Can't take my eyes off you◇◆──────────
ベッドの上に寝転がると、視界には天井しか入らない。いつもなら、布団に入って目を瞑れば数分で眠りに落ちる。しかしこの日ばかりは、莇の意識はなかなか休んではくれなかった。
今日の帰り道で同じ制服を着た年上の友人に告げられた言葉が、いつまでも脳内にリフレインしていた。眠れない理由はこれだった。
枕元に置いたスマートフォンで確認すると、時刻は二十一時四十分、入浴は済ませたし、宿題も終わらせてある。スキンケアも完璧。二〇六号室で酒盛りをしている左京は、あと三時間は帰ってこない。
入眠までの時間を考えると、このまま自然に意識が遠のくのを待つべきだが、どうにも自分の心臓の音がうるさかった。
莇は少し前に上ったばかりの梯子を下りて、部屋の電気を点けた。黄色いメイクボックスからネイルケアセットを取り出し、ローテーブルに置く。
他人の顔に触れることの多いメイクの仕事を志すなら、自分の爪を綺麗に保つのは当然のことだ。
初めは爪切りで短く整えていたが、それではどうしても切り口が尖ったり、二枚爪になったりしやすい。そのことに気づいてからは、時間をかけて念入りに整えるようになった。ネイルケアセットを購入したら表面を整えるための用具も付いてきたので、ついでに表面も磨いている。
あくまでモデルの顔を傷つけないために始めたことだけれど、幸や東はよく気づいて褒めてくれる。莇はその度に自分の努力が認められていることが嬉しくて、誇らしくて、満たされた気分になるのだった。
いつしか、爪を整える時間は、莇にとって気持ちも整う時間になっていた。爪を綺麗にすることに集中すると、不思議なことに心のざわめきが静まっていくのだ。悩み事や心配事が消えるわけではないが、それを受け止めることができるようになる、そんな時間だった。
ネイルファイルは爪に対して四十五度の角度で当て、一定の方向に動かす。時折離して見て、左右対称の滑らかな弧を描くように、少しずつ形を整える。慎重に甘皮を処理したら、表面をネイルポリッシャーで滑らかにしていく。磨きすぎると爪が薄くなって、割れやすくなるので注意が必要だ。最後に、根元に少量のネイルオイルを塗布して、指先のマッサージをしながら馴染ませる。
「よし、こんなもんか」
莇は手入れの済んだ両手を照明にかざした。凹凸なく整えられた十本の爪は、光を反射してつやつやと輝く。今回も満足のいく仕上がりだ。
爪を整えたことに、彼は気づかないだろう。それで良かった。ネイルオイルの優しいジャスミンの香りが心を静めて、眠気を誘ってくる。
莇はベッドに戻った。告げられた言葉は変わらず莇の頭の中にあったけれど、それはもう莇を悩ませる言葉ではなく、ただ優しく響くだけになっていた。莇も同じ気持ちなのだ。何も心配することはない。もう大丈夫、眠れる。
二十二時十五分、シンデレラタイムの始まりを少しだけ過ぎて、莇は無事に意識を手放した。
翌日は金曜日で、莇が起き上がると、隣のベッドの上は掛布団が几帳面に整えられていた。既に起床したのか、昨夜から二〇六号室で潰れているのか、先ほどまで深い眠りについていた莇は知る由もない。
「どうでもいいけど、今度抜き打ちで肌チェックしてやろう…」
梯子を下りながら独り言をつぶやいた。
「莇おはよ!」
「…はよ、寝ぐせひでーな」
洗面所で顔を拭いている九門に会った。薄紫の猫っ毛は、後頭部がぴょん、と跳ねていた。それを見たら、思いのほか自然に会話することができた。
「えっ!どこどこ?」
九門は鏡で確認しようと左右に頭を振る。跳ねた毛束がぶんぶんと揺れるのを見て、莇は笑った。
「はは、後で直してやるよ」
「ヨロシャス!」
九門がおどけて元気よくお辞儀をする。莇はまた笑って「早く化粧水つけろ」と九門を押しのけた。
ヘアバンドを付けて、水道をひねる。ぬるま湯になるまで待つ間に、莇は九門が教えた通りにスキンケアを済ませていくのを横目でこっそり見た。化粧水、乳液、日焼け止め…
