変わるのは 白い肌に椿の花が咲く。青白い、粉をまとったみたいな陶器の肌はいつも冷たく映るのに、ビリーが手を伸ばし触れてみれば、たっぷりと水を含んで赤い花を開かせる。ビリーくん。訴えるような、でも救いを求めるような、潤んだ目がこちらを捉える瞬間がたまらない。何でもないとからかうように言葉を口から転がして、熱に触れた手のひらを下げる。グレイを確かめるようなこの行為が、辞められずにいる。
変化するものは面白い。星は回り、月は満ち欠けし、太陽は浮き沈む。万物は流転する。永遠に燃え続ける火、同じ川に二度入れない。とか。つまり自然の摂理ってやつ。だから世界は面白い。
――グレイって面白い。ビリーが近づいたり、見つめたり、話しかけたり。肩を跳ねて驚くし、目を泳がせて真っ青だった頬を赤らめる。そういう変化が面白い。だから見てて飽きない。
ビリーが背中を叩けば安心したように眉を下げるし、ハンドシェイクで息が合えば歯をこぼして笑う。そういう変化が楽しい。だから一緒だと笑顔になれる。
グレイの変化は誇らしい。ずっと傍に居て、一番近くで見ていたから。グレイはよく笑うようになった。最初の頃よりもずっと。グレイの周りには人が増えた。話題が切り出せずオドオドすることも、緊張で逃げ出してジェットに代わってもらうことも、今ではほとんど無い。ビリーにとってそれは何よりも喜ばしくて、嬉しいことだった。
「よくやったな、グレイ。あのヴィクターも手放しに褒めていたよ」
「……! ほ、本当ですか、ありがとうございます。ヴィクターさんも……そんな、恐れ多いです……」
両手のひらを前に向けて振る。遠慮がちなグレイの仕草に気にも止めず、紙束を片手に抱えたジェイは反対の右手で紺色のくせっ毛頭を撫で回した。グリグリと髪をかき混ぜるような動き。や、やめてください……。ご機嫌なジェイには届かないボソボソとした声は、浮ついた色も見せていた。前髪に隠れた目尻が下がっているのを、ビリーは見逃さない。白い頬は紅を差す。テレビを眺める姿勢だったのを崩して、立ち上がって二人に近寄った。
「グレイってばスゴ〜イ! コレって、前回の講習のだよネ?」
大らかな広い背中からレポートを覗き込む。ジェイはグレイを撫でる手を止めてこちらを向いた。今回の課題は特定のサブスタンスの回収方法についてだったか。ヴィクターの講習会が始まるよりもずっと前、個人的に話を聞いていたというグレイはサブスタンスの回収が上手い。講習の時以外で聞いてきた話や実体験も交えた内容をまとめて提出したのだろう。
「ビリーもよく出来ていたと思うぞ。講習中は居眠りをしていたみたいだが……」
「あちゃあ、ヴィクターパイセンやっぱり気付いてたって?」
「講壇から見ると結構バレるもんだ。聞いてなかったからと言って、後からグレイに頼るのも程々にな」
「ハーイ」
提出していたレポートがルーキー各々に手渡される。ヴィクターからコメント付きのそれ。グレイはジェイに撫でられた時のように、目を細めて嬉しそうにしていた。
「なんかさあ、距離近くない?」
「はぁ、何が?」
「何がって、グレイとの……」
思わず愚痴を零す。愚痴の対象であるフェイスに吐き出してしまったのは、我慢に我慢を重ねた上、耐えきれなくなったから。
グレイが褒められるのは誇らしい。グレイがそれで嬉しそうにしてるのも、嬉しい。だから、それでモヤッとした感情を抱くのはなんだか違う……って、思う。友だちだから。グレイが誰かと関わって、親しくなって、それでグレイが楽しそうにしてるのも、喜ぶのは当然だ。そりゃあ嬉しい。喜ばないわけじゃあない。でも、どうしても複雑な気持ちにはなる。
最近思う。フェイスとグレイの距離が近い。何も、DJだけじゃないけど。
