赤い靴下目が覚めると枕元に靴下がぶら下がっていてすぐに夢だと気づいた。私の蒐集した靴下は別室に保管されていて私物もタンスにしまってある。見覚えのない靴下は素朴な赤い靴下で壁に張り付いているが、そんなところにフックなんてあっただろうかと靴下に触れてみると手がべしゃっと濡れた。よく見るとそれは血塗れで中身入りの靴下だった。
飛び起きるとそこは寝室で、夢かと思って壁を見るとそこは白い壁紙だけがある。濡れた手の感触が残っていてまだ夢の中にいる気がした私は急いでベッドから這い出でるが、暗い室内でゴミ箱を蹴飛ばしてしまい思わず声をあげた。
「どうした?!タビコ!?」
扉が開かれ、どたどたとヴェントルーが駆けてくる。そう言えば夕飯時の時間だ。合鍵をもったヴェントルーが居てもおかしくない時分である。救われたような心地がして、ヴェントルーを見ると、いつにもまして白い顔をしたヴェントルーがそこにいた。
「タビコ……その足はどうしたんだ?」
言われて自分の足を見るとくるぶしあたりまで赤い液体がついた両足があり、私は呆然と足元を見ることしかできなかった。
食卓についたヴェントルーはあの赤い液体は血液ではないと言う。
「吸血鬼の鼻に狂いはない。だが、ただの血糊とも違うようだ」
あの後ヴェントルーは私の足を検分し、私の怪我によるものでは無い事を確認すると洗ってくるように言った。それから冷蔵庫からワインを取り出してから私の足に注ぎ、更に洗うよう勧め、私は大人しくそれに従って食卓についている。
「それで、さっき言っていた夢の話は?」
私は夢の内容を洗いざらい話す。話を聞いたヴェントルーはなかなか困った顔をしたが、すぐに真面目な顔をして、昨晩捕った靴下の出処を聞いてくる。
「靴下の持ち主が関係あるって言うのか?」
「あくまで推論に過ぎないがな。赤い靴下はあったのか?」
昨日捕った靴下は3人分だが、黒2の緑1という配分で、赤い靴下は入っていない。そもそも夢で見た靴下が現実にあるとは思えず半信半疑でヴェントルーを見るが、ヴェントルーはため息をついてこれでお前も懲りればいいと言う。
「人のものを奪うということは他人の思念をも奪い去るということだ。そんなものがこの家には大量にある。恨まれてないなんて口が裂けても言えんだろう?」
「失敬な。私はただ遊んでやっただけだ」
「お前は楽しいだろうが……まあいい。謝罪行脚なら付き合うぞ。たまにはお前がしおらしくしているところが見てみたい」
「なんだかんだ言って心配してくれてるんだな」
ヴェントルーは口をぱくぱくさせたが、結局なんと言ったらいいか思いつかなかったらしい。飯にすると足早にキッチンへ向かうヴェントルーをみて笑っていた時は事態をさほど重くとらえてはいなかった。
その日から妙に視線を感じるようになった。視界の端で誰かが私を見ているのを感じて見やると誰もいない。道を歩いていると後ろからぺたぺたと足音がして、振り向いてみても誰もいない。その足音というのも妙なもので、アスファルトが敷き詰められているというのに裸足でとぼとぼ歩いているような音に聞こえた。追いつかれそうで、追いつかれない一定の距離を保ったままの足音が響き続ける生活に私は嫌気がさし始めていた。誰かと一緒にいれば問題ないが、生憎私は個人で動いているので1人になる瞬間は他人より多い。
誰かといると気配を感じないと聞いてヴェントルーは付き添いを希望したが、昼夜を問わない付き纏いには無理がある。
「ストーカーだか幽霊だか知らないがいい加減にして欲しいな」
苛立ちを隠せずにヴェントルーにそうぼやく。
「話があるんなら恨み言でもなんでも言い分を聞いてやるのにただついてまわるだけなんて気味が悪い」
「向こうも話が通じる奴と思っていないんじゃないんか?」
「あ?」
「……とにかくこちらから持ち主を探しに行った方が早いだろう。顔が広いやつか鼻が利くやつに頼んだ方がいい。持ち主に心当たりはないのだな?」