「よし」
「え、何?見てたの?怖いよ莇ぃ」
隣から聞こえる声を無視して、莇はちょうどよい温度になった水で顔を濡らした。ネットで洗顔料を念入りに泡立て、手のひらに取って顔に乗せる。鏡を見ると、九門は使ったタオルをバスケットに放って、洗面所を後にするところだった。
──────と思いきや、シャカシャカと戻ってくる音がする。顔じゅうを泡に覆われた莇は瞼を閉じた暗闇の中で、こいつ何か忘れ物をしたのか、と案ずる。
「莇」
耳元にささやく声がして、驚いた莇はぴくりと肩を震わせた。
「今日、学校終わったらデート、しよ」
「んん⁉」
「耳赤くなってる、かわいい」
泡で目も口も閉ざされて、何も言えない。見えていないのに、九門の視線を感じて余計に耳に熱が集まる気がした。慌てて流水で洗い流すと、足音はまた遠ざかっていった。
莇が顔を上げたときには、既に洗面所に九門の姿はなく、鏡には頬まで赤く染まった自分の顔が映っていた。莇はぬるま湯を冷水に変えて、もう一度顔に当てた。
火照りが冷えるまで、思いのほか時間がかかってしまった。
九門の寝癖は、制服に着替えて朝食を済ませた後に、アイロンで整えてやった。少しだけ時間があったので、やりすぎない程度にセットしたら、九門はわかりやすく喜んだ。
「かっこいい?」
「俺がセットしたんだから、当たり前だろ」
「ありがと、莇。デート楽しみだね!」
「デ…!放課後に遊びに行くだけだろ、前までやってたことと変わんねえじゃん」
「変わるよ!今日からは、莇と二人ですることはぜーんぶデートだもん」
莇はまた何も言えなくなって、顔が熱くなるのを隠すように、乱暴にヘアアイロンのコードを引っこ抜いた。
九門はコードを束ねていく莇の指先を見つめて、「莇、爪綺麗だね」と呟いた。九門には珍しい、ほとんど独り言のような、つい口から漏れたような一言だった。
「…いつも整えてるからな」
「そっか、メイクアップアーティストになるんだもんな!」
「なんでお前がそんなに嬉しそうなんだよ」
「莇が嬉しそうだから」
九門は莇を見上げる。瞳が輝いているのは明るい洗面所の照明が反射しているからなのに、莇にはその視線が眩しくて、つい目を逸らしてしまった。
「バカ、もう行くぞ」
「うん!」
玄関を出ると、冷たい空気が二人の頬を刺した。莇はパーカーの袖を伸ばして、指を丸める。
「昨日さ!」
九門が口元を覆っていたスヌードを下げて言った。
「あ?」
「OKしてくれて、ありがとう」
「…ああ」
「好きだよ」
「…それは昨日聞いた」
「毎日言うよ、毎日何回でも言うもん」
莇は九門とは反対に、口元をマフラーに埋めていく。
「わかってるから、いいって」
「オレは何回でも言う、だから莇も、オレの半分でも、十分の一でもいいから、思ってることちゃんと言ってね」
寒いはずなのに、九門の声も視線も暖かく莇の心を包んでいく。何か、何か返さないと。莇は返す言葉を探した。
「九門」
「なに?」
「俺も、」
「うん」
「……あー、その、似合ってる。髪型。かっこいいじゃん」
「…ありがと!」
莇は心の中でごめん、と謝った。
いつか、自分からもちゃんと伝えられたら。九門はきっと待ってくれるはずだ。それまでは行動でできるだけ示していこう。
パーカーの袖に仕舞いかけた指先を出して、莇は九門の袖を掴んだ。
「ん」
「あ、莇⁉︎」
「向こうの角曲がるまでな」
九門は自分に向かって差し出された手を数秒見つめて、その意図を理解すると「莇ぃ!」と叫んだ。
指と指を交差させて、しっかり離れないように。莇の右手の親指に、九門の親指が重なった。カーテンコールで礼をするときとは、手の重ね方が違う。
繋がった手に視線を落とすと、昨日磨いた爪がきらりと光った。
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