1000年後のカイアサ 2二人で住んでいる家から箒で半日ほどの遠く離れた港町では、年に一度の祭りが開かれていた。栄えている街なだけあって出店も多く、一歩進めば肩がぶつかるほどに人混みでごった返している。その光景は故郷の栄光の町の祭りを彷彿とさせた。
少し前を歩くアーサーは盛んな街の様子に目移りしているようで、足元がふらふらとおぼつかない。きょろきょろと周りを見渡すアーサーの手を掴んで、はぐれないように指を絡めて握った。普段は外で手を繋ぐと、気はずかしいと頬を染めて俯くくせに、それにすら気が付かない様子でアーサーははしゃいでいる。
「カイン!あれは何だろう?占いの店か?」
「おいアーサー、ちゃんと前を見て歩けって」
「あれは何だ?すごく大きいな…干した肉のようだが…。あれは…絶滅されたと言われている植物に似ているな…もっと近くで見てみたい」
「…あのー、聞いてます?」
こちらの声などまるで聞きやしないアーサーの様子に、やれやれとため息をつきながら辺りを見渡す。どうやら怪しい人影や武器を持った人間は居ないようだ。
こういう時のアーサーは恐ろしく好奇心の塊で、あのオズもよく手を焼いたと聞いている。本来、王という立場が無ければ、アーサーとはこういう人物なのだ。
今まで、散々やりたい事を我慢してきたのだから、好きなだけ甘やかしてやりたい。そんな風に思って、出来るだけ好きにさせている事が、余計に彼を無鉄砲にさせている気もするが。
「楽しいな!カイン!」
くしゃりとしてアーサーが笑った。その屈託のない笑顔を見てしまったら、あれもこれもと何でもしてやりたくなってしまう。次はどこに行きたいか、何をしたいか、何を食べたいか、何が欲しいのかと。これは恐らく従者としての気持ちではなく、完全に惚れた弱みなのだと思う。
「っはは!それは良かったよ、行きたい所があるならなんなりとどうぞ」
繋いだ手をアーサーに引かれるようにして、人混みをかき分けていく。露店の客寄せの声が、昼下がりの町を明るく賑わせていた。
すると、ふと何かに目を奪われたアーサーが足を止める。どうしたのかと不思議に思い目線を辿っていくと、その先には宝石がびっしりと並ぶ露店があった。
「へえ…宝石店か、すごい数だな」
「カイン、あの店を覗いてみても良いか?」
「ああ、もちろん」
店に近寄っていくと、かすかな甘い香りが鼻を擽った。チョコレートやケーキのような人工的な甘い匂いではなく、花の蜜や甘酸っぱい果実の香りに近い。ようやく店の前までたどり着いて目をこらすと、所狭しに並んだ宝石の正体に気がついた。
「アーサー、これって」
「ああ、ドライフルーツのようだな。…なんて美しいんだ」
真っ赤な果実と新緑色の果実、深い藤色の果実も、それぞれが陽の光を浴びて宝石のように煌めいている。甘酸っぱさと瑞々しさを閉じ込めるために絡められた蜜は、オーロラのような虹色の光沢を放っていた。
そのあまりの美しさに二人で感嘆のため息をついていると、店の奥からは腰を丸めた店主と思われる男が現れた。
「いらっしゃい、…おや、あんたら魔法使いか」
「分かるのか?爺さん」
「ああ、もちろん」
目尻に皺をきざませて、店主が微笑む。すると、店主はつるりとした飴細工のような果実を一粒手にとって、太陽の光にかざした。
「この果実には、魔法使いのシュガーが使われているのさ」
「シュガーを…?なるほど、どうりで珍しい色をしているわけだ」
「これを食べると、願いが叶うなんて言われているよ」
「願いが?」
アーサーは、興味津々に店主の話を聞いている。手のひらを差しだすよう促した店主から果実を一粒受け取ると、アーサーはまじまじとそれを見つめた。
そして子供のように目を輝かせてこちらを見やる。少し申し訳なさそうに、何かを言いたげな様子で。
「あはは、買う?」
「…いいのか?」
