朝《現パロ》 〜♪
耳元に置いたスマホから大音量でアラームが流れる。ビクッと目を覚まして、反射的にイントロのうちに曲を止める。少し上がった心拍数を感じながら眠い目を擦る。何時もの覚醒の仕方。でも目覚めた場所は床の上。身体中がバッキバキだ。そして、
「ん…おはよう陸くん…」
「おはよう先輩。ごめん、腕重かったよな」
「んーん…大丈夫ー…」
俺のパジャマを着た腕の中のもふもふが、ぐーっと伸びをした。
カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、先輩の柔らかい毛をキラキラと輝かせた。今日は講義もない。いい朝だ。
テレビ画面には総合リザルト画面。ミッションコンプ率100%・生存率100%・フェイタルエネミー撃破率100%・ルート回収率100%・コンティニュー回数0。壮観だ。
改めて悦に浸っている俺に、先輩が話しかける。
「後でメモを部室PCと飯島くんに送っておくね」
「計算は?」
「済ませたよ」
「俺今回は何語担当かな」
「また仏語じゃない?君後期も仏文学取ってたよね?」
サークル活動の話をしながら、のっそりと起き上がって片付けを始める。先輩は部室から持って来ていたゲーム機を、俺はテーブルに散乱した、全く記憶にない魔剤の缶を。
「え、これ先輩が買って来てくれたのか?俺何本飲んだ?」
「うんとね、2時過ぎくらいかな。君半分意識飛んでたし僕も起きていられなかったから。お金は別にいいよ、ほとんど僕が飲んだんだ」
「ブランケットも掛けてくれたんだな」
「うん」
「俺のパジャマ着たんだな」
「うん」
「言ってくれたら洗濯したの出したのに」
「君ベッドで寝てって言っても起きなかったよ」
魔剤の力を借りて新作のホラゲでオール。5時に寝て、6時に起きた。大学生にしては、まぁまぁありがちなこと。それでも自堕落な生活にならないのは、やっぱり先輩のおかげだろう。俺1人だったら、昼まで寝ていた。
片付けを済ませて、二人とも軽くシャワーを浴びた。ふわっふわで、俺好みのシャンプーの匂いがする先輩の後頭部に顔を埋めながら、今日の予定を訪ねた。
「先輩今日は何か予定ある?」
「何も。朝ごはん食べに行こうよ」
nubiaのモーニングメニュー、食べたことないでしょ?と先輩が提案した。忘れられていた腹の虫が小さく音を立てた。
財布だけ持って俺の部屋を出た。学生寮の立ち並ぶ通りを抜け、市営住宅の裏側の路地を歩く。2ブロック進んで右折してすぐのビル、歯科クリニックの上にある看板のない店が喫茶nubiaだ。
「俺、この時間にこっちの方に来たのは初めてだな」
「いつもなら学校に行ってる時間?」
「そうだな、地下鉄降りるくらいの時間だ。先輩はモーニングメニュー食べたことあるの?」
「うん。グーフィーの家にドナルドと泊めてもらった時に、朝3人で」
ドナルドとグーフィーというのは、先輩の話によく出てくる人物だ。理数系らしいから、俺は会ったことがない。同じ大学に通っていて共通の友人がいるのだから、いつかは会えるだろう。
「君シャンプー変えた?」
「ああ。前のやつ肌に合わなかったみたいで、発疹できたから薬用のやつに変えたんだ」
それもあるけど、別の理由もある。前に俺が使っていたのは、メンズ用のスッキリした匂いの刺激が強いシャンプー。最近使い始めたのは、ボタニカル成分が入ったノンシリコンのシャンプー。ふんわりと、ハーブの匂いがする。
先輩が俺の部屋に来ることが増えて、風呂やら服を貸す事も何度かあった。そんな中でふと、先輩がいい匂いだなと思うことがあったのだ。
高級感があるというか、品が良いというか。だから俺といる時も、先輩からいい匂いがしたら嬉しいなと。そんなことを思ったのだ。自分じゃなくて先輩が使うときの事を想像しながら買ったなんて、だいぶ倒錯してるだろう。本人には言わない。
「あ、見て」
急に先輩が足を止めた。綺麗、と一言感嘆して、こちらを振り返る。俺は目線を前に向ける。
確かにすごく綺麗だった。非日常の息遣いを、はっきりと感じ取れるくらいには。
市営住宅の窓ガラスに反射した朝日が、等間隔に光の帯を路地に落とす。それが2ブロック続いている。その区間だけが、まるで神聖な儀式の場のようだ。
ゆっくりと歩いていると、何か思いついた様子で先輩が光と陰を交互に踏み始めた。ぶつぶつと何かをカウントしながら、必然俺より速いテンポで進んでいく。足取りは軽やかで、トットッと小さな足音と共に遠ざかる。
フィルターをかけた写真のように、光の中に先輩のシルエットがとろける。次の瞬間には、陰の中に先輩が現れる。消えたり現れたりを一定のリズムで繰り返す先輩は、まるでワープしているみたいだ。
終点まで辿り着いた先輩は、後ろを向いたまま、尻尾でゆらゆらと俺を誘う。反応が無いことを不思議に思い振り返った先輩は、未だ2ブロック前に佇んでいる俺を見て、目をぱちくりさせた。
こてん、と首を傾げた先輩に、「戻ってきて」と声をかける。人も車も通らない朝の裏路地だから、声を大きく張らずとも十分に届く。わずかな沈黙の後、ほぼ何の予備動作もなく先輩が駆け出す。今度の足音は先程よりも硬質に。
