地獄の底まで連れてって ミスタは激しく動揺していた。調査のために裏路地に潜っていたら、クスリの切れたらしいジャンキーに襲い掛かられて、びっくりして転がっていたビール瓶でとっさにそいつの頭をゴチン!と殴ったら、当たりどころが悪かったのか動かなくなっちまった。
偶然人間を瀕死に追い込んでしまったのは初めてだったので、最初は「アラ?」と思ったが、ピクリともしない男はどうやら死にかけらしかった。
ミスタは回らないアタマでどうにかこうにか救急車を呼んだ。こんなところに来るとは思えないし、多分来ないけど。ダクダク血を流して転がる男の、建物の隙間の暗がりにやけにペカペカ光る濁った目がミスタを見ていて、自分でやった癖にそれが怖くってゴミ箱の陰にへたり込んでヒュウヒュウ細い息をする。
「…っゔぉ、く、 す、 ......」
ガタガタ震える声で恋人の名前を呼ぶ。無駄に分泌された唾液でベタベタの舌は上手く回ってくれなくて、随分舌ったらずになってしまった。
身体の先端からジワジワ体温が下がって、背骨から冷たい嫌な汗が滲んでくる。 息がザラザラして苦しかった。脚をギュッと縮こめて膝頭に鼻先を埋め、前髪をグシャグシャ握った。 左手に男の頭をカチ割った感覚が残っていて気持ち悪い。
「Well, well, well. どうしたんだ、シュガー」
バリトンの天鵞絨の美声。
ヴォックスは汚い路地に不釣り合いな牡丹の花の笑みを湛えて、ミスタのクシャクシャになった前髪を直してやりながら、まるい頭の天辺にキスを落とした。
ミスタはのろのろ顔を上げて、あの目の空虚な光を忘れるために、シャンデリアみたいに豪奢に発光する琥珀色の瞳を一生懸命に見つめてボロボロ泣いた。顔をグシャ!と歪めて、とっ散らかった頭とひっくり返った声で必死に縋る。
「う、ヴォックス、おれ、どう、どうしよ、おっ、おそ、われて、びんで、殴っ、 ひッ、あい、アイツ、死んだ、かな。殺した?おれ。ころした?、」
左手を忙しなく握ったり開いたりしながら、今度は眼球をアチコチに回してボソボソ呟く。虐待された犬みたいに可哀想に怯えるもんだから、ヴォックスはとりあえずミスタの細かく上下する背中をゴシゴシ摩ってやった。
「…?…鳴呼、ウン。大丈夫だ、ミスタ。大丈夫、大丈夫。 死んでないよ。気絶してるだけだ」
ヴォックスは振り返って細かいガラスの破片が刺さった男の顔をちょっと見て、ヒグヒグ喉を震わせているミスタに向き直った。ミスタは濡れて束になった睫毛をパチッと上向けて、ほんとう、と細いちまこい声で言った。
「本当だよ。救急車は呼んだか?」
「よん、よんだ」
「偉いな。じゃあ、帰ろう。立てる?」
ミスタはふるふる首を横に振った。すっかり甘えたになって、ヴォックスの腕を強く引っ張る。ヴォックスは眉を下げて息だけで笑って、親指の腹でミスタの赤くなった目尻を拭い、腫れてきた両の瞼にそれぞれキスをした。そして機嫌を持ち直してほろほろ相好を崩したミスタを軽々抱き上げて、ゆっくり歩き出した。
ミスタはヴォックスの血管の浮いた太い首に固く抱きついて「ア、神様がいる」と思った。おれぁ今、カミサマの腕の中にいる、と。鬼のくせにこいつ、神様とおんなじ顔してやがる。こいつはきっと蛇なのに。死ぬときこいつに抱かれていたら、 おれは地獄に堕ちるだろうか。それも良いな。こいつはきっと地獄ゆきだから……。
ヴォックスが歩くリズムが心地よくて、ミスタの思考はトロトロ落っこちていき、家に着く頃には健やかに寝息を立てていた。ヴォックスは甲斐甲斐しく靴を脱がせ寝巻きに着替えさせて、翌朝目をパンパンに腫らして落ち込む可愛い恋人に蒸しタオルとハニーミルクを拵えてやった。
朝日に縁取られたヴォックスは神さびて美しく、ミスタは半端にしか開かない目を閉じて彼のシャツの袖を引いた。そうすればこの男が世界一優しいキスをしてくれることを、ミスタだけが知っていた。