「食べたいんだろ?俺も食ってみたい」
「な、なら、これを一つ頂けないだろうか」
アーサーが微笑むと、つられるように目尻を下げた店主が、慣れた手つきで果実を小さな紙袋に入れていく。赤、青、黄、緑、鮮やかな色彩の粒が光を浴びて、万華鏡のようにアーサーの顔へと反射した。
「はいよ、お兄さん」
「ありがとう、お代はこれでいいか?」
「ああ、まいど」
旅の資金を入れた布袋から、アーサーが銅貨を取り出して店主へと手渡した。
アーサーからの希望で、旅の資金は彼の財産からではなく、旅の中で稼いだ金から使うことになっている。王としての生まれも育ちも関係なく、自分の力で金を稼いで、一人のヒトとして生きてみたいのだとアーサーは言った。この布袋の中身は、俺たちが旅を経て稼いだアーサーとの共有財産だ。
「なんだかすっかり、板についてきたよな」
「何が?」
「あんた、初めは金貨で買い物してただろう?」
「…笑うなよ、」
「あはは、ずっと城に居たんだから無理もないさ。けど、こうして庶民的な暮らしを満喫してるアーサーも、なんかいいな」
「ふふ、ありがとう。こんな風に自由に外を歩けるなんて、城に居た時は思いもしなかったよ」
アーサーが、口元に手を添えて微笑んだ。主君の喜ぶ顔は何千年経っても嬉しいものだ。
欲しい物も手に入れ、そろそろ昼食に食べ歩きできる物でも探しに行くのはどうかと辺りを見渡したその矢先。
ちり、と全身の神経が鋭く逆なでされるような気配が、背中をかけた。
「……!陛下、お下がりください」
咄嗟にアーサーの手首を掴んで、強く自分の体に抱き寄せる。バランスを崩したその身が、ぶつかるように胸に飛び込んできた。
「か、カイン…?」
衝撃にアーサーが目を見開いた。先程感じた殺気は気のせいでは無かったようで、買い物を楽しんでいた街の人々が一瞬でざわつき始める。背後から、ものすごい勢いの足音が近づいてきた。
「アーサー様、俺から離れないでください」
「……賊か?」
「分からない、数は…いち…、に…、三人だ」
そう答えた次の瞬間、想像通りにアーサーが体から身を引いた。そのまま敵に飛び込んでいこうとする肩ごと、ぐっと抱いて引き寄せる。
「こら、離れるなって言ったばかりだろう」
「しかし…!怪我人が出る前に、」
「ああ、分かってる、奴らはもうすぐここまで来るはずだ」
耳を研ぎ澄ませて、敵の方向を確認する。駆け寄ってくる足音と共に揺れているのは金属音、よく聞きなれた剣や刃物の音だ。
腰に携えた剣を強く握って、じっと抜くべき瞬間を見据えながらその時を待った。
「どけ!!殺されたいのか!!」
若い女の悲鳴と共に、低く叫ぶ男の声が町中に響き渡った。街の人々は大混乱のまま、道を開けるように一目散に散らばっていく。
目線の先から、女を抱えて走り去ろうとする覆面の男達が三人、煙をあげるような勢いで駆け走ってきた。
「カイン」
「ああ」
同じ方向を見ていたアーサーが、合図のように小さく目配せをする。その身体が離れると同時に、一気に賊の方へと駆け出した。ぐん、と懐へ潜って、大剣を引き抜き足元に引っ掛かるようにして振りおろせば、足元を崩した賊は、あっけなく雪崩のように倒れ込んだ。
「うわああああ!!」
衝撃で賊の手から転がり落ちそうになった女性を抱き抱える。泣き声に近い悲鳴と共に、柔らかくふわりとした生地の、質のいいドレスの感触が手に降りてきた。
「…っと、怪我はないか?」
「…っ、…!」
「怯えなくていい、もう大丈夫だ。俺はあんたの味方だよ。…怖かったな、あんたはここに隠れていてくれ」
女性の体を木陰に置いて後ろを振り返ると、倒れ込んでいた賊達が体を起こし、こちらを睨みつけている。手に持ったナイフをこちらへと向けて、殺意に満ちた目を見開いた。
「よくもやってくれたな…赤毛の兄ちゃんよ」
