仙人の恋人1ばさり……と白い布が、目の前に広がった。
視界がふさがれたと思うと、線香のような匂いが鼻孔をくすぐった。
さっきまで生臭い不快な臭いしかしなくて、怖いとしか考えられなかった。
その匂いが懐かしくて、恐怖しかないはずの状況なのに安心した。
紫の雷がその人の手で操られると、恐怖の対象は吹き飛んでいった。
「大丈夫かい?」
「え?」
白い人は、まるで春の花々を思い浮かばせるほどの顔をしていた。
その瞳は、穏やかで濃い月の色をしていた。
腰に手を添えられて、くるっと化け物から背を向けられて歩く。
「本当に、君は邪崇に追われるのが好きだね」
「は?」
「とにかく、ここから出ようか」
子供に言い聞かせるように告げながら、歩き出す。
細いと勝手に思っていたけれど、力強い手で腰を支えられて強制的に歩かされる。
「お、おい。あの化け物は、何なんだ?」
「気にしない、気にしない」
「でも」
「無問題!私の弟夫夫が、後始末してくれるから」
「は?」
話を聞いてくれない。というか、この人以外にも誰かがいたのかと、ちらりと後ろを振り向く。
すでに化け物は、黒いチリとなって消滅していた。
その前には、白と黒の男二人が立っていた。
(夫婦って言ったよな?)
眉を寄せていると、黒い男が振り向いていた事に気づいたのかにかっと笑って手を振った。
それから、ぐいっと腰を引かれて意識は白い人に向けられた。
さっきは落ち着いて観察もできなかったが、白い人の額にはうっすらと流雲の紋が浮かんでいる。
「……もしかして、貴方は仙人なのか?」
「そうだよ」
あっさりと肯定されて、拍子抜けだ。
いや、あの化け物を倒せるのは仙師しかいない。
「私は、藍曦臣」
「あ、えっと、俺は……江晩吟」
名乗られたから反射的に、名乗ってしまった。
ん?まてよ?路地から出ると、藍曦臣の事が引っ掛かる。
「藍曦臣って……伝説級の藍氏の仙人?!」
「おや、私を知っていてくれたの?今では、仙師は珍しいし、古典でもマニアックな部類のはずだけど」
「昔、俺の事を助けてくれた仙人がそう名乗ってたんだ。だから、ずっと気になって調べてた」
そう言うと、曦臣は驚いた顔をした。それから、泣きそうな嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「私を知りたいと、思ってくれていたの……嬉しいよ」
ぽんぽん……と晩吟の頭を撫でる。その手に、懐かしさを覚えた。
ああ、この人だ。この人が、昔助けてくれた人だ。
「に、2回も助けてくれてありがとう、ございます」
「いえいえ。仙師としての務めを果たしただけだよ」
そう言われると、晩吟の胸が締め付けられるように寂しくなる。
ずっと、ずっと憧れていた人に、そんな事を言われて寂しくないわけがない。
ぎゅっと、胸元のシャツを握りしめる。
「服がボロボロだね。このまま家に帰すのは忍びないから、家においで」
そうまるで、ベットに誘われるような甘い声で耳元で囁かれた。
顔を赤くすると、白い人はいたずらが成功したような顔で楽し気に笑った。
「もう少し、大人になってから迎えに行こうと思ったけど……もういいか」
「え?」
「なんでもないよ、晩吟」
そのまま曦臣に腰を抱かれたまま、晩吟は彼の家に向かった。
それが、晩吟と曦臣の再会だった。
******
この世界には、仙人がいる。
仙人は、仙術という魔法のような力を使って人々を守っているという言い伝えがある。
嘗ては仙門百家なんて言われて数多の修業をしていた人々がいたと言われるが、仙人に昇格する者はほとんどいなかった。
その中で、姑蘇藍氏と呼ばれる一門は仙人を輩出する事が多かった。
藍曦臣は、現代でも姑蘇藍氏の頂点に立つ仙師だ。ほかにも、弟夫夫と彼の叔父が仙人となったと言い伝えられている。
『江氏も元々仙門の一つだったらしい』そう教えてくれたのは、父だった。
晩吟が、曦臣に助けられてから仙人に興味を持ち始めた時におとぎ話のように、自身の家の歴史を教えてくれた。
江氏の絶頂期は【江澄】という仙師が宗主だった頃。
仙師をテーマにするドラマや舞台だと、彼は大体悪役として描かれた。
主人公の【含光君】を邪魔する小悪党のようなライバルのような存在だ。
自分の家が、悪党の家系だと知って落ち込んだが父は晩吟の頭を撫でた。
『晩吟、お前の名前は江澄から頂いたんだ』
『どうして?』
『江澄は、強い人だ。孤高で、一度滅びかけた江氏を立て直した実績がある。私が尊敬する仙人だ』
その言葉と手のぬくもりが、ずっと恋しい物に感じて自分の名前が誇らしくなったのを覚えている。
