「はい、できました。口をすすいでください」
チェズレイはアメニティの歯ブラシを片手に、端正な顔へ極上の微笑みを張り付けてそう告げた。口の中を泡だらけにされたモクマは、相棒に急かされるまま洗面台に置かれたコップに水を汲み、口をすすぐ。
視線を上げると、タオルを構えて待っていた相棒が顔に残っている水気を拭い取った。まるで子供にしてやっているような行為にほんの少しの気恥ずかしさを覚えるが、それも寸の間のことだった。
「んあ、」
上向きに、ほとんど反射であんぐり口を開いて見せる。チェズレイは失礼、とだけ呟いてモクマの唇の端に指先を掛けながら、口内をぐるりと見まわした。
数秒の検分ののち、顎に添えられていた手のひらが離れる。今夜もきれい好きの彼のお眼鏡に適う、満足のいく仕上がりになっていたらしい。
「大丈夫そう?」
「ええ、本日もご協力ありがとうございます」
モクマの問いに、指先を覆い隠していた黒いラテックスグローブをゴミ箱に放りながら、チェズレイがにこりと笑んだ。
大事件ののちに相棒を得て、大きな野望を胸に故郷ミカグラを去り早一年。寄り添い生きながらも友情とも恋情とも名付けられずにいた互いの感情が、ぐらりと恋に傾いたのは、つい一か月ほど前のことだった。
モクマは当初、潔癖という特性を持っている彼と無理に「そういうこと」をする関係へ踏み込もうは思っていなかった。たくさんの名前がついている二人の関係に貼るラベルが一枚増えただけだと、そのほかには何も変わらないと思っていたのだ。
しかし、チェズレイ・ニコルズは知っての通り、どこまでも貪欲な男だった。あなたと二人でできることを、何でもしてみたい。そんなことをとある夜に真っ直ぐに告げられて、モクマもまた、そんな彼の申し出に年甲斐もなく喜びを感じていることを自覚して、そして始まったのが、この習慣だった。
一日の終わりにチェズレイに歯を磨かれ、彼が間違っても嫌悪を抱かないよう清潔に仕上げられた唇。それに触れるだけの口付けをし合って眠る。どこか儀式のような、あるいは遅くやってきた青春のようなその時間。
人との密接な繋がりを避けてきたモクマにとっても、かつての裏切りに他人の穢れを忌避してきたチェズレイにとっても、大切な相棒へ歩み寄っていくための大切な時間だった。
「ところでさあ、お前さん綺麗好きなのに、おじさんの歯磨きをすることに嫌悪感とかないの?」
「そこはそれ、どちらがマシかを考えたまでですよ」
丸裸になったチェズレイの指が、水道のコックを捻る。石鹸できっちりと洗い上げた手から滴り落ちる雫をタオルで拭きながら、チェズレイはいやにあっさりとした表情で言葉を返す。情緒というか、色気のない物言いだ。
「キスしないって選択肢はないんだ?」
ちょっとした思い付きと出来心で、にやりと唇の端を上げて見せ、顔を寄せて意地悪を言ってみる。チェズレイの宝石にも似た紫の瞳が、ほんの一瞬丸く開かれて、すぐにゆったりと細められた。同時に、薄く開かれた唇から溜息と笑みの中間のような吐息がこぼれる。
「ありませんよ。あなただってそうでしょう?」
「……まあね」
覗き込む相棒の耳から落ちた髪の一房を捕まえて、モクマは指先で弄ぶ。指のはらでさらりと広がる感触を楽しみながら、降り注ぐチェズレイの眼差しにじっと視線を返した。
「そろそろ、ベッドに行きましょうか」
髪の端を乗せていたモクマの手を、チェズレイが取った。指先を軽く繋ぎながらベッドルームへと向かう。相棒が手配したセミスイートに揃いのナイトガウン。二人の間にある雰囲気は、すっかり夜の気配に染まり切っていた。毛足の長い濃紺の絨毯は二人分の足音をすっかり吸い取り、僅かな沈黙を齎す。ほんの十数歩で目的地にたどり着くと、見るからに上質なキングサイズのベッドが、部屋の中央に鎮座していた。
「ドキドキしちゃうね……っ?」
「茶化さなくて結構ですよ。私も――あなたと同じくらい、緊張していますから」
もう一歩進んでみよう。そう言いだしたのはどちらが先だったろう。今までは口付けを終え、それぞれのベッドへ戻っていたけれど、今宵は初めてひとつのベッドで眠るのだ。ただ共に眠るだけ。たったそれだけでも、お互いに不安が無いと言ったら嘘になる。
「あー、その、ベッドどっち側がいいとかある?」
「どちらでも構いません」
「じゃあ、おじさんが奥に行こっかな……」
意識すればするほどに、気恥ずかしさや不安が入り混じって心臓をやかましく鳴らしている。形を崩さないようにそっと掛け布団を持ち上げ、ベッドの右半分に腰を下ろした。チェズレイが逆側に座ったのを見届けてから、モクマはゆっくり視線を上げて問う。
「……する?」
「ええ。顔を向けてくださいますか」
