めぐる綺羅箱2*カヌレの微笑み
個人的な楽しみを見つけてから、また自分の時間が取れないほどに忙しかった。
あのお菓子屋さんに寄る暇すら作ることができなかった。
一度行ったきりのあのお菓子屋さん。
宝石箱のように輝くお菓子が並ぶあのお店。
帰りに寄ろうと思って、寄れない日々を何日過ごしただろうか。
久々に今日は軽い残業で終わることができそうだから、帰りにあのお菓子屋さんに寄ることにしよう。
まだ太陽の光が残る時間帯に街中を歩くのはいつぶりだろう。
色々買い出ししなければならないものが頭の中に思い浮かぶが、今日は目的がある。
会社から電車で10分。家の最寄駅から自宅方面に向かって、いつもは曲がらない小さな路地を進んだところにあるこじんまりとしたお菓子屋さん『loulaki』。
あの時は、夜も遅い時間だったから他にお客はいなかったが、まだ太陽の残る時間だから何組かお客が入っているのが見える。
店内にいるお客のほとんどが女性だった。
そりゃあそうだろう。お菓子屋さんに一人で来る男などそうそういないだろう。
いたとしても、カップルが多いのではないだろうか。
そんな偏見じみたことを考えながら、店内に入る。
お店の中は、やはりキラキラと輝いていた。
ガラスケースの中で一等の輝きを纏うケーキ。
小さな袋に詰め込まれた焼き菓子。
繊細な飴飾りやゼリーの煌めき。
画面ばかり見続けていた目には、眩しいほどに輝いていたそれらのどれもが魅力的に見えて仕方がない。
「いらっしゃいませ」
店内をぼんやりと眺めていたら、いつの間にかあの美しい人が近くにいた。
「……どうも」
店内のお客も、気がついたら自分以外いなくなっていた。
「今日は何をお探しですか?」
陰りのない穏やかな笑顔で聞いてくる彼は、俺のことなど覚えていないだろう。
この笑顔だって営業用の作り笑顔だとわかっているのに、自然と心が綻んでしまう自分がいる。
「何か、焼き菓子でいいものはありますか」
以前ここで買って行ったクッキーをこの人は覚えている分けないなと思いながら、似たようなものをセレクトする。
「焼き菓子、ですか。以前買われたのはクッキーの詰め合わせでしたね。どれが好みでしたか?」
「……覚えていたんですか?俺が前にクッキーを買って行ったこと」
「ええ。あの時間に珍しくお客様がいらしたので、覚えていたんです。あの時はすごく疲れていたようだったので、簡単に食べれるクッキーをお勧めしたのですが、苦手なものとかありませんでしたか?」
微笑みをたやさずに彼は行った。
彼の言った言葉に驚きを隠せず、言葉が出てこない。
「ああ。苦手なものは特にないです。好みなのは、プレーンなもの、ですかね」
そういうと彼はまた、小さな箱を持ってきた。
「ではこちらなんていかがですか?クッキーとは違い、しっとりしたものになっています」
中を見せてもらうと、茶色に白い粉砂糖のかかったお菓子が6つほど入っていた。
不思議なものを見るような目で見ていたのがわかったのだろう。
彼は「あまり見ないお菓子でしょう?」と悪戯に笑みを深めた。
「面白い形のお菓子ですね。なんていうお菓子なんですか?」
「カヌレ・ド・ボルドーというお菓子です。フランスの郷土菓子で、この形が特徴なんです」
フランスの郷土菓子なんて、初めて聞いたな。
「では、それをいただいてもいいですか?食べてみたくなりました」
彼が笑顔で進めるこのお菓子がどんなものか、気になってしまった。
彼が作ったこのカヌレが、あのクッキーのように優しいものであることはわかっていたから。
「ありがとうございます。こちらは2000円になります」
お会計を済ませ、お菓子を受け取る。
袋の中に、カヌレの箱だけでなく小さな袋に包まれているものが見えた。
「あの、これは?」
そう聞くと彼は今日見た中で一番の笑顔で「おまけです」と言った。
家に帰り、やることを済ませてから買ってきたカヌレの箱を開ける。
この小さなお菓子は面白い食感がした。カリッとした食感の中にしっとりとした甘さが隠れてた。
初めての食べ物を口に入れる時はいつもなら躊躇したのにな。
小さなお菓子をゆっくりと食べる。
6個あるけど、6個しかない。
前に買ったクッキーだって気がついたらすぐに終わっていたしな。
ワインを片手に食べるこのカヌレがすごく美味しかった。
そういえば、あの人はおまけを入れてくれていた。
あの小さい袋に何が入っているのだろう。
カヌレの箱に隠すように置いてしまった小さな袋を手に取った。
不透明な袋の中には、小さなクッキーところんとした飴が入っていた。
それと、メッセージカードに走り書きされたこの一言。
『いつもお疲れ様です』
この一言で、またしばらく頑張れるな。