屋上で「待ち合わせ」◇◆──────────
最近の泉田莇は、少し「変わった」。クラスメイトたちは口には出さないまでも、皆なんとなくそう思っている。
ある男子生徒はたった今、泉田莇の「変化」を目の当たりにしたところである。
「んで、こないだ彼女と……」
「おい、後ろ!」
彼は週末のデートでガールフレンドがいかに可愛らしかったかを自慢していた。彼を嗜めたのは話を聞いていた友人の一人だ。
「あっ、泉田いたのか! わり……」
この男子生徒は以前、長く片想いしていた今のガールフレンドと交際を始めたことを上機嫌で語っていたとき、顔を真っ赤にした莇に「破廉恥だ」と怒られてしまったことがある。泉田莇の硬派すぎる「信念」について知って以来、彼は莇の居るところで恋愛の話をしないよう気をつけていたはずだった。しかし今日は話に夢中になりすぎて、近くに莇がいることに全く気がつかなかったのだ。
「いや? 別に聞いてなかったし」
しかし、慌てて謝った男子生徒に対し、莇は狼狽えるでもなく、そう答えた。
「そ、そっか……?」
男子生徒と友人たちは、莇の予想外のリアクションに顔を見合わせた。
やがて短い休み時間の終わりを告げる鐘が鳴り、男子生徒は首を傾げながら自分の席へと戻った。
「泉田莇」という名の生徒はとある劇団に所属する役者であること。彼は劇団でメイク担当も兼任していること。そして彼は超の付く純情で、恋愛に関する話にめっぽう弱いこと。決して本人が広めたわけではないが、なぜか「泉田莇」に関するこれらの情報は今や学年中に知れ渡っている。
さらに彼と同じクラスになった生徒たちは、ふたつ上の代に、泉田莇と同じ劇団所属の元野球部エースがいることもよく知っている。莇とその「先輩」はとても仲が良いということも。
その莇が少し変わってきたかもしれない、と囁かれ始めたのはひと月ほど前、長期休暇が明けてからだ。
ある女子生徒は、莇にアイメイクのアドバイスを頼んだ。莇が「どこへ、何をしに行く時のメイクなんだ」と、嘘は許さないとでも言いたげな真っ直ぐな眼差しで尋ねるので、「彼氏とデートに行くときのメイク」だと正直に話した。彼女は莇を困らせてしまう、と焦ったが、予想に反して莇は少し微笑んで「わかった」と言った。それだけでなく、一通り教えた後に「楽しんでこいよ」という一言まで添えたのだという。
またある男子生徒は、校内でガールフレンドと手を繋いで歩いていたところ、後ろから「わり、通る」と声が聞こえ、気づいたときにはハーフアップの黒髪が彼らを追い越していたという。うっかり手を離すのを忘れてしまったが、莇は特段怒ったり慌てたりする様子はなかったらしい。
一人の少年の言動としては何もおかしくないが、あの泉田莇のこととなると、それは小さいながらも確実な「変化」だった。彼に一体何があったのだろう。女子たちの間では一瞬にして、男子たちにも少しずつ、莇の変化についての噂が広まっていった。しかし、変化の理由が一体何なのか、誰一人知る者はいなかった。
昼休みになればすぐに屋上に行ってしまい、放課後のチャイムが鳴った直後には教室を出て颯爽と下校してしまう莇を、捕まえて話を聞くことができなかったからだ。────否、正確には、莇を呼び止めることが「憚られた」。なぜなら教室を出るときの彼の表情が、それまで見たこともないくらい幸せそうだからだ。
何があったかはわからないが、彼にとってきっと良いことに違いない。それなら問い詰めたりしないで温かく見守ろうではないか。これが「泉田莇」と同じ学び舎で短くはない日々を過ごしてきた彼らの出した結論だった。
◇
四時限目の最中、莇の左ポケットに入れたスマートフォンが二回震えた。数学の教師は年配で耳が遠く、その音には気づかない。莇は右手で板書を写しつつ、左手で端末を取り出す。教師がしばらくこちらを向かないことを確認して、机の下で画面を点けた。
通知は九門からだった。開くと、「おつかれ」と言っている犬のキャラクターのスタンプと【今日、お弁当?】とのメッセージが来ている。
あまり長くスマートフォンに触っていると、教師に見つかってしまう。莇は「べんとー」とだけ打って、変換せずにそのまま送信した。ポケットに仕舞ったあとも何回かバイブレーションが鳴ったが、授業が終わるまであと十五分もなかったから、今度は開かずにそのままにした。