その晩靴下を盗った相手は全員中肉中背の男で顔立ちは覚えているが名前までは知らない。盗った場所なら把握しているのでそこから絞り出して行くしかないだろう。ヴェントルーに紹介してもらった「顔が広いやつ」はヴェントルー以上に長身の男で、目も口も異様に大きく作り物めいた男だった。立ち会ったヴェントルーに「ほお?!」と目配せする様子を見るに見た目よりも茶目っ気のある奴の様だ。ハントした墓地近くで落ち合って早々「この近くで狩ったとか?」と質問されたのでそうだと答える。
「それなら内1人は同業者だ。深草色のスーツを纏った男に見覚えは?」
「暗くてよく見えなかったが恐らく2人目の奴だろう」
エルダーと名乗った男は可笑しげにほほうと言って顎を触る。
「他2人もきっと下請だろう。専ら火葬されるこの国でいい素材に巡り会う事は皆無だが、核になるものはある」
「核?」
「霊魂だよ」
エルダーは目を剥く。
「容れ物だけならつちくれがあれば私の手で如何様にもなる。だが仕上げに核を入れれば質は格段に上がって耐久性がつく。そんな物を時々ここで仕入れに来ているのだよ我々は」
夜の墓地は街灯の光も届かず、朧げな無数の墓石が行列を成しているように見えた。その一つ一つにかつて人間だったものが入っていると考えると今更ながら薄ら寒く感じる。エルダーは身をかがめて私の目を覗き込む。
「お前の目は魔女の目だ。その筋に流せば高く売れる。どうだ?なにかと入用じゃあないか?私のお墨付きとあらばもっと値は上がるぞ」
「無駄話はそこまでだ」
ヴェントルーが体ごと割り込んでくる。
「さっさとそ奴の素性を話せ」
「おお怖。飼われているとはいっても大鴉の不興ほど恐ろしいものは無い」
けらけらと男は笑って西の方角を指し示し、酒場の名前を口にした。そこに件の吸血鬼がいると言う。
「今度酒でも奢れよ大鴉」
「ふん、安酒を期待しておけ」
「何を言ってる。私は高いんだ」
笑い声をあげた男の体は急に崩れ落ち、跡には一塊の土しか残っていなかった。ヴェントルーは呆れたようにため息を着く。
「彼奴はいつもああなのだ。グールを使い捨てるなんて格好をつけて……」
「でも親切な奴だったな」
「親切?!?」
ヴェントルーは信じられないといった表情を見せたが、思い当たるような節もあったようでむにゃむにゃと口を閉ざした。その日は夜明けも近く、私たちは墓地を後にした。
いかにも場末のバーといった外観の店は暗く、営業中なのかもわからなかったがヴェントルーは看板横の電灯を指さしOPENと書いてあると言う。
「吸血鬼にしか見えない程度の光量で光らせてある。後ろめたいことをしている店でよくある手管だ」
その理屈で言うと吸血鬼しか見えない星なんかもあったりするのだろうか。ヴェントルーがドアを開くと店の中は真っ暗で何も見えなかったが人の気配はした。闇の中から「いらっしゃいませ」と店の者が話しかけてくる。
「お連れ様は昼の方ですね?」
燭台を手渡されると辺りがぼんやりと浮かび上がってくる。暗いこと以外は普通の飲食店と変わりはないように思えた。客が何人か座っているのが見えて、そのうち1人が立ち上がる。低頭な態度を見るに話は通っているようだった。
「こいつに見覚えは?」
ヴェントルーがそう聞いてくる。蝋燭を掲げて顔を見れば、確かにあの日見た顔だった。
「ああ、あの日1番長く追いかけられた。緑色の靴下だったな」
エルダーの同業者は弱々しげに笑いどうも、と挨拶してくる。
「靴下がなくてもさほど困りませんでしたが、あの日は女房に説明するのに苦労しましたよ」
聞けば妻は人間で、靴下を失った経緯を語るに吸血鬼の弱点を一から説明する必要があったようだ。その辺はヴェントルーの方が共感しやすいだろうとちらと奴を見たが、案内役は済んだとばかりに腕組みをして微動だにしない。仕方が無いので他2人の所在を聞いてみるとエルダーの言う通りグール作りを生業とする同業者だと言う。
「あなたと遭遇して我々は撤退しましたが、他の吸血鬼とは会いませんでした。彼らもそろそろこの店に来ます」
見計らったように見覚えのある男2人が店に入ってくる。私より隣にいるヴェントルーに恐れを生した様子の2人は怖々と席につき挨拶を口にする。どいつもこいつも歯ごたえの無いやつばかりだ。
「それで、今夜は靴下を返してくれるんで?」
「ああ」
3足の靴下を取り出す。あまり乗り気にはなれないが、付き纏いを無くすとならば仕方が無い。
「その前にお前たちの中で私に付きまとっていた奴はいないか?」
