メモ: ベアフットサンダルはサンダルではない「先生」
「………」
「先生?」
「………」
「リーズニングセーンセ?」
「黙れ」
「やっとこっち向いた」
「………」
「ああ、残念」
ぱき、と筆の先が折れる。これで何本目だ。深呼吸をして引き出しからストックを取り出す仕草は慣れてしまった。
スヴェンガリは探偵を職業とするリーズニングの事務所によく来る。といっても依頼があったのは最初の一回だけ。それ以降は多忙のリーズニングにちょっかいを掛ける為だけに顔を出すのだ。
「先生はつれない男ですね。つまらない」
「なら来ないでくれないか」
「貴方が入れたのに」
「入れなければドアを壊して好きに出入りしてやると脅したのはお前だ」
「そうですが?ああ、先生。私は寂しくて死にそうだ」
「此処以外で好きに死ぬといい」
全く迷惑な話なのだから。初めての依頼以来、気に入ったとか興味があるとか、そんな言葉で濁して事務所に来て、仕事先に現れ、此処にいた彼処にいたと居場所を知っている。用はストーカーだ。そういえば彼はそんな下品な真似はしないと怒ったけれど、完全にストーカーだ。ストーカーに限って自分は違うと言うのだから。
はー、と長い溜息を吐いて書類を手に席を立つ。スヴェンガリの座るソファの後ろの棚へ向かいファイルに手を伸ばした。
「センセ、細くありませんか?」
「ッ…!」
グッと後ろから腰を掴まれた。いつの間にか真後ろに立っている彼と触れられた驚きに書類の束がバサバサと床に落ちるも、クリップである程度まとめておいて良かったと思う余裕はあった。こんな事が日常になりつつある。それは歓迎できない。
「今度ディナーでも如何です?夜景の美しい所があるんです。ああ、でも日没から行って、ゆっくり食べようか」
「却下だ。離しなさい」
言葉で言っても聞かないことは知っている。腕を押し退けようとすると案外簡単に解かれる。飽きたか、と思ったのも束の間。ぐい、と片腕で腰を抱かれてもう片方の手でスラックスをずり上げられた。裾が上がり膝から下が晒される。
「おや。今日はガーターソックスじゃないんですね」
カッと顔に熱が集中する。
と、いうのも。
『此処まできたんですから。脱いで下さいませんか?』
『断固拒否する』
数週間前。スヴェンガリによって事務所に持ち込まれたチョコレートは酔えるほどの代物で、酒に強いとは言えないリーズニングにとっては余程だった。それをいくつも食べさせられたリーズニングはスヴェンガリにいいようにされていた。
覚束無い仕草で抵抗したが、それも虚しく事務所から繋がっている寝室に連れ込まれて服を剥ぎ取られた。が。
『やめろ』
服を全て奪われても、頑としてガーターソックスだけは譲らなかった。靴下を脱ぐのは交わりの象徴。おいそれとしてよい行為ではなく、リーズニングはそれを好むような特殊な性格でもない。他人の前で素足を晒してたまるかと酒にあやふやな思考でもキツく睨め付ければ、スヴェンガリは両手を上げて降参した。
「引き締まった脹脛を伝う黒いベルト。貴方の肌に合っていたのに」
「…煩い」
お前のせいだ。
思い出してしまって履けないのだから。
あのソックスを見れない。何をされたわけでもない。服を剥がれ、シーツに隠した肌を見られただけ。ただそれだけ。それなのにあの男の表情と酒に火照った身体が蘇ると、心の奥が羞恥心でおかしくなりそうだった。
スヴェンガリは黙り少し俯いたリーズニングから手を離す。リーズニングは訪れた自由にハッとして書類を拾おうと屈もうとしたが、男はやはり簡単に解放しなかった。手首を掴まれ流れるように先程までスヴェンガリのいたソファに座らされる。
「そうそう。貴方にプレゼントがあるんです」
「………なんだ」
リーズニングは抵抗をやめた。一通り話を聞けば彼は満足して帰ってくれるだろう。ここで無視したところで構うまで何かとされるに決まっている。