「…おいおい、人聞きが悪いな、こんな賑やかな街で、昼間から誘拐か?」
「ふん、その気概だけは認めてやる…だがな、邪魔をするならどうなるか…」
「どうなるんだ?」
「……邪魔だ!死ね!殺せ!」
ナイフを舌舐めずりして、ボスのような男と腰巾着の男が下品な笑みを浮かべた。
一斉に向かってくる刃を吹き飛ばすようにして、軽く剣で薙ぎ払う。
「…!?」
「ぼ、ボス、こいつ…!バカ強いですよ!?」
「い、一旦、逃げるぞ…!!」
一瞬にして怯んだ三人組は足をもつれさせながら、逃げるように背を向けて走り出した。
呆気なく去っていった恐怖に、街の住民からは指笛と大きな拍手があがる。
「兄ちゃん…!強いな!すごかったよ!」
「すごーい!かっこいいー!!」
「よっ!色男!」
歓声を他所に、真っ先にアーサーの姿を確認しようと辺りを見渡した。しかし、離れたであろう場所にその姿は無い。どくり、と、心臓が居心地の悪い速さで大きく脈打つ。慌てて辺りを見渡すと、背後から名前を呼ばれた。
「カイン!」
振り返ると、そこには先程助けた女性と、何事もなかったかのように笑うアーサーの姿があった。
「アーサー!」
真っ先に駆け寄って、アーサーの無事を確認する。二人共、どこにも怪我は無いようで、ほっと胸をなで下ろした。
「ああ…二人共無事で良かった、あんたも無事か?」
「は、はい…あの、危ない所を助けてくださって、ありがとうございます」
両手を胸の前で合わせ、深々と礼儀正しくお辞儀をするその女性は、ステラといった。ステラは、淡い桜色の仕立てのいいドレスに、ふわふわと巻かれたロングヘアで少し小柄な女性だ。胸元には、立派なダイヤモンドをあしらったペンダントが輝いている。一目で、貴族だと分かった。
「あんたが無事で良かったよ。俺はカイン、こっちはアーサー」
「中央の国のアーサーと申します、ステラ殿。ご無事で何よりです。…とても怖い思いをされたでしょう、一体何があったのですか?」
眉を下げたアーサーが、穢れのない瞳でステラを見つめた。その眼差しに安堵したのか、ステラの強ばっていた体から力が抜け、ステラが重い口を開く。
「……分かりません、突然屋敷に男が入り込んできて、私を…。知らない男達でした、お金が欲しいのかと聞いたら、目的は私だと…」
「なるほど…カイン、やはり誘拐かもしれないな」
「ああ……なあ、あんたが良ければだが、俺たちに屋敷まで送らせてくれないか?」
「…私を?」
「今一人で外を出歩くのは危険すぎる、俺達はあんたの護衛ってことでさ」
「それは…とても心強いですわ。ですが…私、今お金を持っておりませんの」
ステラがそう言うと、こちらをちらりと見たアーサーと目が合う。どちらからともなく笑みがこぼれて、アーサーは穏やかな顔でステラに微笑んだ。
「お代など…私たちは傭兵ではなく、ただの旅人なのです。お代など必要ありませんよ」
「まあ…そうでしたの、私ったら、大変失礼を…」
「そういう事だ、な?良いだろ?これも何かの縁って事でさ」
アーサーにつられるように微笑みかけると、ようやくステラの頬が緩む。そうと決まれば、とステラに案内されるまま、街を歩きながら屋敷に向かうことになった。
ー
ステラはこの街で生まれ育った、貴族の娘だった。話し口がとても穏やかで、品がいい。時より、すれ違う街の人々がステラに声をかけては、それに応えるように彼女が手を振っていた。
人気者、というやつなのだろう。近所の住民とすれ違っては、その手に花や果物を受け取っていた。
「素敵な女性なのだな、ステラ殿は」
「ああ、皆ステラと話せて嬉しそうだ」
貴族の身分でありながら、子供や老人に背丈を合わせ、誰とでも分け隔てなく話すその姿に、昔のアーサーの姿が重なった。城から抜け出しては城下町におりて、あんな風に皆に笑いかけていたのが、つい最近の事のように感じる。目と目を合わせて国民と心をかよわせるアーサーは、とても神秘的で高潔な生き物に見えた。その姿を隣で見つめているだけで、心の底から幸福だと思えたあの時間も、今だからこそわかる。きっと、あの時からずっと、俺はアーサーに恋をしていた。