単刀直入にそう聞く。3人は互いに顔を合わせ、各々首を横に振った。
「靴下を取られたのには迷惑しましたけど替はありますし、さほど苦労はしていません。そもそもこの中に古い血筋を持っている者はいませんので」
その時ヴェントルーは足を組みかえ咳払いをした。その行為が意図的かどうかは分からなかったが震え上がった3人は異口同音に付き纏いはしていないと言う。
「昼間も付け回されたそうじゃないですか。我々は日光に耐性を持ちません。そんなこと絶対に不可能です」
確かに一理ある。否定を繰り返す3人の連絡先だけを控えて私とヴェントルーは店を後にした。どう思う?とヴェントルーに聞いてみる。
「私は嘘はつかれてないと思ったな」
「嘘をつかないのと真実を話すのとは別物だ」
ヴェントルーは足早に歩き、私は追いつくのにやっとだった。
「どちらにせよ、靴下は返したんだ。付き纏いがなくなるのを祈るばかりだ」
私は楽観的にそう言ったが、次の日もその次の日も視線が無くなることはなかった。しかもあれから見ていなかった悪夢が連日続くようになり、睡眠をとることすらままならない。一体全体何なのだろう。夢の中で私は自問自答する。枕元の靴下からは血がぽたぽたと垂れていて、ベッドの上部を赤く染めいていた。正直触れたくはないが、靴下に触れないと夢から醒めないことに何度目かに気づき、私はどうしても逃げることができなかった。せめて夢の中で手がかりを得ようと目を凝らす。シーツを剥ぎ取り手にぐるぐると巻いて、靴下に触れないよう手を伸ばす。ゆっくりと壁から靴下を剥がし、裏側を覗き込むと血に汚れていない箇所が見えた。その色は緑色をしていた。
息を切らしてベッドから起き上がる。時刻は夕暮れ時でいつもなら仕事が始まる時間だ。吸血鬼にとっては早朝になる時間だが、気を急いた私は電話を手に取りエルダーの知人に電話をかけた。コール音が10回ほど鳴り響いた後、眠たげな声が電話から聞こえる。
「私だ。靴下コレクションだ」
「ああ……あなたでしたか」
まだ本調子でなさそうに相手は言うが私に構う余裕はなかった。
「お前、付き纏いに心当たりがあるんじゃないか?」
相手は無言だったが、私は畳み掛ける。
「私は付き纏いのことをエルダーに話したが、昼も夜も付き纏われたなんて言ってない。誰から聞いた?」
長い沈黙があった。電話を切られたんじゃないかと思う程だったが、有耶無耶にしないよう辛抱強く待ち続けると、妻が、と電話からか細い声が聞こえてくる。
「妻?人間だって言うお前の妻か?」
「ええ、どうしてだか様子がおかしくって、聞いてみたら私の靴下を取り返そうとしているって言うんです。だけど私は困ってないし、そもそもこの間靴下は返されたからそんな事をしなくていいと言っても、まだ返されてないってぶつぶつ呟くんです」
真っ先に疑ったのは靴下の取り違えだが、私に限ってそんなことは起こるはずもなかった。思わず頭を抱えると、ぼと、と何も無い空間から何かが落ちた。見ればそれは赤い靴下で夢の中で見たものと寸分違いもしなかった。あまりの事に絶句していると手の中の携帯から「もしもし?もしもし?」と声が聞こえる。
「……ああ、なんでもない。お前の妻は今どこにいる?少し話がしたい」
「妻は看護師で今は夜勤中なんです。戻ったら連絡させますので……」
「どこの病院だ?」
これ以上赤い靴下と空間を同じくするのに耐えられなかった。靴下からは血が滲み続け、ベッドのシーツは見る見るうちに血に染っていく。私の剣幕におされたように相手は新横浜の病院名を口にした。
台所にあったビニール袋を手に嵌めて靴下に触れないよう袋に入れる。念の為二重にした袋に入れ、靴下を手に私は家を出た。
夜道を走る。病院は歩いて20分程の場所で大凡の場所は分かるが詳細な地理を調べようと携帯を取り出すとエルダーの知人から電話が掛かってきたのでとる。
「今どちらですか?」
逼迫した様子の相手が言う。
「どこって、病院に向かってる途中だ」
雨上がりの街は霧が煙っていてどうにも方角が掴みづらい。歩きながら相手と話す。
「今妻が帰宅したんです。体調が悪くなったとかで当番を代わってもらったそうで。なので病院に行っても無駄足になるのをお伝えしたくて」
