けてきたくせに、恥ずかしそうに笑うジャンの気配につられて思わず口元が緩むのと同時に、あたたかな湯がシャンプーの泡を洗い流す。
「あんたの髪、すげーのな。これだけ長いのに、全然絡まねぇ」
他人の髪を洗う機会など、そうそう無い。こうして長い髪に触れるのなど初めてなのだろう。興味深そうに幾度も指を通しながら、ジャンは感嘆する。するすると髪を撫でていく指先は器用に心地よい場所を探り当て、マッサージするように触れていく。
「お前も凄いさ。とても気持ちがいい。風呂に入るのは嫌いなくせに、洗うのは得意なのか? 美容師の才能でもあるんじゃないか?」
「そりゃどーも。美容師、ねぇ……あんたはどっちがいい? カリスマ美容師ラッキードッグと、CR:5のボス・ラッキードッグ」
「比較にならないな。この指が他の客の髪を洗うなんて冗談じゃない」
「そういう理由かよ」
ふに、と鼻をつままれた。シャワーの湯が止まって、ジャンの手がゆるく水気を絞る。
勿論そんな理由ではない。ベルナルドにとってジャンは最早、カポという存在でしかありえない。そしてジャンも、今更他の、カタギの職になどとは思わないだろう。血の誓いを交わした自分達は、いうなれば組織そのものが大きな家族だ。ファミーリア。身内に対して情の深いジャンは、自らの懐に入ったものを棄てて別の道を行こうなどとは考えない。彼自身が思っているよりも遙かに、ジャンはコーサ・ノストラのボスとしての資質を備えた男だ。
その証拠に。
ゆっくりと開いたベルナルドの瞳に、ジャンの瞳が写る。
ラッキードッグ、という二つ名の割にはどこか猫科の獣を思わせる金色の瞳が、口元には楽しげな笑みを浮かべたまま、爛々と光っていた。
その光を浴びるだけで、ベルナルドの中のコーサ・ノストラとしての血が騒ぐ。
浴室に満ちた、甘い泡の香りが醒めていった。
「報告だ。いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
「どちらがいいかな。それじゃあ右、とも言えないしねぇ」
「両方の手のひらに、ニュースを一つずつ書いておくわけにもいかねぇからな。右手に書いたニュースから読まれるってわかっちまう」
「ははは、それじゃあ、いいニュースから聞こうか。お兄さんのガラスのハートに優しい感じで頼むよ」
「おじさんの鋼鉄の心臓の間違いだろ?」
定石どおりに茶化してから、ジャンは物騒に片頬を吊り上げ、口を開く。
「迷子の蝙蝠さんが見つかった。数もぴったり――迎えに行った飼い主サンが無事に回収したってよ」
「――どこにいた?」
「あの倉庫から、そう離れてない位置の下水道。やっぱり習性かね、薄汚い、湿った洞穴がお好きみたいだぜ」
「下水……そうか、あの辺りも多少は整備が進んでいたか……」
逃走経路としてはポピュラーな選択肢だが、港湾地区に近い倉庫街では上下水道をいちいち整備している場所のほうが少ない。必要が無い上に、地盤も脆く、造り難いからだ。その知識が穴を作った。不機嫌な罵声が零れ出る。
「で、悪いニュースは?」
「とっても残念なお知らせだ。せっかく探し当てた蝙蝠さんは、迷子の途中でおっ死んじまった」
「ああ、戦闘になったのか」
銃を持った男達を、同じく銃を持った狩人が追うのだ。おとなしく捕縛を受け入れても、待っているのは処刑だけなのだから、逃亡者達も必死になる。
悪いニュースとは――こちらの手勢にも被害が出たか?
