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「老温、思ったんだが…兄弟子に『阿絮』と呼ぶのはどうなんだ?」
「そう?ちゃんと外では『師兄』と呼んでるから問題ないかと…でもわかった。ではこれからうちでも『師兄』と呼ぼう!これでいいだろ師兄。」
「え…あ、あぁ。」
────いやいやそこは、『やだ、阿絮って呼ぶ。』って言わないといけないだろ所だろ?今回にかぎってなんで聞き分けがいいんだ。
からかうつもりで話し始めただけだったのに、あっさり呼び方を改めてしまった老温に何も言えなくなってしまった。
でも俺の名前を呼べないなんて、あいつが耐えられるはずがない。放っておけばきっと数時もぜず何事も無かったように『阿絮』と呼び出すだろう。
と、軽く考えていた。
「今日は何が食べたい?師兄。」
「師兄、汁物の味を見てくれないか?」
「師兄、酒は温めるか?」
それから日が暮れるまで、老温は『師兄』と呼び続けた。しかも一度も言い淀むこともなく、呼び間違えもせずに。
「師兄は先に休んでよ。ゆっくり休んで。」
夜になり、もう一日が終わろうとしている。『師兄』と呼ばれるたびに構えてしまい、なんだか疲れた。そう呼ばれることは、彼も四季山荘の一員だと言うことを受け入れているということで喜ばしいはずなのだが……やめた、寝てしまおう。寝てしまえば、もうなんと呼ばれようと気付かない。寝てしまえばいい。明日になれば元に戻るだろう。そう、寝てしまえば………眠れない!!
確かに自分で持ち掛けて始まった話ではあるが、落ち着かなくて堪らない。
妙な気分で真ん中の釘傷辺りがむずむずする。このままにしたら良くない夢でも見そうだ。
致し方無い。ここは観念するしかない。床につく前に解決しておいた方がいい。そう思い、自室へ戻ろうとした足を止め、先程まで飲んでいた部屋に戻る。酒と肴を片付けようとしていた老温が不思議そうに此方を見た。
「どうしたの?師兄。」
「…老温。やっぱり、元に戻そう。」
「師兄が言うなら構わないが、一体何を戻して欲しいの?」
─────コイツ…わざとか?
ニヤニヤとしながら「何を言っているかわからない~」という素振りでこちを見てくる。
「師兄の頼みなら何でも聞いてあげたいけど、それもつまらないな。そうだ!賭けをしないか?」
「賭けを?」
「そう、簡単なものだ。ほら!」
そういって老温はきっちりと握った両手をこちらに差し出して見せた。
「どちらかにこの俺がやっと手に入れた堅果が入ってる。師兄が当てたら頼みを聞いてあげる。もし外したら、師兄が僕のお願いを聞く。どう?」
妙な提案だが、賭けに勝つ自信はあるし、何よりもうスッキリ解決して眠りに着きたい。
「わかった。」
「さ、選んで!」
「………こっち。」
右手を指差した。
選べと言った瞬間少し握り締めたの見逃さなかったから、自信はあったのだ。
しかし開いた手に、堅果は…なかった。
「……。」
「残念!師兄の負けだから、僕のお願い聞いてくれるね?」
────何をこんなに落ち込んでいるんだ俺は。
賭けに負けたからだ。決して呼んでもらえないからではない…と自分に言い聞かせる。だが賭けは賭けだ。仕方無い、物凄く気は進まないが一応願いを聞いてみる。
「一体なんだよ。」
「ねぇ、やっぱり『阿絮』って呼ばせてよ。」
「……。」
「やっぱりそう呼びたい。」
────コイツ…これもわざとか?
気に食わない。気に食わないが、内心浮かれている自分がもっと気に食わない。
呼び方をもとに戻したくて、再び自分から言い始めたが、奴の調子に振り回されていた自分を思い返すと、最初からすべて見透かされていたようで気に食わない。しかし、賭けは賭けだ。そう!賭けに負けたのだからしかたない。
「わかった。」
「よし!阿絮~。」
「……。」
「阿絮阿絮阿絮阿絮阿絮阿絮阿絮阿絮阿絮阿絮阿絮阿絮阿絮!」
「なんだよ!呼びすぎだ!」
「随分呼んでなかったから、『阿絮』が溜まってるんだ。」
「は?何言ってるだ。一日も経ってないぞ?」
「阿絮だって一日もたなかったじゃないか。」
「おまえっ!やっぱり気付いてたのか!」
そういうと、ニヤニヤと笑っていた老温が目を丸くしてこちらを見た。
「……ホントに呼んで欲しかったんだ。」
「っ!」
ハメられた。いや、最初から俺が言いたいことにきっと気づいていたのだろうから、腹立たしい。だったら賭けなどとまどろっこしいことなどせずに「元に戻そう」といった時点で乗ってくればいいのに、俺を弄んで楽しむとは……
「いや~そうだといいなぁとは思ったけど、そっかぁ~呼んでほしかったのかぁ、阿絮~可愛いなぁ~!」
俺のモヤモヤとは裏腹に、喜びが溢れんばかりの老温は、頬を包もうと手を伸ばして来た。
「待て。」
「何?」
「お前、堅果はどうした。」
「……。」
「左手、今入ってなかったよな?」
「あ、ははは…バレた?」
「イカサマだ。今のはナシだ!やり直しだ!」
「えーもういいじゃないか、阿絮も同じお願いだったんでしょ?」
「良くない。もう一度勝負だ。」
「…阿絮たまに子供っぽくなるよね。」
「老温。聞きたくないのか?俺が呼んで欲しいってお前頼むの。」
「……阿絮、それもう頼んでるのと同じだし、阿絮が恥ずかしがって途中で頼みを変えるといけないから僕が気を使ったのに…そこまでして勝ちたいの?」
少しばかり見上げ睨み付ける。
目を見る時、この僅かに見上げなければならないのも気に食わない。
「しかたないな、わかったよ。やろうじゃないか。」
「では、どちらかにこの向日葵の種が入っている。」
先程まつまみにしていた種を一つ摘まみ、老温に見せつけてから拳を握る。
俺はイカサマはしていないからな。
「さ、選べ。」
「………こっち。」
「………。」
「阿絮?」
「………。」
「阿絮~、僕の勝……ああ!ちょっと阿絮!!」
握りしめていた拳を合わせ、自分の口に運んび……放り込んだ。
「わかった!君の勝ちでいい!僕の負け!だからほら!そこまでして勝とうとしないでよ!種、出して!殻ごとは体に良くない!!」
種を含み、口を固く閉じた。
別に殻付きのまま一つ飲み込んだからと言って死にはしないのに、老温は唇に親指をあてて開かせようと必死に捏ねる。
「まったく!阿絮。出さないなら無理矢理こじ開けるよ?」
老温がいつもより低い声でそう囁いた。
俺がどうされたいかなんてお前が考えてみろ!そう目で訴えた。
「……。阿絮…」
顔が近づき、口を押し当てられる。何度も唇を食まれ、ふと弛んだ一瞬に舌が潜り込んだ。
種を探して口内を蠢くそれに意識がぼんやりとしてくる。
もう力が入らない口から舌先で器用に種を包み取られ、唇が離れた。
離れてしまうのが名残惜しくて「老温…」と小さく呼べば、つつじの花が一面に咲いたような満面の笑みが再び近付いてきた。
了。