莇の今日の昼食は、臣特製の弁当だ。中身は聞いていない。普段は購買を利用することが多いが、今朝、仕事が休みだという臣が学生組に弁当を作ると申し出たので、お言葉に甘えた。聖フローラ高校に通う幸と椋も、今日は莇より遅く寮を出た九門も、同じ弁当を持って登校したはずだ。莇は鞄の中でずっしりと存在感を示す弁当箱を開けるのを、朝からずっと楽しみにしていた。
黒板の右上に掛けられた時計の秒針を目で追って、まだかまだかと待ち続けた。チャイムが鳴り始めると同時に鞄から弁当箱を取り出し、鳴り終わる頃には教室から出ていた。
浮かれているな、と莇は自分で自分に苦笑する。屋上への階段を上りながらスマートフォンを開いて、届いていたメッセージに返信した。
片手に持っていたスマートフォンはフェンスに立てかけて、弁当箱の包みを開いた。莇の弁当箱は九門と同じ種類の色違いだ。
「せー、の」
九門と同時に、弁当箱の蓋を開ける。わあ、という感嘆の声すらも重なって、二人で笑った。少しも焦げのない卵焼き、鮮やかな緑色のほうれん草のソテー、真っ赤なミニトマト、脂の乗った焼き魚、わざわざ飾り切りにしてあるにんじん。アスパラガスの肉巻きは、四角い弁当箱の対角線を大胆に区切っている。二段目には具沢山の炊き込みご飯が敷き詰められていた。
同じ弁当のはずなのに、九門は莇のも見せて見せて、と言った。莇は九門に見えるように弁当箱を掲げてみせた。
「いただきます」
弁当箱を一度地面に置いて、九門と一緒に手を合わせる。九門が箸を持つのを確認してから、莇も豪華な昼食に手をつけた。
同じ弁当を食べながら、色々な話をした。学校のこと、団員たちのこと、次の公演のこと、話題は次から次へと移っていく。散々話し尽くして、莇の弁当箱に残ったのがミニトマト一つだけになった頃、九門が言った。
『次の土曜日、空いてるって言ってたよね。デートしない?』
莇が箸で掴みかけたトマトは、再び弁当箱の中に転がり落ちた。九門からはちょうど見えなかったようだ。
「デー……遊びに行くってことだろ。いいけど」
『デートだよ、デート! 二人だけで一緒に出かけるのはもうデートじゃん。付き合ってるんだし!』
「おい、声がでかい」
『莇イヤホンしてるじゃん』
莇は反射的に耳に挿したワイヤレスイヤホンを触った。持ったままの箸とぶつかって軽い音がした。
「あー、じゃなくて、そっちの周りに聞こえんだろって」
『大丈夫大丈夫、ここ今人少ないし!』
食べ逃したミニトマトを今度こそ摘んで口に入れたとき、予鈴が聞こえた。
「俺、もう戻る」
『え、高校の昼休みって短い!』
「お前、毎日それ言ってる。てか去年は九門もこの休み時間だっただろ」
『そうなんだよなぁ、慣れって怖いな!』
「……あんま慣れすぎんなよ」
『なになに⁉︎ 聞こえなかった!』
弁当箱は、空になると二段目を一段目の中に収納できるようになっている。綺麗に片付けて、莇は画面の中の九門に笑いかけた。
「なんでもねーよ。じゃ、また後で」
『もう⁉︎ あー、オレもつく高戻りたい!』
「言ってろ。土曜のこと、後で決めようぜ」
『うん! オレ次空きコマだから、プラン練っちゃお!』
「楽しみにしてる。じゃあな」
『午後の授業頑張れ〜!』
赤く光る円をタップした瞬間、莇は一人になった。去年までは屋上を出て階段を降りてそれぞれの教室へ向かうまでは一緒に居られたから、比べてしまうとどうしても物足りなく感じる。イヤホンは挿したまま、先ほどまで恋人を映していた端末で音楽を流した。
軽くなった弁当箱をぶら下げて、一人で階段を降りる。耳に流れ込んでくる歌詞は恋を歌っていて、少し前まで歌詞をなぞった瞬間に顔を真っ赤にしていたような内容だ。しかし今は歌われている言葉を自分のもののように感じることができる。自分自身の変化に一番驚いているのは他でもない莇自身だった。
早く放課後になってほしい。早く学校を出て待ち合わせ場所へ向かいたい。早く、会いたい。これらの感情を抑え込むのが案外難しいことを、齢十六にしてようやく知った。上がりそうな口角をなんとか一文字にして、呼吸を整えてから、莇は教室に入った。
その姿をクラスメイトたちに温かく見守られていることなど、莇は知る由もない。
──────────◆◇ おわり