お前の翼落下した瞬間の空気は柔らかく、子どもの頃滝つぼに飛び込んで遊んだことを思い出した。衝撃の後に静寂と浮遊感、息苦しさと達成感がないまぜになって襲ってくる感覚が面白く、擦り傷だらけになりながら何度も飛び込みを繰り返したものだ。そう思うと今とまるで変わっていない。きっと私は何度同じような目にあってもこうやって空を飛んでいるのだと思うと不思議と恐怖は感じなかった。
目を閉じて激突を待つが、その覚悟は大きな翼にすっぽりと覆い隠されてしまう。
「ヴェントルー」
「全く世話がやける」
苦々しげにそう言ったヴェントルーは大きく宙を旋回した。
「今日のところは出直さんか」
「いや、まだだ」
「気づいておらんだろうが怪我をしているぞ」
やけに熱い脇腹を抑えると生暖かいぬるつきがある。
「かすり傷だ。助けて貰ってなんだが降ろしてくれないか」
「断る」
「手出しは無用だ」
「我輩の帰宅途中に上から落ちてきたのはそっちだ。今更目的地は変えられん」
「そうか」
ヴェントルーの手を振りほどいてその辺の木に向かって跳ぶ。落ちていく空中で再びヴェントルーに捕えられた。
「貴様!手足を拘束されたいか!」
「ほお?!そんな癖があったとは知らなかったな!」
「人聞きの悪い……!帰るぞ!」
腕の中から抜け出そうと羽を掴んだが、力が入らない。出血は思った以上に酷いようで、自業自得とか年貢の納め時とかそう言った言葉が頭を巡る。
「お前はいいな、翼があって」
朦朧とした意識の中で言葉が口を付く。
「いつでもどこへでも行けるんだろ?その翼があれば」
「我輩にも行けぬ所ぐらいある」
そう言ったヴェントルーの顔は羽の中からは見えなかった。ただただ暖かい羽毛に包まれていることしか出来なくなった私はそこで気を失った。
目が覚めると病室にいて、色んな管に繋がれていた。ナースコールを押すと皆が一様に驚いて駆け寄ってくる。記憶に混濁が見られないか手足に痺れがないかを念入りに聞かれ、その度に問題ないと繰り返し、そのうち見覚えのあるVRCの人間が来て不機嫌そうにベッド脇の椅子に座って話し始めた。
「珍しい疾病に違いないが、なにか不調を感じることは?」
「何か病気が見つかったのか?」
てっきり戦闘による外傷が原因と思っていた私はそう聞き返す。
「吸血鬼化を病気と言っていいなら答えはYESだな」
吸血鬼化と聞いて耳を疑う。そういえば病室に窓はなく、明かりも極絞られたものだった。とはいっても体自体に異常は見られず、何の違和感もない。……違和感がない?
「貴様は戦闘で致命傷に近い傷を負ったようだが、ここに来た時には服が汚れていただけで外傷は見られなかった」
ヨモツザカは猫背でタブレットを叩きながらぶつぶつと呟いた。
「失血は相当なものだったが、外科手術の痕は元より止血剤の塗布も見られない。そればかりか生きているのが不思議な程の血液で息をしている。ここからは推測の域をでないが、恐らく吸血鬼に咬まれたことにより一時的に仮性吸血鬼に近い状態になり、人間ほど体液を必要としなくなった事で、再生が可能になったと同時に失血をただの貧血程度におさめることに成功したのではないだろうか。しかし貴様は吸血鬼にはなっていない。仮性とも違う。これ程まで微量で範囲を絞った吸血鬼化が可能とは、まだまだ研究し甲斐があるものだ」
「咬んだ奴って……」
「さあ?それは俺様の範疇ではない」
口元しか見えない科学者はにやりと笑う。
「ただこの再生能力には一目置く価値がある。そいつにはVRCに来てもいいと伝えておけ」
それからデータを取るとか検査入院とかで1週間程拘束された。少し足元がふらつくがそれ以外は元気なもので退屈を極めた。ヴェントルーに電話をしても通じず、退院日をRINEして初めてこの関係の脆弱さに気がついた。病院の人間によると私を病院に連れてきたのはヴェントルーに間違いないようだった。血液型を伝えてすぐ立ち去ったようで詳しいことは何も分からない。
退院の日にもヴェントルーは来なかった。検査の結果一時的に日光に弱くなっているとかで帰宅は日が沈んでからだった。タクシーに乗って家に向かう途中、なんとはなしに空を見上げると6枚の羽が見えた。
「ここで降ろしてください!」
精算もそこそこにタクシーから飛び降りてヴェントルーが飛んでいった方向に走る。とっくに姿は見えなくなっていたがおおよその見当がついて、私は交差点を右に曲がった。
何度も曲がり角を過ぎるとそこは初めてヴェントルーに会った路地裏だった。以前と変わらず薄暗く埃っぽい匂いが鼻につく。
「病み上がりを走らせるじゃないか」
こちらに背を向けたヴェントルーに話しかける。
「ヴェントルー、なんで電話に出ない?」
「……お前に会わせる顔がない」
「なぜ?助けてくれようとしたんだろう?」
そう言ってヴェントルーに近づいたが、まだこっちを見ない。
「……靴下を返してくれ」
「は?どうして?」
「もう我輩は、お前から離れた方がいい」
「それは許さない」
「我輩は……お前を許可なく吸血鬼にしようとしたのだぞ?!」
後ろから膝裏を蹴り飛ばした。膝をついたヴェントルーから靴下を奪い取り「お前も学習しないな!」と勝鬨をあげる。
「相も変わらずいい匂いだ!」
「貴様……!1度ならず2度までも!」
浅く呼吸を繰り返すヴェントルーの顔をみて、帰ってきたと強く思う。私が望んでいたのはこれだと思う。
「お前、私に吸血鬼になって欲しいのか?」
靴下の匂いを嗅ぎながらそう聞く。
「……わからん。あの時はとにかく必死だった」
ヴェントルーはゆらりと立ち上がる。
「お前がだんだん冷えていって、死ぬかもしれないとそう思って、翼をあげれば死なないし、お前も喜ぶんじゃないかとそう思った。魔が差したのだ。こんなこと……」
言い淀むヴェントルーに続きを促す。
「お前に死んで欲しくないのも吸血鬼になって欲しいと思うのもこっちの都合だ。お前の了解をとっていない以上、お前の翼を毟ることになる。それなのにほんの一瞬、完全に吸血鬼化させようとした。こんな悪魔みたいな奴はお前のそばにいないほうがいい」
「ならんとは言ってないだろう?」
驚いた顔でヴェントルーはこちらを見下ろす。
「選ばせてくれないのだって辛いものだ。私はな、ヴェントルー、恐れよりも愉悦が上回るその瞬間の為に生きていると言っても過言ではないんだ。そのためだったら何だってやる。だけど今吸血鬼になれって言われたらそれは恐ろしいよ。だからこれから楽しい方を選択させてくれ」
帰ろうと言って手を差し出す。ヴェントルーはおずおずと手に触れる。ヴェントルーはかわいい。愛おしいと言ってもいい。多分こいつが居るなら恐ろしい事も楽しいことも何倍にもなるのだとわかっている。それってすごく生きてるって感じがするなあと思いながら、あの日と同じように羽に包まれて私たちは家に帰って行った。