元々戦闘は予測している。それを、わざわざ“悪いニュース”と題して伝えるということは、あの雑魚どもを追っていた部下達は、何か失態でも犯したのだろうか。
しかし予想とは裏腹に、ジャンは首を左右に振った。
「いんや。一緒に遊べたのは追いかけっこまでだ。――俺の所為、なんだってよ」
「お前の?」
状況が飲み込めずに、戸惑いが浮かぶ。
怪我の治療のために前線を離れたのは、おそらく2時間も無いだろう。だがその僅かな時間にも、状況は推移している。いつもは自分が第一の窓口として情報を収集しているから、ジャンが知っていて自分は知らないこと、というのは少ない。頭脳派のベルナルドにとって、情報とは第一の武器だった。慣れないもどかしさに、眉根が寄る。
「ラッキードッグに逆らうと、幸運の女神に見放される」
いつもどおりの軽い声音を装おうとして失敗した、微かな苛立ちを滲ませて、ジャンは吐き捨てた。
そのフレーズは知っている。
「なんだ、あいつら。逃げていく女神様のスカートの裾を追いかけてすっ転びでもしたのか」
現実にそうなっても、おかしくは無い。そう思えるのは、ベルナルドがラッキードッグに惚れこんでいる所為なのか。
ベルナルドは苦笑し、幸運の女神に愛されすぎた男は、更に苦味を増した嗤いを表情に浮かべた。
「逃げてる途中で心臓発作起こしておっ死んだ奴が一人。そいつの周りで騒いでるうちにお前の部下が追いついて、慌てて逃げ出そうとしてすっ転んで首の骨折って更に一人。下水道に棲み付いてた蝙蝠の大群にたかられて、パニクッて発砲した流れ弾に当たって三人死んで、残りは工事中だった縦穴に気づかずまっ逆様で、鉄パイプに串刺し」
そのままバーベキューできそうなくらい、見事に刺さってたらしいぜ。
「そりゃあ、また……」
なんともあからさまな、神様の悪戯。十名もの裏切り者達が、追われている最中に、次々と死んでいく。銃弾によってではなく。
幸運の女神の――ラッキードッグの加護を失ったのだ、と噂するものがいたとしても仕方がない。
「冗談じゃねぇよな。俺からしたら、全然ラッキーじゃねぇっての」
けれど当のラッキードッグは不満そうに唇を尖らせる。
ベルナルドの肩口の包帯。その上に垂れた一房の髪を、傷に触れないようにそっとつまみあげて、くるりと弄ぶ。幸いにも骨や筋は痛めていなかった。迅速な処置を施したおかげで、すでに出血も止まっている。心臓の拍動が判る、じんじんと響く鈍い痛みは、裏社会に生きるベルナルドにとっては慣れた感覚だ。けれどジャンはその傷をまるで許しがたいもののように睨み据えた。指先に髪を絡ませたままの手は傷口の真上へと伸ばされ、しかし触れることはなく空中に円を描く。
「あんたに付けてくれたこの傷の分、十分な礼も出来ていやしねえのに」
滑るように遊ぶ指先。対照的に、視線は鋭い。清潔な包帯の下の抉れた肉を透かし見て、更にその奥に不愉快な反逆者達の姿を見ている。たとえ幸運の女神の偏愛が無くとも、この強い黄金ならば射抜くだけで人の命など奪えそうだと思った。
カポの椅子に座り、ジャンは加速度的に組み上がっていく。最上級の、コーサ・ノストラの男へ。
はらりと髪を手放したジャンは、濡れた髪の上にバスタオルを投げかけた。柔軟剤の効いた柔らかなパイル地が、視界を白く覆いつくす。落ちそうになったバスタオルを思わず両手で支えようとして、瞬間痛みが走る。けれど口元は痛みに呻くかわりに、小さく、満足げな笑みを浮かべていた。
成長、というよりは、元々もっていた輝きが磨かれることで露わになっている。そんなジャンの変化を間近で見つめられることが嬉しかった。勿論、彼が自分のために怒っている、ということも。
「なに笑ってんだよ」
「愛されてるな、と思ってね」
「愛されてるだけ? 愛してくれてはねぇのかよ?」
「伝わっていないかい? 心外だ。それじゃあ、今夜はもっと頑張らないと」
見詰め合って睦言を囁く頃には、ジャンの眼は軽妙ないつものラッキードッグに戻っていた。
悪戯めいた煌く瞳。幸運の女神はこの瞳がお好みなのかもしれない。ふと、ベルナルドは思った。恋する女は残酷だ。どれほど愛を乞うたとしても、興味が無い男には視線一つくれてはやらない。ラッキードッグに首っ丈な女神様は、薄暗い地下の汚水の中を飛び回る蝙蝠などには目もくれなかったに違いない。彼女はきっと、惚れた男の鮮やかな金の瞳が、赤黒い血に染まるのが嫌だったのだ。だからジャンが憎んだ男達を、羽虫を追い払うように追いやった。幸運の女神にそっぽを向かれ、奴らは最低な不運の中で惨めに死んだのだ。
彼女の気持ちは良くわかる。
邪気の無いあの瞳は、どんな宝石にも勝るものだ。
けれど、胸のうちでベルナルドは思う。そんな心配は無用なものだ。ジャンがジャンである限り、彼の輝きが失われることは無いだろう。ジャンの本質とは、地位や、名声や、富や権力、そんなものに左右されるような程度の低いものではない。誰もが認めざるを得ない最高のカポになった後も、ジャンはきっと今のように笑っていることだろう。
ラッキードッグに惚れているなら、わかりそうなものを。
優越感を抱いて、幸運の女神へ語りかける。
彼女の不興を買っても構わなかった。なぜなら自分はラッキードッグに愛されているから。
「油断しすぎの次は、調子に乗りすぎて怪我すんじゃねーぞ」
「肝に銘じますとも、ボス。ご心配をおかけしました」
芝居ががった一礼をすると、ばぁか、と額をはじかれた。痛いな、とふざけて額を押さえようとしたら、傷のある左肩を動かしてしまってびりびりと痛んだ。思わず引き攣る表情を見て、ジャンは爆笑する。
溌剌とした笑い声に、胸の奥に沈んでいた苦い塊が吹き飛ばされていく。髪についた汚れと共に、彼はベルナルドの心ごと丸洗いしてくれたようだ。ふわりと軽い気持ちになって、ベルナルドは朗らかな笑い声に、自分のそれを重ね合わせた。
2009/07/23
いつもいちゃつき過ぎなのでハードな会話を目指してみたけど
やってることは普通にいちゃついてるだけだった。