抹額がほどけてしまった話「あなたが宗主としてやるべき仕事のひとつに、その抹額の長さを変えるってのを付け加えた方がいいぞ」
江晩吟は、風に揺れる藍曦臣の抹額の先を避けながら言った。藍曦臣はきょとんとした顔をしながら、その抹額をやんわりと手で掴んだ。
藍氏の頭に巻かれている抹額は、その者の両親と伴侶になる者しか触れてはならないとの掟があるという。それにその抹額に天命の者が触れると自然とほどけるだとかという噂もあり、さらに言えばその天命の相手にはものすごく強く執着するだとかなんだとか。いろいろと伝え聞く話があるものだから、江晩吟は藍氏の抹額を厄介なものとして避けているのだった。
わざわざ他家の掟を変えさせるつもりはないが、そんなご大層なものをぶら下げているのであればせめて当たり判定を小さくしろと、江晩吟は常々思っていた。
「そんなに長くてはこうして風が吹くと誰彼構わず人に触れることもあるだろう。もっと短くできないのか」
「短くか。考えたことはなかったな」
ふむと藍曦臣は思案する様子を見せ、掴んだ抹額をしげしげと眺めた。
「正直そんなものをぶら下げられているとこちらとしても気が気じゃない」
江晩吟は藍曦臣の手の中の抹額にしっしっと手で払うような仕草をした。長年の交友関係によりこれくらいの失礼は許してもらえるだろう。藍曦臣はそれに対してふっと笑うと、わざと抹額を揺らして江晩吟のその手に触れさせようとした。
「うわっあぶねっ」
「そんなにいやかな」
「もし万が一まかり間違って天命の相手とやらにされてはたまらないからな」
「傷つくなあ」
そうは言いつつも藍曦臣は微笑んだまま江晩吟に抹額を近付ける。この雲深不知処に吹く冷涼な風はその細い布切れをふわりとすくい上げては江晩吟のほうへと躍らせた。
「おいっこっち来るな!」
「ははは」
大袈裟に避けて見せると藍曦臣はこちらに腕を伸ばしてより抹額を近付けてきた。それをまた派手に避けて、とそうしてふたりで少々ふざけていると、急にびゅうと強く吹いた風によってその白い布は藍曦臣の手から逃れた。そのまま抹額はひらりと舞って江晩吟の体にびたりとぶつかった。
「あ!」
「うわっ!」
思わず同時に声が出た。藍曦臣がすぐに抹額の先を掴もうとするが風は依然として収まらず、咄嗟に振り払おうと江晩吟がさらに抹額に触れる。すると。さらりと、藍曦臣のひたいに巻かれていたそれが自然にほどけた。そのままふっと落ち、首にかかるようになった抹額を、江晩吟と藍曦臣はふたりで目を見開いて凝視した。
「ほどけ……」
「……おい冗談だろ……」
しばらく両者とも固まって抹額を見つめていたが、江晩吟がそれをがっと掴むと無理矢理藍曦臣の頭に巻こうとしてきた。
「今のは違う俺じゃない早く! 早く直せ!」
「ええっ」
ぐいぐいと乱暴に片結びをされ、きつく結ばれたそれが頭に食い込んできりきりと痛むほどだった。しかしそれでも、江晩吟が結び終えて手を離すと、抹額は再びはらりとほどけて先ほどと同じように藍曦臣の肩の上にとさりと落ちた。
「………………」
ふたりは顔を見合わせて絶句するほかなかった。
急に天命の相手だのと言われても。江晩吟は眉間にしわを寄せすぎて眉の筋肉がひきつるほどだった。
だって我々はただの友人同士なのだから。恋人同士だったのならば、天に定められし運命の相手ともなればそれはそれはさぞかし喜ばしくうっとりとすることだろう。しかしながら我々はそんなものではない。射日の征の頃から、共に若くして大世家の宗主となった身として共感することも多く、友として長年付き合ってきたが、江晩吟は藍曦臣に恋心を寄せるようなことはまったくもってなかったのだ。
