carnevale夢を――夢を、見た。
怖い夢だった。魘されて目覚めた。
身体を揺さぶる振動と、俺の名を呼ぶ声に、底なし沼のような深い眠りから、ゆっくりと意識が引き上げられる。夢と現の間で、俺は自分が目覚める過程を空中から眺めているような錯覚の中で見つめていた。
「――ジャン……? ジャン? おい、ジャン!」
声がする。ベルナルド。ベルナルドが呼んでいる。
やさしいやさしいダーリンは、腕の中で呻く恋人を心配そうに覗き込んでいた。覗き込んで? 顔が見える。ああ、もう目が開いているんだ。俺はようやく気づいた。いつも綺麗に櫛の入っている髪が、ふわふわとあちこちに跳ねていた。珍しいな。いや当たり前か、ベルナルドも眠っていたのだから。見慣れた顔には見慣れた眼鏡が乗っていなくて、少しだけ見慣れない顔だった。眇められた眼が真剣に光っていて男前だ。眼鏡が無い分、いつもの距離よりもちょっと近い場所でベルナルドが俺を覗き込んでいて、なんだ、眼鏡無いほうがいいなぁ、なんて思った――寝呆けてやがるな、俺。
「ジャン……大丈夫か? 魘されていたぞ?」
「ベル、ナルド……?」
耳が目覚めてベルナルドの声を聞いて、次に眼が起きてベルナルドの顔を見れた。順番に目覚め始めている俺の身体は、次に口が起きて、ベルナルドの名前を呼んだ。
「ジャン」
良かった……と、ベルナルドが微笑う。指先が額に伸びて、長い指が眼に掛かっていた俺の髪を掬い上げてくれたのだと気づいたのは視界にあった金の格子模様が消えてからだった。こめかみから目尻へと流れ落ちた汗の粒を、指の腹が拭う。薄い皮膚の上を伝う指先の感触――ベルナルドの体温が心地よくて、小さな声がこぼれた。
一度目を閉じて、ゆっくりともう一度開く。
さっきよりも鮮明になった視界の中で、ベルナルドがやさしく笑っていた。
「もう、大丈夫か?」
「……ん」
喉を鳴らして応えて――我ながら吃驚するほどのその声の甘え具合に笑っちまった。恥ずかしい、でも、まあいいや。気持ちいいから。
「べるなるど」
まだ昼間みたいに冗長に動かない口が、ずいぶん舌っ足らずな声でベルナルドを呼んだ。上手くしゃべれない。もう一度、練習にベル、と名前を呼んだ。ベル、ベルナルド。何度か繰り返して、ようやく普通にしゃべれるようになった。
満足して頷く。と、頭をわさわさと掻き回された。
「怖い夢でもみたのかい、ハニー?」
蕩けちまいそうな甘い声。前髪が撥ねて睫毛にあたる。眼に入りそうで、下を向いて眼を細めた。夜着代わりの薄手のシャツが、ベルナルドの動くのにあわせてゆれていた。すっと背筋の伸びた身体の輪郭を眺めて、それから手を伸ばして触れてみた。ぺたぺたと胸板や腹、脇腹に手をやって、なぞる様にして触れていく。無駄な肉の無い、一見薄く見える体には均整の取れた筋肉がしなやかについている。服越しの感触、それでも、いつも触れているこの感覚を間違えようが無い。
怖い夢。
ベルナルドの問いかけを繰り返すようにして唱えた。
そうだ、夢を見た。怖い夢だった。だから、こうしてあんたに触って、あんたを確かめてるんだ。半ば夢の続きのようだった自分の行動が、ピンと筋が通ったように意識とつながった。
ゆるやかに輪郭を撫でていた手に、目的が加わって力がこもった。首筋、鎖骨の窪み、心臓に合わせて上下する胸に、腹筋。へその穴をくすぐるように指先で弄って、脇腹、背中へ。片手を肩甲骨の辺り、触れながら髪にじゃれ付けるお気に入りの場所において、もう片方の手で腰の辺りを撫でる。シャツの内側に手を入れて、直接触れる皮膚の熱と、些細な凹凸も感じ取れるように、強く。
自然とベルナルドの胸に寄り添う形になった俺に、こちらはささやかに手を添えながら、耳元で囁かれた。
「ジャン、それ以上は危険だぞ」
おニィさん、我慢できなくなっちゃうよ? 笑いを含んだ声。背をぽん、と叩かれる。まるで子供をあやすような仕草なのに、言ってることはエロオヤジ。このダメ人間め。
いつものベルナルドだ。変わらない感触と、変わらないエロっぷりに、ふっと安心のため息がこぼれた。
「あんたの、夢を見たんだ」
いつものあんたじゃないみたいで、すごく――怖かった。
「可愛いことを言ってくれるね」
ベルナルドが機嫌よさそうに、デコに唇を寄せる。でもそれよりもあの恐怖をわかって欲しくて、俺はベルナルドの両肩を掴んだ。
怖かった! ほんとに怖かったんだ! あの――
「カーニバルみたいなド派手なサンバの衣装を着て背中にでっかい羽根しょって、腰振りながら真顔でにじり寄ってくるベルナルド!」
……沈黙、とそれに続く「は?」と間抜けなベルナルドの声。いや、「は?」じゃ無くてさ。羽根は極彩色だし腰のグラインドは半端ないし真顔でじわじわ距離つめてきやがるし。あの恐怖は初めてだ。これまで生きてきた中で一番怖かったかもしれねえ。
「――ジャン?」
「しかも声かけてもぜんぜん返事しやがらねえし!」
ひく、とベルナルドの顔が引きつっている。何だよその反応。想像してみろって! すっげえ怖いから。恐怖だから。思い出しただけで、あ、ほら、鳥肌。
「いやマジで、壁際に追い詰められた時はどうしようかと思ったぜ……」
寒々と両腕をさする俺の肩を、今度はベルナルドががしっと掴んだ。間違って砂でも噛んじまったような苦々しい顔。ベルナルド?
