1000年後のカイアサ(3)「うわ、光った!」
突然、驚いて声をあげたのはカインだった。その目に光り輝いたものは、暗くてぶ厚い雲の隙間から鳴り響く雷でも、夜を告げる街の街灯でもない。それはカインの足元に生えている、どっしりとした太い太い木の幹だ。
樹齢千年を超えているであろうその姿は、誰にも侵されることがなかったのだろう。とても神秘的で美しく、何かの神様さえ宿っていそうな佇まいだった。
カインは感嘆の声をあげながら首を天へと傾けてみたが、その全貌はどれだけ後ずさって見上げてみても、見渡せないほどの大きさだった。
「光ったのは木の幹じゃない、木の根元に生えている、この苔だろう」
アーサーは膝を曲げ、白い指先でその深い緑に触れた。その光は、蛍のようにぼうっと光ってはまた暗くなる。何とも不思議な植物を、カインはアーサーの隣からまじまじと見つめていた。
中央の国にある、魔法使いの魔力が宿るといわれる森。カインとアーサーはとある人間からの依頼で、この森の最奥にある、難病に効くといわれる植物を探しに来た。
森の最深部は魔力の濃度が非常に濃く、普通の人間では幻覚を起こしてしまうため、到底ここまでは辿り着けない。そのせいか、辺り一面は見たこともない珍しい花や、木々に囲まれていた。
「本当だ、光ってる」
神々しい大木を囲むように生えた小さな木の先端には、ところどころシャボン玉のように透き通った、丸い果実が実っている。カインはその果実を捻るようにして手に取ると、果実が鈴のような音を立てた。
「あ、すごいぞ、ほらアーサー」
シャンシャンと鈴の音が鳴る果実を無邪気に振るカインに、アーサーがくすりと笑った。
この森は、不思議な物ばかりで溢れている。恐らく何百年も何千年も人が寄り付かなかったのだろう。時を経ても清らかな魔力だけが、森と土との中で息づいていた。
木々の隙間から差し込む太陽の光で、果実は雪と桔梗の色に、土は蛍の色に輝いている。まるで、夢の中にいるようだった。
「こんな場所が、まだ残っていたとはな」
光の差す岩場に立ち、アーサーが空を見上げた。木漏れ日を浴びながら両手を広げ、ゆっくりと瞼を閉じる。すると、耳奥で澄み渡った川が流れ、豊かに鳥が唄った。
深く深呼吸をすれば、少し冷たい空気がつんと鼻先を擽り、そよ風と揺れる野花の香りがする。殺伐として、休む間もなく生きていたあの時代とは違う。なんと、穏やかなのだろうか。
カインは大樹の根元に腰掛け、少し遠くからアーサーを見つめていた。
空から差す光はこの場所でずっと、王であるアーサーを待ちわびていたかのように見える。あれから、長い時が経った。カインは今でもこうして、主君の隣に居られることが何よりも誇らしかった。
手の中で揺れるガラス玉のような果実を覗き込めば、千年を共にした王の姿が透き通るように映し出される。カインにとって、それはまるでガラス細工の作り物のように美しく見えた。
「カイン…?」
目を開いたアーサーがカインの視線へと気がつく。カインもまた、アーサーの視線に気がついた。
「綺麗だな、カイン」
「ああ、綺麗だ」
「今なら、石になっても後悔がないかもしれない」
「俺もそう思ったよ」
「ふふ、私と一緒に?」
「あんたより先に死ぬってことはない」
「言いきれる?」
「言いきれる」
カインが投げた果実が空に飛んでは、鈴の音を鳴らして再びカインの手の中に戻ってくる。それはどうかな、とアーサーはカインを試すような口振りで笑みを浮かべた。
魔法使いは長命だ。人間のように決まった寿命は無い。しかしその中でも、長寿を全うする者もいれば、千年も生きられず石になる者も居る。寿命が長いというだけで、いつ死ぬか分からないのは人間と同じだ。
魔法使いは事前に死期を悟ることができるが、それは明日、明後日の出来事かもしれない。カインとアーサーの年齢が数千と離れているのならまだしも、二人の年の差はたったの五つだ。どちらが先に石になるかだなんて分からない、とアーサーは思った。
「私が死ぬと悟った時は、私を守らないでくれ、カイン」
「…なんで」
「死期に抗って生きたくはないのだ」
「そうだとしても、傍に居させて欲しいって言ったら困るか?」
「困らない、けど」
「けど?」
「お前には、自由に生きてほしい。約束も誓いも、残されたものにはただの枷になってしまう」
二人は約束などした事は無かった。それはこれからも変わらずだ。形を持たずとも、魂の繋がった箇所が心の中に確かにある、少なからずカインはそう思っていた。
けれど、アーサーは違う。王という立場が無くなった今、ただの魔法使いである自分が、どうカインに報いてやれるだろうか、とそればかりが気にかかっていた。
カインは誠実で、丹念に研ぎ澄まされた剣のようにまっすぐな男であり、その姿に惚れ込んで結婚を望む者も少なくない。もちろん、臣下にしたいと願う者も居る。引く手あまたのカインの隣で、アーサーは時々こうして頭を悩ませた。
カインは、騎士という生き方を自らの手で勝ち得た。逆にアーサーは、生まれながらにして玉座に座ることが約束されていた。最強の魔法使いの弟子、というのも元を辿れば、産まれた時から魔力が強かったからだ。ましてや、アーサーは女でもない。
もはや、カインが忠誠を誓う理由など、どこにもない。それなのに、それなのにカインは千年前と変わらない瞳で、アーサーを見つめていた。
「あんたとの誓いが俺の枷になるって?」
「……」
「嘘だな、あんたならきっと誓いを大切にする」
「…それは、」
「相手が俺だから、そう思う?」
「……」
「それとも、相手が自分だからそう思うのか?」
「…ずるいことを聞く」
「難しいこと考えてる顔だ」
「千年も生きれば分からなくなる」
「どうして、俺はここに居るのに?」
「…お前が居るから、分からなくなることだってある」
アーサーが顔を背ける。それを見たカインはやれやれと柔らかく目を細めると、腰を上げ、アーサーの方へと歩きだした。背けられた頬に優しく指を這わせ、愛おしげに空色の瞳を見つめる。不思議なことに、幼げな表情も、小さく尖った唇も、何一つあの頃と変わらない。
「千年経った殿下は、少し理屈っぽくていらっしゃる」
「……陛下だ」
あはは、とカインは喉を鳴らして笑い、拗ねるアーサーの手を取ると、その前に跪いた。アーサーはその光景を不思議そうに見つめる。ざあ、と森がさざめいた。太陽の光に、恋情を浮かべたカインの蜂蜜色の瞳が溶けていく。
「お慕いしております、アーサー様。約束も誓いもいらない、ただあなたのお傍に」
ほんの僅かに、アーサーの瞳が揺れる。ほんの、そのほんの些細な心の動きを、カインは知っている。それだけで、言葉も証もいらない。心に光が射して、彼を、彼の愛する世界を、彼とと共に生きる世界を、こんなにも愛おしいと思える。
「カイン、…私も」
カインは目尻を濡らすアーサーに穏やかに微笑んで、その手の甲にそっと口付けた。