藍曦臣も同じだろう。目の前で彼はとても困惑した様子を見せているし、江晩吟がその天命の相手だとわかってしまった今、まったくそれを喜んでいたり照れていたりなどはしていない。
「……とにかく一度、それを結んだらどうだ……」
「そうだね……」
「今度は自分で……」
「……そうするよ」
呆然とした様子で静かに藍曦臣が抹額を巻く。今度こそ、それはほどけたりはせず彼の頭に落ち着いた。もう、江晩吟はそれに触れるのがおそろしく、藍曦臣から一歩二歩と離れた。
「さっきはすまなかった、無理に結んだりして……」
「いや、いいんだ……私こそすまない、君は避けていたのにふざけて近付けたから……」
とりあえず謝り合うが、その後は会話が途切れてしまった。気まずい。気まずいのだ。ただの友人だと思っていた相手が天命の相手だなどと、うっかり判明してしまったから。
互いにもう何を言ったらいいか、どうしたらいいかもわからない。しばらくふたりの間にはただただ風が吹き抜けるだけだった。
「……そろそろ、失礼する」
三十六計逃げるに如かず。江晩吟は逃げることにした。これ以上一緒にいたところで何を話せというのだ。今は雲深不知処を散策していたが、正直ここから一気に御剣で飛んで逃げてしまいたかった。しかしそうするわけにもいかない。
「見送りは不要だ」
「……わかった。道中、気を付けて」
「ああ」
それで会話は終わった。さすがに走って去るわけにはいかない。いや今すぐ走ってしまいたいが。足取りは重く、それでも一刻も早くこの地を立ち去らねばと江晩吟は早急に山門に向かって歩き出した。
***
藍曦臣は、向かいに座り静かに食事を取る叔父のひたいを横切る一筋の白い布をじっと見ていた。
邪祟の討伐の陳情が届き、藍曦臣は叔父である藍啓仁とその邪祟についての記述のある書物を求め、蔵書閣を訪れた。それから討伐についてどのような手筈を取るか話し合うさなか、ちょうど昼時に差し掛かり、共に昼食を取ることにした。
叔父の自室にてふたりで、無言で食事を口に運ぶ。食不言。その家規に従い、向かい合っていながらもひとことも発さず黙々と食べ進める。だが藍曦臣は叔父に尋ねたいことがあり、普段よりも少々急いで昼食を食べ終えた。だだ藍啓仁の膳にはまだ料理が残っており、藍曦臣は内心でそわそわとしながら叔父の完食を待った。
その様子が叔父にも伝わったのか、怪訝そうな顔をしながらも叔父は食不言を貫いた。ようやく膳の上の皿がすべてからになり、藍啓仁が食後の茶を淹れているそれを見ながら、藍曦臣は口を開いた。
「叔父上、あの、……もし、友人が誤って私の抹額に触れ、そしてその抹額がほどけてしまった場合、……それは、その友人が私の天命の相手ということになるのでしょうか」
茶の用意をする藍啓仁の手がぴたりと止まる。それからなんとも訝しげな様子で藍曦臣を見た。
「ほどけただと?」
「はい、自然と……。二度触れましたが、二度とも、それにきつく結び直しても、ほどけました」
藍啓仁は眉間にしわを寄せてしばらく藍曦臣を見つめた。
「……おまえはその者を好いているのか」
それからそう問う。藍曦臣はまっすぐに叔父の目を見返した。
「いいえ。たいせつに思う気持ちはありますが、それは友としてのものです。恋愛感情はありません。おそらくその友人もそうでしょう」
「そうか……」
藍啓仁はすっと手元に視線を戻して茶の用意を進めた。小さな炉から茶壷を取り、茶杯に注ぐ。こぽこぽと湯の音が上がる。
「……いくら天命の相手と言えども、そこに情がないのであればそれまでだろう」
そう言うと、茶の入った茶杯を藍曦臣の方に差し出した。それを受け取ると同時に、藍啓仁は再び口を開く。
「なかったことにしなさい」
「なかったことに……」
to be continued...