「何、グレイと話盛り上がっただけで、距離近過ぎって文句言われてるの?」
「それは……、ウーン」
「アハ、否定しないんだ」
有名な映画で流れた曲の話、リズムゲームでハイスコアをとった話。別にそれだけじゃない。二人が盛り上がるような話はいくつもあって、その度にグレイがフェイスに心を開いているのも分かっている。それは良い。気になるけど、気にしない。グレイが嬉しそうだから。
「そうじゃなくて。ベスティ、グレイのことよくからかうデショ」
「うん。ほら、グレイの反応って見てて面白いから」
「そうなんだよネー……」
そう。グレイは面白い。オイラが思うくらいだから、ベスティだって同じこと考えるに決まってる。っていうか、前からそうやって二人でグレイをからかう機会はあったし。いつからかそれが素直な楽しさだけじゃなくなってきたのは、どうしてだろう。
フェイスに心を許したとはいえ、顔立ちの良さと振る舞いのスマートさにはどうしても慣れないらしい。彼が少し手を伸ばせば、顔を近づければ、ぴゃっと飛び跳ねて不思議な声をあげる。フェイスだけが引き出せるグレイの変化。その反応はいつ見たって新鮮で面白いのに、それを見たくない自分がいつからか出てきてしまった。
「どうせ他の人にもそうやって嫉妬してるんでしょ」
図星だった。いい歳して友人に嫉妬とか、しかもその相手も友だちとか……。悪友にバレバレなのは恥ずかしいけれど、事実なのだからどうしようもない。前までは自然に出来ていた軽口を叩く余裕すらないのが、あまりにも滑稽だった。
そう。何もフェイスだけじゃないのだ。ジュニアだって、ウィルだって、ガストだって――。挙げればキリが無い。同期全員が嫉妬の対象になってしまう。何なら、ルーキーだけじゃない。ヴィクターにコーヒーを振る舞われているのも、マリオンから体型について気にしてもらっているのも、なんだか気に食わない。
「どうしよDJ、オイラどんどん心が狭くなってくヨ〜……」
グレイはころころ変わる。あんなに大人しい、落ち着いた雰囲気を出しておいて、気を許した相手には表情も顔色も声のトーンもすぐに変わってみせる。ビリーのわざと作った態度よりも、きっと多種多様に。
ビリーがぐっと目交いを縮めたり、腕を組んだり、ハグしてみたり。そういうコミュニケーションの一つひとつ全てに反応し、顔を赤くして、眉を下げて、震えた声を出す。
それが、面白い。グレイは変わるから、その変化が愉快だから、好きだったはずだ。なのに。
ジェイに褒められて、ヴィクターの話を夢中で聞いて。フェイスにからかわれて、アキラたちとゲームを楽しんで。頬を赤らめたり、目を輝かせたり、耳まで真っ赤にさせたり、破顔したり。そのころころ変わる可愛らしい表情に、面白く思えない自分がいる。
「グレイが変わっていくことを誰よりも誇らしいって思うのに。そうさせるのはずっとオイラだけがいい、って気持ちになるのは、変なのカナ?」
グレイの変化は面白い。グレイが変わっていくことは誇らしいことで、周りに人が増えるのは、グレイの見たことない表情が見られるのは、グレイにとっての幸せが増えていくことは、自分にとっても幸福なこと。それなのに、その幸せを認められない自分がいることが、不思議でたまらない。
「ビリーはさ、グレイが変わるキッカケになったのは自分ってこと、わかってる?」
「わかってるヨ」
グレイは変わった。弱さを武器にして、前を向いて。きっとそれには、ビリーも少なからず影響している。自惚れなんかじゃないと、自信を持って言えるほどに、グレイとは友だちとしての関係を強く築いている。
「グレイも、ビリーも……まあ、俺もだけどさ。みんな変わっていってるってことも、ちゃんとわかってるよね?」
「もちろん! ベスティもオイラも、昔に比べたらだいぶ変わったよネ」