「カイン…?」
「…え?」
不安気なアーサーの声に、はっと意識が戻される。つい、ステラの事を見つめすぎてしまった。心配そうに顔を覗き込まれたので、慌てて何も無かったように振る舞うと、どこか寂しげに、眉をさげてアーサーが笑った。
目線の少し先で、子どもと話していたステラが振り返る。すると、少し急ぎ足でこちらに駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、すっかり話し込んでしまって…」
「気にするなよ、あんた、人気者なんだな」
「皆、ステラ殿が好きなのですね」
「そんな…皆さんがよくしてくださるだけですのよ」
俯いて、ステラが小さくはにかんだ。数歩先をいくステラが指差すその先には、立派な屋敷と、それに続く重厚な門があった。
「ここです、私の家ですわ」
「…へえ、立派なお屋敷だな」
庭には、細かな彫刻が施された大きな噴水と、丁寧に手入れされた色とりどりの薔薇が咲きほこっている。こういった貴族の屋敷を見るのは初めてではないが、今まで見た中でも特に立派な外観だった。
「あの…よろしければ、お二人にお礼をさせていただけませんか…?」
「礼なんていいさ、俺たちはただ、あんたについてきただけだしな」
「…ですが、暫くは屋敷の警護を強くした方が良いでしょう、腕利きの兵がおりますので、ステラ殿さえよろしければ、お屋敷につかわせましょうか?」
アーサーからの提案を促すように、その方が良いと頷いた。しかし首を縦にも横にも振らないステラが穴を開ける勢いで、じっとこちらを見ている事に気がつく。
「ステラ…?」
「…あっ!す、すみません…私ったら」
「俺の顔に何かついてるか?」
「い、いえ…その、ただ…私、」
ステラは俯いて、口をもごもごと動かしている。不思議に思っていると、隣にいたアーサーが口を開いた。
「……もしかして、ステラ殿はカインに護衛を頼みたいのでは、」
アーサーがそう呟くと、みるみるうちにステラの頬が赤く染っていく。ステラは口にはしなかったが、アーサーの言う通り、どうやら俺に護衛を頼みたいようだった。
「え…お、俺?」
「あ、あの…私、カイン様が居てくださったら、とても…心強いです」
首元のネックレスを握りしめながら、ステラが震えた声を振り絞ってそう言った。この光景は、今までにも何度か目にしたことのあるものだった。心から申し訳ない気持ちと、やれ、とも、やるな、とも言わないアーサーが気になって、言葉に詰まった。
「あー…気持ちは嬉しいが、俺はアーサーに仕えてるんだ」
「まぁ…そうでしたの…私ったらまた…何も知らずに、失礼致しました」
「謝らないでくれよ、あんたの事も勿論心配だが、…すまない。知り合いに当てがあるから、あんたを守ってもらえるように頼んでみるよ」
何ともいたたまれない空気の中、ステラが顔を上げてダイヤのネックレスを首元から取り外した。きらりと輝く大粒のダイヤは、太陽の光に透けて眩い光を放っている。そのネックレスを手のひらに乗せて、ステラがそっとこちらに差し出した。
「なら…せめてこれを、旅のお守りに受け取っていただけませんか?」
宝石はきらきらと純粋な光を放っている。ぼんやりと見つめていると、口を開かなかったアーサーに、くい、と服の裾を引っ張られる。
これがアーサーではなく、ただの恋人であったなら、その意味は『貰わないで』だ。だが、彼は違う。『貰ってやれ』と無言の圧で訴える目を、横目で見つめ返すとすぐに逸らされた。これがただの純粋なお守りであるならば、受け取っただろう、けれど。
