ただしいのかわからないけれど 部屋に入った時から、何だか暗いな、とは思っていた。そういう場所であることはちゃんと分かっていた。エントランスに入る前だって、入った時だって、部屋を選んでいる時だって、ずっと緊張しっ放しだったから。ただ、もっとギラギラした、というか派手な、気恥しい室内をイメージしていたものだから、グレイは拍子抜けした。
回転するベッドだとか、ピンクの壁紙だとか、煌びやかなシャンデリアだとか、そういうものがあると思っていたのだ。まあ、場所によってはそういうものもあるのだろうけれど。少なくとも、自分が今、初めて訪れたそういう場所というのは、ビジネスホテルのような見た目をしていた。多分、じゃなくて、絶対。ビリーがグレイを気遣って、綿密に調べあげ、少しでも緊張しないであろう部屋を選んでくれたのだろう。
本当に普通のホテルみたいだ。普通の基準、というのは分からないけれど、ラブホテルか、そうじゃないか、という判断においては、ラブホテルには見えなかった。でも、妙に古めかしいカラオケ付きのテレビだとか、分厚いカーテンの向こうにあるガラス張りのシャワールームだとか、ベッド脇に置かれた用途不明──ということにしておきたい──の電気マッサージ器だとか。細かいところを探るほどに、ああ、そういうことをする部屋なのだな。そう思わされた。今、グレイとビリーが向かい合って座っているベッドだって。大の男2人が乗っても場所に余裕がある、クイーンサイズのベッドだった。
部屋の扉を開いて、室内を見学して。グレイ、グレイ。なんて明るくて耳心地の良い恋人の声は、ずっとはしゃいでいた。ずっと笑顔で、緊張なんて色が見えなくて。今日が来る3日前から緊張していた自分とは、大違いで。6つも歳上なのに、と落ち込んでしまう。それでも、シャワーを浴びて、2人でベッドに上がって、いざ。というところまでくると、ビリーはいつも隠されている青い双眼を白いシーツの方に向けたままで、俯くグレイと同様、黙り込んでしまった。
「あの……」
しじまの中にいた。そうして、このままではダメだと思って、グレイは顔を上げる。同時に、ビリーも顔を上げて、ふたつの声は重なった。あ。短い音ですら綺麗に重なってしまって、2人は顔を合わせたまま、くすくすと笑った。
「はあ、おかしい」
「だね」
笑っているうちに、張り詰めていた空気が少し和らいだ。良かった。ビリーくんも、緊張していたんだ。それがわかって、安心した。
セックスをしようと、決めた。友だちになって、恋人にもなって。想いを確かめあってから、随分と時間は掛かってしまったけれど。だんだんと、愛を伝え合うための言葉だけでは、足りなくなってしまった。見つめあって、手を繋いで、ビリーの熱を分け与えられた。グレイは、最初の頃はそれで充分だと思っていたし、グローブを外したまま触れられた時なんて、これが幸せの絶頂にあるのだと、信じて疑わなかった。抱きしめあって、口付けも交して。潔癖だと言っていたビリーが、自ら動いてくれた。グレイにだけは、嫌じゃないかも。何でだろうね? 少し困った顔をするビリーが目に映って、胸の底がうずうずと擽ったくて。どうしていいかわからなくなって、泣いてしまって、彼を困らせたことをはっきりと覚えている。充分だった、充分すぎるほどだった。
それなのに、求める心というものはいつまでも消えてくれない。触れるだけのキスでは足りなくなって、唇を食んで、舌も絡ませて、ビリーの全てに触れたくなった。欲の皮が突っ張って、それだけではまだ、もの足りないと、思ってしまった。グレイも、一緒なの? 不安そうに眉を下げたビリーが、グレイの手を握ってくれた。どちらの手にも、汗が滲んで、震えていた。お互いがお互いに、強く求めあっているのだとわかって、グレイはまた、嬉しさで涙を零した。
それから2人は、翌日がオフである都合のいい日を見つけて。ホテルはどの場所がいいかだとか、身体を重ねるにあたってどんな道具を用いたらいいかだとか、相談して、計画を練っていった。グレイも、それから、ビリーも。この日を今か今かと待ち続けていた。
「どっち、が、いい?」
ごくり。喉が鳴った。膝を抱えたまま、手に力が入る。来た。グレイも、それを聞こうと思っていた。
どっちが、という質問の意味は、セックスをする上で、入れるか、受け入れるかということだろう。グレイは正直、どちらでも良かった。ビリーに触れられるのであれば、ビリーと繋がれるのであれば。
「オイラは……その、ぶっちゃけ、どっちでもいいんだよネ。グレイのこと、大好きだから。グレイと、なら、なんだって幸せだから」
僕も。同じだよ、ビリーくん。胡座をかいたビリーの、手元を見る。指先が伸びたり、丸まったりを繰り返して、そわそわしていた。
「あー、まあ、俺っちも男だから。抱きたい、とは、思ってるケド……」
ビリーの右手が首の後ろに伸びる。頭を搔くのは、彼が照れくさい、というときにする仕草だった。つまり、本音。グレイは、それがわかると、安堵の息を吐いた。ビリーくん、僕のこと、抱きたいって思ってくれてるんだ。
グレイも、ビリーのことを抱きたいと思っている。ビリーのことは大切な友だちだ。それは変わらないし、これからも友だちでいたい。それと同じくらい、ひとりの人として、ビリーのことを、恋情を抱く意味で愛している。今まで本気の恋愛をしたり、お付き合いをしたり、なんて経験が無かったから、他の人がどうなのかはわからないけれど。男であるグレイは、好きになった相手を抱きたい、とごく自然に考えていた。