優しい声色が求めるままに、モクマは首を僅かに上げて目を閉じる。座ってしまえば、二人のあいだに身長差はほとんどない。チェズレイの剥き出しの指先がモクマの顎を優しく掬い、やがてゆっくりと、感触を確かめるように唇が落とされた。
表皮が触れ合うだけの、児戯にも等しいような口付け。けれどそれだけのことが、チェズレイにとってどれほど大変で、すごいことなのかをモクマは知っている。
だからこそ肉体的なそれよりずっと大きな、精神的な心地よさや充足感がモクマの胸を満たした。長いようでほんのわずかな間。ゆっくりと唇が離れていく感触に、モクマは閉じていた目蓋をひらく。
「気持ちよかった?」
モクマはこの時間の主導権すべてを、チェズレイに明け渡していた。触れて離れるタイミングも、時間も、彼の思うままにさせてやることで、少しでも忌避を感じることがないように、触れ合うことに気持ちよさだけ見出してくれればいいと願っていた。
「……はい、とても」
とろりと蕩けて微笑むチェズレイの顔が、モクマの肩口に伏される。大丈夫だったかなんて問いは野暮だろう。被さった温かい重みに一層満たされる気持ちで、モクマはそっと相棒の背に左手を添えた。他愛なく笑い合いながら身を寄せる。お互いの温もりが触れた掌越しに移り、次第にとろとろと、心地良い眠気が呼び起こされた。
「寝よっか、チェズレイ」
背中をぽんぽんと叩いてから、そうっと身体を離す。贅沢を言えば、もう一度くらい彼の唇に触れたかったけれど。浮かんでしまったそんな気持ちを笑顔に覆い隠しながら、モクマは告げる。
ごろりとシーツに背を預け、ふかふかの枕に頭を預けてから「ほら、お前も」と誘う。ふたりの間に、人ひとり分の隙間を作ることも忘れずに。何しろ、初めての共寝なのだ。彼にとっては、最低でもこのくらいの距離感は必要なのではないか。そんなことを考えながら、隙間に生まれたシーツの皺を片手で伸ばしてモクマは相棒の姿とちらりと見遣る。
「チェズレイ?」
急かすつもりはなかった。けれど、モクマが離れるなりぴしりと動きを止めてしまった青年の表情に、ほんの一拍、モクマの心臓は嫌な跳ね方をした。チェズレイはどこもかしこも綺麗に整った相貌を、感情を読めない色で彩りながら固まっていた。
「あー……」
思わず視線を逸らす。右腕で身体を少し起こしながら、頬を掻く。あくまで軽さを装って、努めて明るい声色を舌先に乗せた。
「あのさ、やっぱり無理だったならおじさん、今晩はソファで寝るから――」
「手を、」
「ん?」
「手を繋いで眠っても、良いでしょうか」
わずかに上擦ったチェズレイの声が、モクマの提案を遮る。寝転がる二人の間に投げ出されていた青年の指は、決心したかのようにゆっくり伸びて、身体を支えているモクマの右手に重ねられた。くるりと掌側へ潜り込んだかと思うと、モクマの返答を待つ間もなく、甘やかな力で指を絡め合う。
「……いいの?」
「いいの、とは。私がお願いをしているのですが」
「だってお前さん、やっぱりちょっと困ってたんじゃないの」
「違います。……言ったでしょう、緊張してるんです」
モクマより少し冷えていたはずのチェズレイの手が、いっそう強く繋がれてじわりと温度を上げる。カーテンの向こうにあるはずの夜景よりよほど美しい紫の双眼に捉えられて、視線を一秒も離せなくなる。
あ、と思ったときには、唇が再び重ねられていた。一晩に二度も触れ合うのは、はじめてのことだ。微かなリップ音だけを残して、自分とは異なる温度を持った肌はすぐに離れてゆく。
押し当てられた熱を惜しむようにモクマが自らの唇に指を添えると、「すみません。断りもなく」、柄にもなく、相棒は眉を下げて頬を桜色に染めた。
「いいよ。俺も、もっとお前とキスしたかった」
愛おしさに自然と細まった瞳で見つめながら、繋がれたままでいた青年の手を引き、揃ってシーツへと倒れる。互いに向き合いながら、もう一度指先に力を籠めた。二人の間にある隙間は、人ひとり分もない。
「……モクマさん」
「なんだい」
肩へ布団を掛けてやりながら答える。首まですっぽりと覆われたチェズレイはなんだかずいぶんと可愛らしく見えた。
「私のパートナーが、あなたでよかった」
モクマがナイトパネルのスイッチを押す瞬間、チェズレイはそっと呟いた。灯りが落ちて薄闇ばかりの室内に、空調の微かな音だけが響く。彼の表情は見えない、けれど、チェズレイの胸のうちもまた、モクマと同じくらい満たされているのだと感じるに余りある、そんな声色だった。
「俺もだよ。選んでくれてありがとうね、チェズレイ」
詰まるような思いで、どうにかそれだけを返す。照明を消してしまった後でよかった。互いの胸の前で絡めた手の温かさに潤む眦を、モクマはごまかすように微笑んで静かに目蓋を閉じる。
離さないようにもう一度強く手を繋ぎあって、ふたりは夜の闇におやすみを告げた。