音を立てずに起き上がり、気配を殺し、息を潜めて、隣で眠る赤毛の男が瞳を閉じていることを確かめてからそっと野営地を出る。
十名足らずの隊で二、三人ずつ纏まって休息をとっているが、獣や魔物も暮らす山地である上に最近は賊の目撃情報もあるため、交代で見張りを立てている。野営の方法は白竜騎士団がその前身の黒竜騎士団であった頃からあまり変わっていないようだ。いま見張りをしているのは入団して三年目の槍使いの若者で、真面目で素直な好ましい男だ。この魔物討伐遠征にジークフリートが助っ人として付き合うことになったと聞いてそれはそれは喜び、いたく感激していたのだとランスロットから聞いている。こそばゆいが、悪い気はしないものだ。
その彼は今、やや眠たそうにしながらも実直に見張りをつとめているようで、ジークフリートが突然無言で起き出したときにはすぐに立ち上がって周囲の変異に対し警戒する様子を見せた。動いているものがジークフリートであるということに気づいて槍を下ろしつつ困惑した顔を見せた若者に、ジークフリートは微笑し、彼に見えるように、そっと人差し指を立てて口元に当てる。内緒にしてくれという意図は正しく伝わったようで、彼はそのままぺこりと頭を下げて再度地面に腰を下ろした。
野営地を出たら、山頂のほうへ向かって山道を登ってゆく。今回の遠征の目的である魔物の生息地はこの山を越えて更に北へ向かったあたりと聞いているが、どうもこの山にはそれとは別の不穏な気配が息づいているように思えてならないのだ。
白竜騎士団の遠征部隊は主に若手で構成されており、熟練の騎士は引率役の一名のみ。本来はヴェインが参加する予定だったのだそうだが急用で来られなくなったとのことで、たまたま王都に滞在していたジークフリートとパーシヴァルが戦力として同行を申し出たという流れだ。討伐対象の魔物は数は多いが一体ずつは劣弱な種類だと聞いているため、目的となる討伐は特に難しい任務ではないのだろう――が、この山にはそれよりももっと危険な何かが居る。己の嗅覚を信じるならば比較的知恵の回る魔物か、魔法を使いこなすタイプの魔物だ。おそらく一体のみ。この付近で、山道を行く遠征部隊を注視しているような気配がある。狙われている可能性は否定できないであろう。
ならば俺がどうにかしようと、ジークフリートはひとりで野営を抜け出すことにしたのだった。知恵が回ろうが魔法を使おうが、ただの魔物であれば倒してしまえば良いだけの話だ。自分ならばそれが出来る。そして、見習いを含む若騎士達が今回の任務を円滑に、かつ無事にやり遂げるためには、横槍の脅威となり得る魔物はあらかじめ排除しておくことが好ましい。
魔物の気配を探りながら夜の山道をゆく。ランタンの明かりと月光を頼りに、風の音と梟の鳴く声が満ちる暗闇の中をたったひとりで進んでゆく。
「おい、ジークフリート!」
研ぎ澄ました聴覚に、よく知る声が揺らぎを添えた。
振り返る。
少し離れた背後から、パーシヴァルが駆け寄ってくる。
「……パーシヴァルか」
「何処へ行く」
「なに、少々、危険な魔物を片付けにな」
「どういうつもりだ」
「この山には魔物が棲んでいる。若い騎士の手には余るだろうから、夜のうちに始末する」
「……お前は、またそういう向こう見ずなことを……」
隣に並んだパーシヴァルは、ジークフリートにもはっきりと聞こえる大きなため息をついた。単独行動をするな、輪を乱すな、といういつもの小言が飛んでくるかと思ったが、続く言葉は闇に吸われたかのように途切れ、そのまま放たれることはなかった。
「向こう見ずというほどのこともないぞ。相手の程度は、気配で大方知れるからな」
「それはわかっている。お前がおいそれと負けることはないと言うことも」
「皆が寝ている間に魔物を倒し、寝ているうちに戻ってくるならば、輪を乱すことも足並みを違えることもない。危機の芽だけを摘み取り、あとは予定通りだ。危険は排除され、問題は無いと思うぞ。違うか?」
