臆病者と梅雨の空 静かな部屋の中では、雨が窓を叩く音がやけにはっきりと聞こえてくる。
朝の天気予報では、東京は先日から梅雨入りしたと告げていた。雨が続くここ最近は6月というのに気温が低く、衣替えを終えて暫く経つ半袖の制服では肌寒い。
雨音に混じって、薫さんが台本のページを捲る音。寒いからと温かい飲み物を淹れてきたのは自分のくせに、台本を読むのに夢中で殆ど手に取られることの無かったマグカップからは、もう湯気が立つことはない。
あたしはパソコンに繋がれたヘッドホンを一度外すと、自分のマグカップを手に取って……もう自分の分は飲み切ってしまっていることを思い出した。仕方ないので、代わりに薫さんのマグカップに口を付ける。すっかり冷めてしまっているコーヒーは当然だけど身体を温めてくれる訳はなく、喉は潤ったけれど寧ろ肌寒さが増した。身震いをすれば、薫さんがすぐに気付いて顔を上げた。
「おや、寒いかい? ブランケットを持ってこようか」
「いや、そこまででは……。もうそろそろ帰ろうと思ってたし」
薫さんの家は静かだから作曲作業がすごく捗るけれど、あんまりお邪魔しているのも申し訳ない。そもそも本来は恋人として家に招かれているのに、あたしが作曲作業に追われているせいで今こうしてパソコンと睨めっこしている羽目になっているのだ。
作業は進んだかい、と尋ねてくる薫さんにお陰様で、と返す。集中できたので、だいぶ作業は終わりに近付いてきた。あとはアウトロをもう少し盛り上げて、サビにピアノを追加して……。間奏にギターソロも入れたいから、後で薫さんに相談してみよう。そんなことを考えながらパソコンの電源を落とす。
立ち上がろうとしたところで、手首に温かい感触。薫さんに掴まれたんだと思ってそちらに視線を移すより先に、そのままもう片方の腕が腰に回ってきて後ろから抱き締められた。肩に顔を埋めている為表情は見えないけれど、ちょっと大型犬っぽいなとは思う。
「薫さん?」
せっかく久々に二人きりだったのに、今日全然構ってあげられなかったからな。自覚はあるので、名前を呼びながら頭を撫でる。暫くそのままでいたら、撫でていた方の手首も掴まれた。先に掴まれた方もまだ離してもらえてないので、これで両手を塞がれてしまった状態になる。
「……ごめんってば」
無言で肩に埋めた頭をぐりぐりと擦り付けてくるので、構えなかったことを怒っているのかと思って謝罪を口にする。肩が少しくすぐったい。
やっと手首を掴む手が離された。解放されたと思っていたら、次にはその手にネクタイが握られているのが視界に入ってきた。あたしの制服にネクタイは無いので、当然ながらこれは薫さんのネクタイになる。
何をする気だろうとなんとなく眺めていたら、ネクタイによってあっという間にあたしの両手首は拘束されてしまった。つまるところ、縛られてしまった訳で。
「あの……薫さん……? 何してるんです……?」
あまりにも早業だったので器用だなとか感心してたけど、いやそうじゃなくて。流石に振り返ってみれば、肩からやっと離れた薫さんと目が合った。眉を下げて、捨てられた子犬みたいな表情をしている。
その顔を見てしまってはこれ以上何かを言うこともできなくて、ぐっと言葉が詰まる。あたしはどうも、この人のこういう顔に弱い。
「……次は、いつ会えるかい?」
「明日の夕方バンド練習あるでしょ。明日また会えますって」
薫さんが求めてるのは、そんな回答じゃないってことは分かってる。案の定、彼女は何も答えない。
どうしようかなと考えあぐねていたら、首の後ろに温かくて柔らかい感触。あっと思った次の瞬間には吸い付くような音がして、彼女が今何をしようとしているのかを瞬時に察する。
「だ、ダメだって薫さん! そこは見えちゃうから……ッ!」
身を捩って逃げようとしたら、ぎゅっと抱き締める力が強くなった。片手はあたしの拘束された両手首を掴み、片手は腰に回される。身動きが取れないあたしの首筋に、今度こそ唇が吸い付いた。
「ぅ、」
ぢゅ、と外の雨音に混じって別の水音。絶対跡になった。どうすんのさこれ。明日学校もバンド練習もあるのに。
「……ほんとにどうしたんですか、今日」
今にも飛び出しそうな抗議の言葉をぐっと抑えて、そっと振り返って薫さんの顔をもう一度見る。雨空みたいな表情は変わらないけれど、暫く待っていたらぽつりと言葉を零し始めた。
「……千聖に言われたんだ」
「白鷺先輩に?」
「美咲は臆病だから、ちゃんと捕まえていないと逃げられてしまうよ、と」
「それって、比喩表現なんじゃ……」
白鷺先輩がどういうつもりでそんな警告めいた言葉を薫さんに言ったのかは分からないけれど。恐らく“こういうこと”をしろって意味で言った訳ではないんじゃないかな、とあたしは未だに拘束されたままの手首を見下ろしながらそんなことを思う。
溜息を吐けば、薫さんの肩がびくりと揺れる。この人は優しいから、きっとこんな些細な拘束すらも罪悪感を持ってしまっているのだろう。
「……いや、すまない。嫌な思いをさせたい訳ではなかったんだ。ただ、その……、」
その後は言葉となることは無く、もごもごと言い淀んでいく。この人らしくない態度に、あたしは縛られた両手首を差し出して。
「……これ、解いてください。家に戻るので」
そう告げれば、しゅんと悲しそうな顔。尻尾があったなら床にぺたんと垂れていたに違いない。
「それで、荷物持ってくるんで……その、じゃあ、泊まっていっていいですか、今日」
あたしが口籠もりながらもなんとかそんな風に尋ねれば、一瞬で薫さんの顔がぱっと晴れた。ネクタイがゆっくり解かれていくのを眺めるあたしの顔も、少し綻んでしまっていたかもしれない。
こんなことしなくても別に逃げやしないのに。こんな見える形で縛らないと安心できない彼女の方が、あたしなんかよりよっぽど臆病なんじゃないのかな。
一緒に行くという薫さんと二人で、一つの傘を開いて。未だ降り止む気配のない梅雨空の下へ歩き出した。