「そうか」
ポケットに入れた靴下に手を伸ばす。しかし手に触れたのは空っぽのビニール袋だけで、どこを探しても靴下が見当たらなかった。してやられたと不意に思う。
「タビコ」
ヴェントルーの声がして顔を上げようとした。街灯のスポットライトが二本の脚を照らしだし、そこに見覚えのある靴下が見えたがその靴下は左右同じ柄の靴下であった。その事実に気づいた瞬間、目の前の人物がヴェントルーでないことを理解する。
「タビコ」
声色だけはいつもと変わらず、その事がより一層の恐怖を際立てた。顔を上げてはならない。そいつの顔を真正面から見てはならない。本能的にそう感じて俯いたままじっとしていると、その2本の脚がにじり寄って来るのが見えた。私に近づいていく速度に合わせて後ずさるが、すぐに行き止まりだ。
電話のキャッチが入った音がした。声を出さずに電話を操作すると、タビコ、とヴェントルーの声が聞こえてくる。こいつは本物のヴェントルーなのだろうか。
「タビコ、応えなくてもいいから聞け」
2本の脚が近づいてくる。
「そいつはお前の眼を狙っている。決してそいつの顔を見るんじゃない」
咄嗟に目をつぶろうとするが、ヴェントルーの声が響く。
「かといって目を閉じても無意味だ。見るな、だがしかと見ろ」
視界に入る脚を見る。細い足は揺らぐようにその姿を変えて靴下はさっきと違う水玉模様をしていた。全て幻覚のように思えたが、夢の中の靴下に中身が入っていたことを思い出す。右か左どちらかが本物でどちらかが幻影だ。私はそいつとの間にある水たまりに手持ちの十字架を投げ込んだ。自分の立ち位置を調整し、そいつが水たまりに足を踏み入れるのを待つ。やがてそいつが水たまりに足を踏み入れると右足から白い煙が立ち上った。私は銃の照準を右足に合わせ、引き金をひいた。
甲高い悲鳴が耳の中で鳴り響いた。思わず耳を塞いだがその断末魔は頭の中で直に響き、それでも目を閉ざすまいとそいつの足元を見続けると奴が片膝をついたのが見えた。その時奴の後頭部が見え、そいつが顔を上げようとした刹那、黒い翼が私の視界を覆った。
「我が姿を借りるとは不遜甚だしいわ」
ヴェントルーは怒気を含んだ声で言うが耳鳴りは止まない。
「諦めろ。貴様には渡せない」
ヴェントルーは転がっていた十字架を手にした。銀製の十字架に触れれば当然ヴェントルーの手が焼ける。そんな事にも意を介さずヴェントルーは十字架を奴の頭上にぶら下げて手を離す。引力に従って落下した十字架は鈍い音をたててそいつの頭に落ち、ふっ、と立ち込めていた霧が消え去った。周りを見渡すと私とヴェントルー以外に誰もおらず、辺りは普段通りの静寂な夜の街だった。
「珍しく無様ななりをしているじゃないか」
ヴェントルーは私の手をとり引き上げる。
「……悪かったな。手に怪我させた」
ヴェントルーは両手を広げて見せたがそこに傷跡は見当たらなかった。
「どうしてここに?」
「エルダーが吐いたのだ」
ヴェントルーは忌々しげに手をはたく。
「あやつ、薄々正体を察していたが、面白そうだし商売に繋がりそうだとかで黙っておった。靴下の持ち主しか聞かなかっただろうとか抜かすから、倉庫にいくつか巨岩を落としてやってたら遅くなった」
「なにやってんだ」
「単なる憂さ晴らしだ。お前こそ大事無いか」
「ああ」
安堵の表情をみせたヴェントルーは話し始める。
「お前は人間に付きまとわれていたのと同時に墓場で悪いものに目をつけられたようだ。最終的に人妻も乗っ取られていたようだが、便乗していたようだし同情には値せん」
ヴェントルーが足元を見たのにつられて地べたを見るとそこには脛骨に似た1本の骨があった。ヴェントルーはその骨を道端の烏に咥えさせて鷹匠のように飛ばせた。
「これで倉庫の修繕費ぐらいにはなるだろう。帰るぞ」
「ああ。助かったヴェントルー」
「ふん。靴下を取り返す前にくたばられたら困る」
「靴下は一生私が守っているから安心しろ」
「……まだ返す気にならんのか」
小言を言い続けるヴェントルーと水たまりを踏みながら帰路につく。雨上がりの街に街灯が煌めき水たまりに映った光と相まって私たちはまるで星空の中を歩いているようだった。