おかげさまでね。フェイスは肩をすくめて笑った。呆れたってわけじゃなさそうな声だった。きっと思い浮かべるのはウエストセクターのみんなだ。オイラも同じ。一番に、イーストのみんながパッと思いつく。
――丸い猫背、自信無げに落ちた肩。それが嘘みたいに広く見えた、廃病院での後ろ姿。真っ白い頬はボロボロに汚れていて、涙脆い目には強い意志を宿していた。いつも驚きながら飴を受け取る優しい手のひらは、ビリーの手を強く掴んで決して離さなかった。
「またグレイのこと考えてる」
へ? びっくりしすぎて声すら出なかった。ほんの一瞬、あの日のことを思い出しただけだ。なんでバレてるの。目を皿にしてフェイスの方を向く。アハ。耐えきれないと言った吹き出し方。
「ウケる。それで気づいてないのも謎だよね」
「なになに、何でそんなに笑ってるのベスティ」
鏡でも見てみれば。そう返される。言い当てられて驚く自分の姿がそんなに面白かったのか。そう聞いても、フェイスは腹を抱えたまま首を振るだけだった。
「優しいからさっきの質問の答え、教えてあげる」
はーあ。肩を震わせていたフェイスは、最後に大きなため息をした。何でどうしてと質問攻めするよりも、ここは黙っていた方が優しいフェイスから話を聞かせて貰えるとわかっているので、大人しく待った。
「ビリーは変だよ」
「ええっ?」
ヒドイ。静かに待ってたのがバカみたいじゃん。抗議に口を開きかけるも、フェイスが手を前に出して制したのが先だった。ああ、違うちがう。訂正の声が入る。
「変っていうのは、要するに変わったってこと。ビリーはグレイのことを独り占めしたい〜って思うようになっちゃったんでしょ」
ウン。素直に頷く。オイラだけが、なんて感情は、間違いなく独占欲そのものだったから。
「それはさ、ビリーのグレイに対する気持ちが変わってきてるからじゃないの」
「グレイに対する気持ち?」
「……普通のお友だちなら、俺がグレイに近づいたって何も気にならないと思うけど?」
普通の、友だち。グレイとは、友だち。チームメイトで、ルームメイトで、仲のいい、友だち。だから。
グレイが誰かと関わって、親しくなって、それでグレイが楽しそうにしてるのも、喜ぶのは当然だ。それなのに、どうして複雑な気持ちになるんだろう。
ビリーがぐっと距離を縮めてみれば、顔を赤くして、眉を下げて、震えた声を出す。そういう変化が面白くて、楽しくて、いつ見たって飽きないから、友だちとして、好き。――本当に?
何気なく思っていたこと。いつも考えていたこと。自然と紡がれていたその一欠片が、ただの欠片なんかじゃなかったと、ビリーの心臓を叩き始める。これって、もしかして。
「……俺って、グレイのこと好きなの?」
「そう変わっちゃったって、今ビリーの顔が言ってるんだけど?」
心臓が痛い。腹の奥底から熱が湧き上がって、耳の先まで熱くなる。全身の皮膚がざわめき立った。この変化は、グレイのせい。友だちとしてじゃない好きの感情を抱いた、ビリーの変化だった。
好き。変わってしまった感情に息を吹き込んだ。それが耳に届いた途端、グレイはたちまち頬を染めた。そういう変化が好きだとも伝えた。目尻に涙が浮かんで、それが宝石みたいにキラキラしていた。嬉しい。小さな口から零れたささやかな音。
手を伸ばす。指先が震えている。前とは違う自分が、ここにいる。グレイの身体を抱き寄せると、くすぐったそうに笑いながら優しく抱き締め返してくれた。甘い熱がビリーの背中を包む。グレイ、大好き。耐えきれなくなって心の内側の熱を洩らせば、優しすぎる抱擁に少しだけ力が加わった。
グレイと居ると、面白くて、楽しくて、それから、温かくて、心地が良い。そういう変化が、今のビリーにとって何よりも愛おしかった。