哀々傘 ◇◆──────────
別に、傘なんて要らなかった。
「今日は大雨が降るのか……」
今朝、キッチンに立つ臣さんが言った。
「へー。夕立ってやつ? 長い傘持って行ったほうがいいな」
俺がそう言うと、独り言のつもりだったらしく、臣さんは少し驚いていた。
「まぁ、莇たちが帰る頃には止んでいるかもしれないが。もし降られても、寮のLIMEに連絡すれば、誰かしら車を出してくれると思うぞ」
「子供じゃねーし、そこまで甘えなくても平気。でも、ありがと」
「はは、そうだな。ほら、今日の弁当だ。九門の分も」
「サンキュ。忙しいのにわりーな」
いつも通りなら少し余裕を持って朝食を摂れる時間だったが、今朝の九門は日直で早く出なければならないからと、既にテーブルについてトーストを頬張っていた。だから、俺と臣さんの会話は聞いていなかったと思う。
俺はわざわざ九門の元へ行って、弁当を置いてやった。
「はよ。これ弁当」
「やったー! 臣さーん、ありがとー!」
朝からよくこんなにでかい声が出るものだと思った。
「寝癖ひでーから、歯ァ磨くとき直してやるよ」
「マジ⁉︎ ありがと、急いで食うね!」
寝癖がついたまま慌てて朝食をかき込む姿は、さながら子犬のようだった。俺はわざわざ九門の元へ行ったのに、大雨のことは言わなかった。奴はよほど大事な予定があるとき以外は天気予報など見ないタイプだ。おそらく置き傘もしていない。でも、傘を持って行ったほうがいいことは、言わなかった。
宣言通り、九門が歯を磨いている間に寝癖を直してやった。霧吹きで濡らして、ご丁寧にドライヤーとコームも使って。おまけにワックスとスプレーでほんの少しだけ固めた。湿気で広がらないように、多少濡れても崩れないように。別に、そんなことする必要はなかったのだけれど。
「莇ありがとな! じゃ、また学校で!」
そう言って九門は風のように寮を出て行った。傘を持たずに。
俺も今日に限ってなぜか早く起きてしまって準備はほぼ終わっていたし、九門に合わせて一緒に出ることも可能ではあった。しかし九門が「先に行く」と言っていたから、俺は九門が寮を出てからも無駄に洗面所に居座って、毛先をアイロンで整えたり、オイルを少し付けたりした。
用もないのに早く行く必要はない。別に、いつも一緒に居なければいけないわけではないし。
そして俺は普段と同じ時刻に寮を出た。空は真っ青で雨なんて降りそうに見えなかったけれど、天気予報のアプリで確認したら、確かに昼過ぎから雨のマークが付いていた。だから俺は寮に置いていた頑丈な傘を忘れずに持ち出した。
こんなに晴れているのに雨傘を持っているのは俺くらいなんじゃないかと思ったが、登校中に見かけた同じ制服の生徒のうち三割くらいは長い傘を片手に持っていた。あいつらは多分、普段からまめに天気予報を見るタイプなんだろう。
俺も彼らと同じタイプのような顔をして歩いたけれど、実際のところ臣さんに言われなければ雨傘なんて持ってこなかった。第一、長い傘を持って歩くのはあまり好きじゃない。日傘が持てなくなるし、何より重くて邪魔だ。でも今日は大雨が降るから、あいつはどうせ傘なんて持っていないから。だから持ってきた。
三時間目が終わったあたりから、窓の外がだんだん暗くなってきた。四時間目の途中からは雨の音が聞こえ出して、チャイムが鳴ったときには激しい雨音が教室の中まで響いていた。今日は屋上が使えそうにないけれど、どうしようか。
LIMEで九門に連絡を取ろうとしたら、既にメッセージが入っていた。
【今日雨だから屋上行けないね!】
【たまにはクラスの奴とお昼食べようかな! それでもいい?】
メッセージを見て、一瞬手が止まった。心臓の中に冷たい水を差し込まれたような嫌な感覚がした。別に、何もおかしなことはないのに。いつも一緒で居なければいけない理由なんてないのに。
【わかった】
そう送るしかなかった。
イヤホンを耳に挿して自分の席で弁当を食べようとしたら、クラスメイトの一人が「あれ、今日はここで食うの」なんて言ってきた。
「今日雨降ってて、屋上使えねーから」
「あー、いつも屋上で食ってんだ。他のクラスの奴と?」
「いや、九門……あ、えーっと、同じ寮に住んでて、三年の」
「兵頭先輩だろ? 知ってる! ほんと仲良いよな」
