【橙】 回し飲み いい加減陽が暮れてもいいんじゃないかという時刻になって、ようやく燦々と所構わず照りつけていた太陽が傾き始めた。それでも猛暑日を記録した気温は夕方になっても一向に下がる気配はない。せめて安直に腹の中から涼を取ろうと自販機の前に立ち止まるのが日課になっている。
無料にしてくんないかな、この自販機。小銭持ち歩くの面倒なんだけど。
そう思いながら、呪術高専の学生になってから自販機でジュースを買うことを覚えた俺は、からからと小銭を入れて、定番になりつつある『ファンタオレンジ』のボタンを押す。
後ろから伸びてきた腕が、同じように小銭入れに硬貨を入れると、こちらも定番になりつつある、ブラックコーヒーを押した。
「苦くねぇ、コーヒーなんて」
「そんなことないよ。疲れた頭もすっきりするし」
すっきりしなさそうな髪型で何言ってるんだと思いながら、ハーフアップのお団子に視線を移した。ひとつに縛り上げた方が、絶対涼しいやつじゃん。
「ふ~ん」
気のない返事をすると、風鈴の音色のような清々しさで訊かれた。
「悟もひと口飲んでみるかい」
「……。 ひと口だけ、傑のなら飲む」
貰って問題なのは苦い味はなく、むしろ別のトコロにある。それでも、その誘いに抗えないのは。
それって。
間接キスってことだろう。
今までしたことがなかった回し飲みも、傑と初めてした。人の飲みかけは気持ちが悪いと拒否反応を起こすことなく、存外楽しいものだと感じていたころに戻りたいぐらいだ。
何気なさを装って、触れる指先すら嬉しくて、どうしちゃったんだろうと我ながら呆れ果てる。
先ほどまで傑の唇が触れていた缶の口元に、そっと己の唇を押し当てる。腕を伸ばせば届く距離で目を細めて見守るさまは、硝子が揶揄うようにママ味があるのは否めない。
「マズくはないけど、苦いな」
「悟がお子様舌なんて、意外だったけど、可愛い所もあっていいんじゃない」
「べつに、かわいかねーしっ」
「ふふっ、そういうトコだよ」
「なんだよ、それ」
ふざけ半分で手を出そうとしたところで、体力が有り余っていそうな明るい声が聞こえた。
「夏油先輩、五条先輩、お疲れさまですっ」
「灰原も、お疲れさま」
「いいですね、冷たい飲み物。僕も何か飲もうっと。夏油先輩飲んでるコーヒー、おいしいですか」
きらきらと目を輝かせて、珍しく裏表のない陽キャラの後輩は、いいヤツだけど、傑に懐きすぎだ。
俺から戻された缶に口を付ける姿をちらちらと見てしまうのは、やっぱり間接キスって言葉が浮かんでしまうからだ。こくりと喉仏が動くさまさえ、目を追ってしまうのだから、ほんと、無駄に色気を兼ね備えているのはどうかと思う。
「悟は苦いって言うけど、おいしいよ。ひとくち飲む?」
「えっっ。ダメ」
「えっっ、いいんですか。おいしかったらコレにします」
同時に放たれた初めのひと言は、見事にハモった。続く言葉は正反対だったけれど。だって、灰原、傑と間接キスじゃん。そんなのダメに決まってるだろ。咄嗟に浮かんだ悋気は口にする前に、慌てて誤魔化すように口を付けたファンタオレンジと一緒に飲み干した。
「どうしたの、悟。やっぱりもう少し欲しかったかい。ちゃんと残して貰うよ」
小首を傾げて怪訝そうに尋ねられ、穴があったら入りたいって、こんな気分の時に使うのか、なんて、知りたくもない思いに駆られる。ぶんぶんと首を横に降ると、傑の顔が横に流れる。
「いいよ、灰原、貰えよ。苦いから」
「いいんですか、五条さん、もう少し、貰う予定だったんじゃないんですか」
「別にいーよ。あっ、でも、後でもうひと口」
ぶっきら棒なトーンでぷいとそっぽを向いたのは、不貞腐れたのだと思われても構わない。ただ、恥ずかしくて火照りそうな顔を晒したくないだけだ。
「それでは、遠慮なく」
灰原が口を付ける瞬間は、やっぱり見たくなくて、心、狭すぎじゃね、俺、と半分情けなくなりつつ、顔を背けていると、後輩とは思えない老け顔の七海までやってきた。
「ななみー」
一瞬、面倒くさそうな表情を浮かべたものの、諦め顔でこちらに足を向ける。
「美味しかったです。ごちそうさまでした。僕もこれにしますね」
満面の笑みで戻そうとした缶コーヒーを持った腕が止まり、くるりと半回転して俺に視線を合わせ、真正面に顔を向けた。
「五条さん、飲みますか」
「傑の後でいい」
灰原と回し飲みしたいワケじゃない。傑とが、いい。傑と俺だけがいい、けど。
「先輩たち、いつも仲良しですもんね。七海、僕たちも見習わないと」
「私は、適度でいいです」
灰原につられたのか、笑えば年相応になる七海も加わり、自販機の前でくだらない話で盛り上がる。そして、戻った冷たい缶を口元に運び、当たり前のように渡す傑から、あまり飲めもしないコーヒーを受け取る。
俺だけがいい、けれど、こんな時間も悪くないと、夕日に照らされ始めた三人を瞳に映しながら、苦い筈のコーヒーを口に含むと、微かに甘さを感じて、傑の肩を小突きながら声を上げて笑った。