「……ハニー」
「ん? なぁにダーリン、って、痛って、いてて、いた、痛てぇってベルナルド! つねんな、馬鹿!」
「お前の目に俺がどううつっているのか、時々とても不安になるよ」
「どんな風に、ってそりゃそのままちょいダメ風に。いやでもまさかサンバは想定外でさ――つうか最近変な夢ばっか見るんだよな」
「ちょっと待て、まさかその変な夢も俺の夢じゃないだろうな」
「あー、まあ、サンバじゃねえし。かぼちゃパンツで王子様ルックのあんたは意外と似合ってた。撃ち殺したくなるくらい笑顔が胡散臭かったが。――この間お嬢の宿題なんか手伝って、いつも読まねえ本なんて読んだからかな」
「ロザーリアお嬢様の?」
「読書感想文、だってさ。お嬢様学校も大変だよなぁ」
俺ならあんな大量の本、机に積まれただけで眠くなる。まじめに宿題をこなすロザーリアの横で、ぱらぱらといくつかの本を流し見ただけで匙を投げた俺は感心した。毎日毎日書類に埋もれて、俺も随分と文字に強くなったんじゃないかなんて考えたのが馬鹿だった。なれない本なんて、読むもんじゃない。アメリカ史だの欧州史だのに加えて、王子様が登場する古典文学、サンバ・ダンサーの出てくるブラジル文化の参考書やら。大量に読んで頭が痛くなった。さらにその結果がこの悪夢だとしたら、散々だ。
そうだろ、ベルナルド?
慰めてくれよとぺたりと張り付く。――が、いつもだったらひっつけば即座に触れてくる手のひらが、今日はいつまで待っても来なかった。
「ベルナルド?」
不審に思って見上げると――そこには、満面の笑みを浮かべたベルナルドの、姿、が……。
いや、あのベルナルドさん? 笑顔だけど……その笑顔、なんか怖いですよ……?
「ジャン」
低く、名前を呼ばれる。甘い声、さっきまで優しく響いていたはずのその声が、今はぞくぞくと背筋を粟立てる。――やばい、危険だ! ラッキードッグとしての俺の勘が言っていやがる。
さりげなーく身体を離して、安全地帯へ避難しようとした俺だが、長い手に敢無くとっつかまった。
「大丈夫。俺がついているから、もう怖い夢なんて見せないよハニー……どろどろに蕩けて夢も見ずに眠ってしまうほど深く眠れるような運動をすればいいのさ」
あ、いやいやダーリン。大丈夫ヨ? 俺もう眼ぇ覚めたし、きっと二度と悪夢なんて見ないわ。ダーリンがいてくれたからダイジョーブ。マジで。いや、ほんと、遠慮なんてしてないからほらあんたも疲れてんだろなんなら今日は俺が腕枕してやるよ! え、いらねえの? マジで!? もう二度とやってやんねーぞ? いや、だから今日ならやってやるってベルナルド。な? ほら、おとなしく寝ようってば!! や、うわ馬鹿さわんな、ひっ、あ、んっ……や、そんなとこイキナリ……くそ、こっんのエロオヤジっ――!
結局のところ。
俺はどろどろのとろとろのぐちゃぐちゃで更にはべとべとになった上に、眠ると言うよりは気絶したと言うほうが正しいような意識の失い方をした挙句、ベルナルドだけで無くルキーノ、イヴァン、ジュリオにカヴァッリ爺様やアレッサンドロのオヤジまで総出演したサンバ・チームに情熱のリズムで迫り来られるというグレードアップした恐ろしすぎる夢を見た。
――畜生、全部まとめて悪夢だ、バッファンクーロ!
2009/08/19
書いてる人間は根本的にアホです。