細い脚のどこにも、脚力の源になるような筋肉が纏わり付いているようには見えない。軽い身体を駆使して、普通なら転んでしまうほどの前体重で、瞬発力と推進力を生み出す。回転数と一歩の飛距離も、並みのスプリンターでは遠く及ばない。
陸上をやっていたとは聞いたことがないが、その運動神経は、剣道、柔道、薙刀、弓道、フェンシングと、留まるところを知らないらしい。見たことはないが。去年の体育祭では先輩は運営側にいたため、その片鱗を見ることは出来なかった。俺の同級生によると、一昨年もその前の年も先輩は運営委員会だったらしい。
「陸くん?」
「時間遡行ならお供する」
ちょっと驚いた顔をした後、照れ臭そうに、バツが悪そうに先輩は目を逸らした。
「わかっちゃった?」
光の帯とカウント。おそらく、アブ・シンベル大神殿の話だと当たりをつけた。年に2度、最奥に佇むアメン・ラー、ラー・ホルアクティ、ラムセス2世を、光の帯が包み込む。先輩がカウントしていたのは光の数で、そこから逆算して何年かタイムスリップしていたのだろう。サブカルチャーに片足を突っ込んでいれば、そんな光景を夢想するのもわからなくはない。
「先輩はラムセス?それともホルアクティ?」
歩きながら、光の中に淡く輝く先輩の頭頂部を見下ろす。
「うーん、僕はプタハかなぁ」
「冥界神?似合わないな」
「だって僕黒いから、日向は暑いよ」
子供のような理屈に思わず笑ってしまう。先輩のさらさらとした後頭部にそっと触れると、確かに少し熱く感じるほどの熱を持っていた。
「じゃあ俺はアメン・ラーかな」
「その心は?」
「プタハの隣にいるのはアメン・ラーだろ?」
照れくさいような気もしたが、この流れなら言えると思った。いつも大切に想っていると、たまには口に出さないといけない。友として、貴方の隣を歩みたい、と。
当たり前のことでも、言葉にしなければ伝わらないということを、俺は実体験から身をもって知っている。何でもない時に言わないと、飾りのような言葉になってしまうから。それに、不意打ちの方が効果がある。
先輩は黙りこくってしまったけど、気を悪くしている訳ではない。そっと先輩から繋いだ手が、それを物語っている。手袋越しのふんわりとした手を、俺もきゅっと握り返す。
そのまま、数十年の時間遡行の後、nubiaの扉をくぐった。からんころん、とベルの音が響く。その音に振り返ったマスターが、人のいい笑顔を見せる。
「おはよう、今日は学校休みかい?」
「振り休です」
入り口に一番近い席に着いて、モーニングメニューと、ミルクティーを注文した。コーヒーより紅茶が人気な、変わった喫茶店なのだここは。
いつも学生でごった返す店内が、がらんとしているのは新鮮だ。改めて見ると、かなりいい雰囲気の店だとわかる。特に、日の届かない奥の席が仄暗いのが好みだ。
「そういえばメンバーズカード雪見くんに貸しっぱなしだ」
「俺のあるから大丈夫だよ」
雑談をしながらモーニングメニューを待っている。香ばしいような、いい匂いが店内に満ちる。腹の虫がまた小さく鳴いて、思わず水をひと口含む。先輩も、グラスの水滴を手袋に染み込ませながら、ちらちらとキッチンの方を気にしている。
それでも、普段ケーキセットなんかを頼む時よりよっぽど早く来た。
全粒粉のパンケーキが3枚、その上に厚切りのベーコンと、半熟の目玉焼きが乗っている。サラダとミルクティーが付いて、それから小さな小鉢にバニラアイスが添えられている。
「アイスはサービス。疲労回復には糖分が一番!」
「わぁ!ありがとうマスター!」
満面の笑みで喜ぶ先輩に、マスターも目元を綻ばせ、「ごゆっくり」と店の奥に戻っていった。
思っていたより全然ボリュームがあるパンケーキを、空っぽの胃の中にゆっくりと納めた。甘くないもちもちの生地が、塩気のあるベーコンに良く合う。半熟の黄身がとろりと絡んで、言うことなしだ。サラダで口をさっぱりさせて、アイスをちびちび食べたら、ミルクティーでほっと一息をついた。
「なんだか眠たくなってきた…」
「俺も…」
常連の老紳士で賑わい始め、紅茶の匂いが立ち込める空気と、暖かな陽射しの中で、微睡みながら外を眺める。
「このまま…」
「ん?」
小さく先輩が何か呟いた。聞き逃してしまったので、外から先輩に意識を戻す。
「このままみんなとずっと一緒にいたい…」
先輩はどこか遠い場所を見ている。温もった頭に氷を一つ落としたように、一気に目が覚めた。
現在9月中旬。先輩が卒業するまで、あと半年を切った。卒業後の進路について、先輩は頑なに語ろうとしない。きっと、近い将来自分の願いが永遠に打ち砕かれる絶望を、誰にも悟られたくないのだろう。
「貴方の行くところになら、どこにでも着いて行く」なんて、根拠のない夢物語を語るには、俺も先輩も大人になり過ぎた。俺は、大切な人がどこか遠くに行ってしまうのを、ただ見守ることしかできない。
「…そうだな」
遠ざかる背を抱きしめて振りむかせたい。二度と触れられなくなる手を、温度を、逃さないようにきつく握りしめることしかできなかった。泣きたいほど、幸せな日だった。