スヴェンガリは足元に置いていた紙袋から箱を取り出した。
「サンダル」
サンダルにしては箱が薄すぎる。入ったとしてもネックレスだろうという大きさのそれを開けると、確かに靴が入るように包まれたものが出てきた。
「サンダル……?」
薄い紙に優しく仕切られた中からそれを取り出す。
金の金具と蒼い宝石でできた、煌びやかな如何にも高そうなもの。それは大きな輪と小さな輪を作り、それを繋ぐような形は紐のようでいて何かを通すような形状だ。所々布も使われており、手に取ると重力に従ってしなやかに曲がった。
それはどう見てもサンダルではない。アクセサリーだ。しかし小さい輪は指に入りそうだが、大きい輪は手首に巻くには大きく、首に巻くには小さい。
「ベアフットサンダルですよ。下に説明が入っています」
聞いた事がない。それを見越したのか、スヴェンガリは履き方のモデルを見るように勧めた。
靴の装飾だろうか。折り畳まれた掌サイズの紙を広げたリーズニングは、内容を見るや否やすぐさまそれを閉じた。
「履いてみて?」
「……いい」
見てはいけない物を見てしまったと申し訳ない気持ちがあると同時に、恥ずかしさから顔を背ける。
載っていたのは素足にベアフットサンダルを履いた女性だった。いや、きっと履いた、とは言えない。付けた、だ。サンダルとは名ばかり。ソールのない上部の飾りのみの代物だったのだ。
リーズニングの頭は硬く古臭い。つまり思考は紳士だ。女性の素足を拝んでしまった事を恥じた。
それに、それに。
「履いて下さらないんですか?」
「…無理だ」
「何故?折角のプレゼントなのに」
こんなの。素足が丸見えじゃないか。履いていないに等しい。でも、それ以上に。
「せめて理由だけでも教えてくれませんか?」
スヴェンガリは如何にも悲しそうな声を出す。
そうだ。贈られたものを履かないのなら、その理由を話すべきだ。
リーズニングは逸らした顔を覗くように迫るスヴェンガリに唇を噛む。
「どうして?ねぇ、何故ですか?」
耳に吐息が掛かる。瞬きを忘れたような瞳が羞恥に揺れた。リーズニングは気の進まない言葉を発しようと俯き気味に彼へ顔を向けて唇を震わせた。
「……………っ性的に、見えるからだ…」
絞り出した声に頬が上気する。
リーズニングには、それが所謂セクシーランジェリーに見えてしまった。
何も隠せていない。ソールもない。役割を果たしていない。夜を彩るランジェリーと同じだった。履いていない方がマシだと思える程、リーズニングの目にはとても性的に映った。
「へぇ」
「………ッ!」
スヴェンガリは口が裂けるのではと思う程口角を上げてそれはそれは嬉しそうに笑った。
してやられた。
彼はリーズニングがこう考えることを知っていて贈ったのだ。
「へぇ。そんな風に見えてしまったんですか?もう巷では素足を見せる事は何ともないのに」
「……煩い」
「先生、そんなの頑固な老人みたいじゃないですか。もしくは男を知らない生娘」
「ッ黙れ…!もう俺に構うな!!」
リーズニングはスヴェンガリの腕を掴むと事務所の玄関に向かった。男は大人しく従って事務所の外に放り出される。間もなく箱ごとサンダルも放られ、ガチャン、と扉が閉まり施錠された。
「っふふ、はははっ!センセ、また来ますからね!」
鍵をかけた扉を抑えるように背を預けたリーズニングにスヴェンガリから愉快な声が届き、靴音は遠ざかっていった。
リーズニングはずるずるとその場に尻を下ろす。
どうせ言葉通りまた現れ、好きに揶揄うだけ揶揄っていくのだ。リーズニングはそれに振り回されて、何かを見る度に思い出して頭を抱える。
早く終わって欲しい。早く穏やかな日々に戻りたい。彼奴の顔など見たくないのに。
ああ、彼はいつになったら飽きてくれるんだろう!