「……」
歩きながら語り、その流れで問うと、パーシヴァルは答えずに黙ってしまった。横目で表情を窺うと、なにか言葉に出来ず言いたいことがあるかのような視線をこちらに向けている。
目が合って、紅い瞳に情念めいたものが宿った。じりじりと燃えている。ジークフリートはその鋭さ、強さにたじろぎ、何も感じなかったようなふりをして視線を前方へと戻した。
「……お前は、昔からこうして、野営の最中にひとりで抜け出して何処かへ行っていただろう」
「昔、というのは、俺が団長だった頃の話か?」
「ああ。いつも気になっていた。ひとりきりで、見張りに目配せをして何処かへ行くお前のことが……」
「気づいていたのか」
「おそらく、それがいつものことであると気づいていたのは俺だけだ」
「と言うことは、いつも見られていたという訳だな」
「そうだ。いつも見ていた」
よく気のつく男だ、とジークフリートは感心した。同時に、一度や二度たまたま目撃されたことがあったとしてもそれが常習的な行動であるということは気づかれていないだろうと思っていたので、今更ではあるが驚いた。それを語るパーシヴァルの声音には、どこか震えるような緊張と、まるで大切なことを告白しようとでもするかのような特別な感触がある。この問答は彼にとってたんなる小言ではないし、無邪気な思い出話とも違うのだろう。ジークフリートはパーシヴァルの言葉に耳を傾けた。
「あの頃の俺は、上官であるお前の行動は絶対的に正しいと信じていた。疑問を抱くことがあっても、きっと俺にはわからぬ正当な理由があるのだろうと……自分が口出しをすることではないと考えていた」
パーシヴァルが言うと、夜風が震えた。
月の明かりが淡く鋭く闇の奥底を照らしている。
遠い昔、野営の最中に、ひとりで抜け出して魔物を討ち果たして戦闘の興奮も冷めぬままに野営地へ戻るときのあの、誰も居ない夜に呑み込まれてゆくような底知れぬ孤独を思い出す。いつも、野営地へ無事に戻ったところで、そのあとはどうしても寝付けなかった。瞳を閉じても落ち着かず、まどろんでは浅い眠りの中で悪夢を見た。むごたらしく魔物に喰われる夢か、野営地へ戻れずに闇を彷徨いながら命果てる幻影、近しく大切な者を喪う妄想。夜が明けるまでの間に幾度も幾度も悪夢や幻覚を見て、隣に眠る者に怪しまれぬよう静かに眠るふりをしながら朝までひとりで夢魔に耐えていた。そういうものだと思っていた。いつもそうであったから。
「なんだその顔は。何かやましいことでもあるのか」
パーシヴァルの声に責めるような色味が混じる。
ジークフリートは足を止めた。彼にきびしく叱責されることに対し、甘く苦く謎めいた期待、あるいは寄り縋るような後ろめたい想いを抱く。
彼の手が、手甲ごと、ジークフリートの手を掴む。鎧の金属が触れ合う硬質な音が鳴る。怯えたように竦み上がりながらも平気なふりをして、細めた横目を隣に流してパーシヴァルの表情を窺う。
紅い瞳が濡れ出しそうな何らかの感情を湛えて、ひどく真剣な様子でこちらを見ていた。
――貫かれてしまいそうだ。
「ぱ、……パーシヴァル。俺は、なにか、間違ったことを……」
「今の俺ならばお前に手が届く」
射止めるような台詞に喉がひゅっと鳴ってしまう。
何もかも奪ってゆきそうな強い瞳が爛々と真摯にジークフリートをつかまえていた。昔と変わらない綺麗な色をしていて、今でも少しも衰えず美しく、艶めいて高貴で、あの頃よりもずっと力強い光に満ちている。
「俺も行く。お前をひとりにはしない。いいな?」
呆然とこころを捕らわれながら、ジークフリートは目の前の男に付き従うような心持ちで頷いた。
彼と共に夜を往き、ふたりではぐれずに戻ってくることが出来たならば、もしかしたらあの恐ろしい悪夢に今宵かぎりは出会わずに済むのかもしれない――と、甘く、淡く、救いの影を遠く恋いながら――。