蛍対吸血鬼用の煙草は非常に廉価で下等吸血鬼避けとして広範囲に使用できるので常備している退治人は多い。娯楽と実用を兼ね備えて愛飲している者も多く、私のかつての師匠もそうだったらしい。もっとも家族が増える時にすっぱり辞めてしまったと言っていたから師匠の喫煙を見るのは仕事中数える程だった。
「煙を肺に入れきって吐く息は透明にする方が喫煙家としては粋だけど、退治人としては煙は残したまま吐いた方が効果が大きい。ままならないね」
困ったように笑う元師匠はそう言って煙をくゆらせていた。
月に1回ベランダで煙草を吸う。虫除けだけなら先端を長時間炙って線香みたく焚けばいいだけだが、現場でそんな悠長なことは言ってられず吸う必要性に駆られることは往々にしてある。ライターの調子をみるため、煙草の吸い方を忘れないため、師匠のことを思い出すため。いろんな理由を作ってベランダで煙草に火をつければ独特な刺激臭が辺りに広がり、紫煙が夜空に吸い込まれる。そんなもので徒に寿命を縮ませるなと以前ヴェントルーに言われたことを思い出して笑いが込み上げてくる。煙草よりなにより私の余命を減らしているものは多々あるだろう。
噂をすればなんとやらだ。新月の夜でもその翼は闇に溶けず黒黒と浮き上がって見えた。羽を数回羽ばたかせれば辺りに立ち込めていた煙はすっかり消え、ヴェントルーは忌々しげにベランダに降り立った。
「こんなものなくとも我輩の羽を数枚落としておけば事足りる」
高等吸血鬼に効果はなくとも不愉快には違いないだろう。
「なあに近隣住民へのご挨拶も兼ねてだ。退治人の家の近所で吸血虫が大量発生なんて風評被害も甚だしいからな」
「この辺り一帯に害虫はいない」
「そんなの一般人には分かりようがないだろう?私が責任をもって定期的に防虫剤を撒いてますってパフォーマンスだよ。鈍いなあ」
煙草はまだ長く、先に部屋に入るようヴェントルーに促したが何の気まぐれか付き合うと言う。勝手にしろと煙を吹きかけると涙目になってやめろと言うから面白い。
「知ってるか?煙草の煙を吹きかけるのは夜のお誘いらしいぞ。煙草を教えてくれた人が言っていた」
ヴェントルーは付き合いきれないといった風に一瞥を残し、黙って部屋に入ってしまった。夕食中も黙って食べ進めるものだからいつもの半分の時間で食べ終わってしまう。
「どうした?ご機嫌ななめか?」
食後のお茶を飲みながらそう聞いてみる。
「……別に、そんなんじゃない」
小さな声で呟くヴェントルーは意外と珍しい。照れ隠しや誤魔化しは多いが言いたいとことははっきり言う奴なのだ。
「じゃあなんだ?体調が悪いとか?それなら追い討ちをかけるようなことをしたな」
時々こいつが吸血鬼である事を忘れてしまうが異能の代償なのか弱点や縛りが多い生き物だ。ヴェントルーは鼻で笑う。
「あんなのそよ風みたいなものだ」
「じゃあ他に気になることが?」
ヴェントルーはもごもごと口を動かしていたが、意を決したように口を開く。
「男か?」
「は?」
「男に煙草を教わったのか?」
「男は男だが……」
「……別に過去などどうでもいいが、昔の男の話をするのはタブーじゃないか?」
「昔の男?師匠とはべつにそんな仲じゃないぞ?」
ヴェントルーの顔色が良くなる。いや血色の悪い吸血鬼が人並みになるということは血流が良くなっているのか?
「やきもちか!?ヴェントルー!?やちもちやいたのか!?!」
「うるさい!!!!だいたい言い方が悪い!!!誘い方とか言うからてっきり……!!」
「浮名を轟かせた人だったからな!それで?ヴェントルー、お前は誘いに乗ってくれるのか?」
「うるさい!乗らん!」
がしゃがしゃと食器を下げるヴェントルーの後ろ姿を見ながらにやける顔がとめられない。今夜は絶対頷かせようと決心して残った食器を持っていく。私が毎月決まった日に煙草を吸うのはまだ黙っておくことにしよう。