流れで、話しかけてきた奴らと一緒に昼飯を食べることになった。みな俺たちの劇団のことを知っていて、その話を振ってくれた。彼らはMANKAIカンパニーの演目はクオリティが高い、と口を揃えて絶賛した。
気を遣われている、と思った。それに気づかないふりをしてものすごく謙遜しながら食った弁当は、臣さんの弁当なのに、いつもより味がしなかった。
午後の授業中も雨は降り続いていた。気圧のせいか、なんだかすごく眠くなって、普段は滅多にしないのに、つい居眠りをしてしまった。気がつくと授業は終わっていて、ノートには字として識別できないようなぐにゃぐにゃの線が散らばっていた。俺は舌打ちしながらそれらを消しゴムで消した。
隣の奴にノートを借り、聞き逃したところを写し終えた頃には、六時間目の始業チャイムが鳴っていた。九門に連絡しようと思っていたのに、スマホを開く時間がなくなってしまった。
胸がざわつくような妙な感覚を覚えながら授業を受けた。今度は舟を漕ぐことはなかったし、板書も全て写したけれど、授業内容が頭に入っている気がしない。
スマホが気になって仕方がなかった。しかし、授業中にスマホを弄っているのがこの教科の教師に見つかると、容赦無く取り上げてくるし、職員室まで謝りに行かないと返してもらえない。つい三日前に俺の前の席の奴がやられたばかりだ。そんなダサいことはしたくない。だから、耐えた。
一時間に満たないはずの授業時間が永遠のように感じられた。雨音は徐々に小さくなっていく。頼むから止んでくれるなと思った。九門は傘を持っていないはずだから。
六時間目の終業チャイムが鳴った頃、かろうじてまだ外は薄暗かった。室内からは確認できないけれど、多分、まだ降っている。ショートホームルーム中に鞄の中でスマホを開いた。九門からはまだ連絡が来ていなくてホッとした。
【雨降ってるけど、お前傘持ってんの】
打って、送信した。数秒待ったけれど既読マークは付かなくて、ホームルーム中だというのにため息をつきそうになった。おそらく授業が長引いているんだろう。自分を納得させて、一旦スマホを机に伏せて置いた。
ホームルームが終わって、部活のある奴らが練習着を持って教室を出て行っても、九門からは連絡が来なかった。まだ雨が降っているようだけれど、空は明るくなり始めて、早くしないと雨が止むじゃねーか、と苛立った。そんなことで苛立っているのがなんだか嫌で、振り払うように机に突っ伏して目を閉じた。
それから十五分ほど待って、やっと返事が返ってきた。
【ごめんスマホ見てなかった! 折りたたみ持ってる! でも止んだみたい】
【あと、今日山口たちと放課後遊ぶことになった! 先に帰ってて!】
「また学校で」って、言ったじゃねーか。
教室に誰も居なくなっているのを確認してから、肺いっぱいに空気を吸い込んで、思いっきり吐いた。深呼吸というには投げやりで、ため息というには深すぎる。水滴のついた窓を開けてみたら、綺麗な夕焼けが広がっていて、もう雨音なんて少しも聞こえない。
別に、約束なんてしていない。九門は少しも悪くなくて、おかしいのは俺のほうなんだ。
先に帰れと言われたけれど、下駄箱でばったり鉢合わせたら、俺が長い雨傘を持ってきていたのがバレる。俺はそれからさらに二十分、教室で適当な音楽を聴きながら、何を考えるでもなく、ただぼうっとして時間を潰した。
具合が悪いわけでもないのに少し足を引きずりながら教室を出て、一年の廊下を無駄にだらだらと歩いた。体育館の方から、ボールの跳ねる音や部活に励む生徒たちの声が遠く聞こえていた。
昇降口の傘立てに入れた雨傘はやっぱり重くて、これを寮まで持って帰らねばならないのかと思うと憂鬱だった。今日は一人で帰るから、イヤホンは耳に挿したままだ。
この雨傘は骨がたくさん入っていて、ちょっとやそっとの雨風ではびくともしない。それに、広げるととても大きくて、人ふたりくらい余裕でカバーできるのだ。
でも、こんなもの必要なかった。
校舎から出ると、恨めしいくらいに晴れていた。
邪なことばかり考えていた罰だとでも言うように、西日が俺を貫いてきた。
今日は、寮まで一人で帰る。
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