「僕も、ビリーくんのこと、抱きたいって、思ってるよ」
「うん」
抱きたいとは、思っているけれど。グレイは、ビリーから視線を落として、折り曲げた膝の上に置いた手指を見つめる。日に当たらない白い肌だが、指は節くれだっていて、どう見たって男のものであることが分かる。爪の先は、丁寧にやすりで磨いてあって、ささくれだった部分もない。ビリーと計画を立ててから、ずっとこの状態のままで整えていた。
男同士のセックスは、受け入れる側に負担が大きいと知った。それはそうだ。男同士の性行為において受け入れる側は、お尻の穴を使うらしい。排泄器官であるそれに性器を挿入させるためには、洗浄して、拡張する必要がある。つまり、膨大な準備期間を要する。本番においては、挿入する側もされる側も、腰に負担は掛かる。
それなら、ビリーよりも、自分が受け入れる側になった方がいいんじゃあないか。なんて思った。身長も少しの差ではあるけれど、それでも背の高い自分が受け身になった方が、お互いに負担は軽くなるのでないか、と。果たして潔癖であるビリーがグレイの後ろに触れられるのか、が問題だったが、洗浄を念入りにすればいいし、コンドームを装着することで、いくらか不安は無くなるはずだと考えた。
「あのね、ビリーくん」
膝の皿の上で、拳を握りしめる。とくとくと音を立てる心臓と、掠れた息まじりの声が、グレイの中で反響する。ビリーは、グレイの言葉をじっと待ってくれていた。
「僕、その……準備、したんだ」
つまるところ、そういうことだ。ビリーに無理をさせたくないという一心で、グレイは今日までに、後ろに挿入するための準備をひとり進めていた。トップとボトムについてだけは、2人で相談したことは無かったから、今日初めて打ち明けた。
「えっ」
鈴の張った目は瞠目している。それから、眉を下げる。グレイに、無理させちゃった? グレイは首を振る。違う、僕がやりたかったから、準備したんだ。
「ビリーくんって、僕より6つも歳下でしょう? 明るくて、元気で、そういうところが、可愛くて。弟みたいって、思うこともあるんだ……」
「そんな弟みたいに可愛い恋人には、傷つけられない! ってコト?」
ビリーは眉根にシワを寄せる。少しだけ、怒った顔だ。グレイがビリーを歳下扱いしたことに怒っているのか。はたまた、自分のことを貶めるグレイの態度に怒ってくれているのか。きっと、そのどちらもだろう。可愛くて、優しくて、やっぱり大好きだな、と思う。心がふわふわと、浮かぶ心地がした。違うよ。グレイはビリーの言葉に否定を入れた。
「6つも歳下の、可愛い恋人なのに。僕が嫌だと思ってることは、いつも避けたり、守ったりしてくれる。それから、焦ったり、不安に思ってる時に、いつも慰めたり、勇気づけてくれる……」
──そういう時、いつもかっこいいなあ、って思ってるんだよ。
友だちなのに、恋をしてしまった。そうやって悩んで苦しんで、落ち込んだグレイを、ビリーは導いてくれた。その差し伸べてくれる手が、光を灯してくれる笑顔が、何よりも綺麗で、格好よくて、憧れを抱いた。
グレイは、ビリーの目を見澄ます。向こうもずっと、こちらを見ていた。
「だからね、ビリーくんには、抱かれたいな、って気持ちも、あるんだ……」
語尾はもう、消えたも同然だった。さっきまで想いを伝えたくて必死だったから、ビリーの方を見ていられたけれど。だんだん恥ずかしくなって、少しだけ目を下に逸らしてしまう。ぽかん、と少し開かれた口からは、ビリーの八重歯が覗いている。ああ、やっぱり可愛い。
ビリーはずっと黙ったままで、グレイは耐えられなくなって、今度は手元に目を下ろした。抱いてくれ、なんてセリフ、こんな男にはやはり似合わない。ビリーは、引いてしまっただろうか。含羞のなかには、一抹の不安も紛れ込んでいた。ああ、これで、もし嫌われてしまったらどうしよう──。
「グレイ」
グレイの両肩に重たい熱が触れる。ビリーが両手で掴んだみたいだった。その拍子に、グレイの顔はビリーの目顔へと向けられる。ビリーは色を正した面差しだった。いつも両端をつり上げている大きな口はきゅっと唇を結ばせて、ころころと動くガラス玉のような瞳には海のような深い静けさを纏わせていた。滑らかな頬には朱を滲ませて、唯一それだけが、可愛らしいな、なんてことを頭の隅で考えていた。
「もしこれで怖くなったり、辛い思いをしたら、次はオイラが受け入れるから。もし、もう、嫌になっちゃったら、セックスだってしなくたっていい。だから、今日は。せめて今日だけは、」
──俺が、グレイのこと抱いていい?
ずるい。ぽん、と浮かんだ言葉が、それだけだった。あまりにも、ずるい。そんな真剣な顔をして、そんな縋るような瞳で、そんな震える力で肩を掴まれたら。準備なんてしていなくたって、受け入れなくちゃって思ってしまう。
グレイはきゅう、と締め付けられる心臓に、喉を震わせた。身体の芯から、ぶわりと熱が上がってくる。無意識下で、グレイの手が動いていた。ビリーの両頬に、手を滑らせる。自分の手が熱いからか、少し冷たいような心持ちがして、でもたしかに彼の頬は火照っていて、火傷しそうな気すらした。
決して、ビリーの言葉に流されたわけでは無かった。自分で選んだ、確かな幸福だった。グレイは首を縦に動かして、それから、言葉を紡いだ。
「ビリーくん。僕のこと、抱いて、」
最後の一文字は、ビリーの唇に飲み込まれる。衝動のままに、だけど優しく、ゆっくりと、ふたりはまっさらなシーツの中に溺れていった。