「…悪い、ありがたいが、受け取れない。大切にしたい人が居るんだ」
はっと顔を上げたアーサーの瞳が、大きく見開かれる。その表情を見なくとも、信じられない、何故といった様子でこちらを見ているのがわかる。軽蔑されたかもしれない。けれど、それよりも大切にしたいものがあった。
「…大切な、お方」
「ああ、心に決めてる人がいる」
「…そう、なんですね」
「俺は旅を続けるよ、あんたも元気で」
「………はい、カイン様、アーサー様、どうかご無事で、良い旅を」
ステラは寂しげな顔で微笑んだ。あとが悪くならないよう、わざと軽く笑い返してみせる。アーサーは何も言わず俯きながら、俺の少し後ろをゆっくりとついてきた。ステラが見えなくなるまで手を振ると、その姿に背を向けて、俺達は屋敷を後にした。
街へと注いでいた陽はすっかり暮れていて、少しずつ沈んでいく夕陽が街を包んでいた。
人通りのない裏路地を歩く帰り道、アーサーはあれから一言も喋らなかった。それどころか、物理的な距離がある。並んで歩くことすら避けられている。人目がないのをいいことに無理くり手を握ると、握り返される力は無い。けれど今はこうして、手を繋いで並んで歩きたかった。
そうしていないと、アーサーはふらりと遠いどこかへ消えて行ってしまうような、ふと、そんな気がしたからだ。
「…ゆるふわロング」
「へ?」
不意に、アーサーがぽつりと呟いて、間の抜けた声が出た。
ゆるふわロング。確か、もう随分と前に、賢者様に教えてもらった言葉だ。
「ゆるふわロングの女性が好き、って言ってただろう」
「…いつ」
「…八百年くらい前」
耳をすませてやっと聞こえるくらいの声で、アーサーがそう言った。相手の目も見ないでアーサーが話すのは珍しい。こっちを見てほしいと言ってしまいたかったけれど、アーサーの声が少しだけ震えているような気がして、思わず頬が緩んだ。
「アーサーのゆるふわロング?」
「ばか」
「っあはは!悪い悪い、随分前のことなのに、覚えててくれてるんだな」
「そういうわけじゃないが…あの日は、皆がこぞってゆるふわロングの魔女になっていただろう?」
「あんたが一番似合ってたぞ」
「…そういう問題じゃない」
「そうだよ、あんたしか見てなかった」
「……」
少しむくれたアーサーに、手のひらを握り返される。伝わってくる熱が嬉しくて、繋いでいた手を少しだけこちらに寄せて、向き合うようにしてアーサーの目を見つめた。
「…カイン?」
「本当さ、あんたが好きだ」
夕陽に照らされた空色の瞳が、ぱちぱちと瞬く。少しだけ赤く見える頬にそっと触れると、アーサーの瞳は手に取るように動揺して泳いだ。
「(かわいいな…)」
そのまま口付けてしまいたくて顔を近づけると、口元を遮るように手のひらで塞がれる。
「……外だぞ」
「はい…すみません」
きり、と上がった眉が、一瞬で八の字になって、アーサーがけらけらと笑いだした。ああ、アーサーの笑顔だ。その笑い声に、つられるように笑った。
「…帰ろう、カイン」
今度はアーサーから手を引かれて歩いた。ステラが俺を雇いたいと言った時、アーサーはどう思ったのだろう。口を噤んで、俺の顔も見ずにただまっすぐに前を見て、何を思ったのだろう。その口から、カインは私の物だと聞きたかったと言ったら、さすがの女々しさに笑われるだろうか。
「カイン?」
「…なんでもない」
帰り道を歩くたび、腕の中の紙袋が掠れる。アーサーが買ったドライフルーツだ。声にはならない望みだったけれど、これが欲しいと言って、彼が自分で欲しがったものだ。そんな風に、アーサーの欲しいものの中に入りたい。ゆっくりでいい。二人で並んで歩いて、少しずつ進んでいけたらいい。
「帰ろう、アーサー。これ、一緒に食べような」
紙袋を見せると、アーサーがまた無邪気に笑った。暮れていく夕陽を浴びながら、街は静かに夜へと落ちていった。