父が、その時悲しそうな顔をしていたのは、どうしてだったのだろう……。
―――と、言う疑問は、江晩吟十五歳に解決された。
「ですから、あの時助けたお礼に、晩吟は私の夫になる約束していたんだよ」
「は?はぁあああああ?!」
「君から提示された事だよ?契約書もあるし、楓眠さんや虞夫人の同意もある」
ひらひらと高そうな紙に書かれたのは、まぎれもなく幼い子供の自分の字と両親の字で署名された名前。
しかも血判であることから、それは最重要契約とわかる。
「仙術で作った契約書だから、破ったら……怖いよ」
脅しだ。
これは、明らかな脅しだ。
「終身契約と言ってもいいよね。私が、君を邪崇や妖怪から守る。その代わり、君は私の夫になる」
「ち、小さい頃の戯言だろ」
「私の唇を奪っておいて……ひどいよ、晩吟」
よよよ……と、顔を隠して泣きまねをする。
こんな事をするような人だったか?と、首をかしげた。いや、そもそもそんな疑問を持つ事が、不思議でならない。
頭がメビウスの輪のように、ぐるぐるとし始めて気持ち悪くなる。
眩暈がし始めると、大きな大人の手がテーブル越しに支えてくれた。
「何も考えないでいい」
先ほどのふざけた声色ではなく、ただただ優しい声だった。
晩吟を、心から心配してくれる声に涙が出そうになるほど、胸が締め付けられる。
「君は、まだ目覚めていない状況だ。無理に、目覚めれば壊れてしまうよ」
「う、ん?」
「いい子、大丈夫だよ」
その手の温かさに、頬を摺り寄せる。もっと、もっと…触れてほしい。
そんな事を考えて、かっと目を見開く。
(お、俺は何を考えて!!!あ……)
目の前の男が、こわばったような顔をしてこちらを見ていた。
やってしまった。と、うつむくけれど顔を無理やり添えられた手で上げられる。
そこにあったのは、険しくて怒っているような顔だった。失礼な事をしたんだと、怯えた。
「あまり誘わないでくれるかな?」
「は?」
「これでも、私は我慢しているんだよ。せめて、君が成人してから手を出したいんだ」
言われた言葉を理解して、晩吟の顔は真っ赤になった。
するっと手が外される時に、曦臣の指先が晩吟の唇の形や柔らかさを確かめるように触れた。
それから、自分の唇に指を押し付けた。
その仕草は、どんな俳優よりもロマンティックに見えた。
見とれていた事に気づいたのか、曦臣は頬杖をついてにこっと笑った。
「ふふ、自分でも気持ちが悪い行動だと思うけど……こうして、成長した君が目の前にいると我慢ができなくなる」
「な、な、な!!」
「でも、仕方ないだろう?ずっと待っていた君が、目の前にいるんだもの」
そうして、また晩吟の唇を確かめた指にキスをした。
それはまるで、晩吟にキスをしているかのように甘かった。
―――藍曦臣は、骨董店兼カフェを気まぐれに営業していた。本業は仙師であるためだ。
「晩吟、叔父上の学園の生徒だったのか」
「知らなかったのか?」
「仙人に昇格してから、それぞれの事には干渉しないと決めたからね」
家族の間は悪くないが、千年も仙人として生きていくには家族の干渉というのは少々厄介なのだ。
特に藍氏は、心配性な一面もある為に過干渉になりやすく、家族の間のきずなも壊れやすい。
一度壊れかけた事もあって、関係を修復するのに時間がかかった事も説明された。
晩吟が通うのは、姑蘇にある雲深不知処という全寮制の学園だ。
仙人に憧れる者なら、必ずそちらに行く。
もちろん、それだけじゃなくて正雅を重んじる為、良家の跡継ぎはここぞとばかりに入学する。
「どうしてうちの学園だったの?」
「江澄も座学に行ったって知って、絶対に行くんだってずっと勉強してたんだ」
ぴくっと曦臣の指が、小さく震えたのを晩吟は解らなかった。
「ただ、家は自営業だけどそれほど良家ってわけじゃないから、親に無理言った」
「そうかい」
「まぁ、お小遣いは、期待できないんだけど」
そう言って笑って見せると、曦臣が手を掴んできた。
びくっと驚くと「なら、晩吟。家でバイトしよう」と、まるで決定事項のように告げられる。
「仙師の仕事は、夕方からだからその間の店番を頼みたいんだ」
「さっき、気まぐれで開けてるって」
「晩吟と一緒に居られる時間が欲しい」
「う」
「それに、今日助けたお代もらえてないし」
「うう」
伝説級の仙人である藍曦臣に助けられた報酬は、きっと高いのだ。
晩吟の一生がささげられてしまうほどだったのだから、うちの両親に迷惑がかけられない。
「わ、わかった」
「……」
了承すると、曦臣は黙ってしまう。
「な、なんだよ」と不安気に見上げると、ため息を吐かれた。
「私が言うのもなんだけど、晩吟……詐欺にかかりやすいって言われない?」