第二の性、と称されるものがある。肉体に備わった性別とは別に本能を揺さぶるもの。幾ヶ月前より日本にまで兆候なく発現したダイナミクスと呼ばわれるそれは、収まる気配なくひそやかに人々を蝕んでいる。
足に力が入らない。立ち上がれない。座れ、と命じられてへたり込んでしまったせいだ。休日でもないのにと反抗したかったが、連絡は済ませてあるからとなだめられていたし、いや、そうでなくとも、反骨の気力など消え失せていた。
たったの一言で俺の体は俺のものでなくなる。おそろしいことのはずだ。
「諸外国では英単語を用いて行う事がセオリーだそうだが。下手に気取るよりも、僕が甲洋に告げるものを命令とするのがいいだろう。共通認識があればただの動作でも構わないらしいしな」
なんでもいい。お前の言葉ならば。言われるままに頷く。体を重くしていたのとは違う、キスを堪能したあとのような恍惚にひたっている。
「……僕たちは、本当に変わってしまったんだな」
空調の整った部屋で、俺だけを襲う肌を破りかねない熱を逃したくって、みっともなく舌を垂れながら次の命令を待つ。ヘッドボードに体を預けるまま俺を眺める総士は、今にも溶けたがる俺の輪郭を確かめるように指先をなぞらせて、迷うように息を吐いた。
「俯いてはいけない。僕から目を背けるな。……この命令の程度ならばどうだ?」
待ち望んだ言葉の刺激が背中をぞくりと駆け上がってゆく。そう、強い言い方じゃあないのに、普段と変わらない語調が、命令であるという認識を添えただけで聞こえが変わるのは不気味でさえあるはずなのに、精神を満たす幸福を与えられて、閉じることを忘れた口内に溜まった唾液がごくりと喉をかけ下る。ぬぐいそこなった汗がシーツにぼたぼた落ちていくけれど、総士から少しも目を逸らせない。いや、体が逸らそうともしなかった。与えられた命令に従うことが、なによりのよろこびと理解しているから。
「甲洋。返事は。僕の言葉は心地良いか?」
低めた声が耳に刺さる。俺の為の命令。俺だけを見る言葉。俺を支配する総士の声に、必死に気付かないふりをしていた俺を嘲笑うように、乾いていた心が満たされていく。
「……ああ、うん……もっと、強くても、いい」
「そうか。よく言えたな。僅かでも不快に思うなら、必ずセーフワードを使え。お前を満たす為の時間なのだから」
褒め言葉と共に少々乱暴に撫でられる。嬉しい。いつもなら、目を閉じて堪能するところだけど。目をそらすなと言われている。強制力とやらはそれほどのようにも思えるが、体が従いたがっている。信頼を委ねた相手に手綱を取られるのは、これほどにもきもちいい。
「ん……」
命令(コマンド)。セーフワード。ダイナミクスの周知に伴いこの国でも新たな意味を与えられた、今はまだ非日常的な専門用語。それを必要とする性が発現しからといって、俺には必要ないもののはずだった。この先だって縁遠いものと思っていた。我ながら浅はかな考えだ。だって本能はコントロールできるものじゃない。
発現による混乱がいくらか落ち着いた頃、既に研究を進めていた海外よりの支援を受けた政府直々に信頼し合うパートナー同士で、それも定期的に行うよう通達されたプレイ、と名付けられたこれを俺たち二人が行うのは初めてだった。各々が所属する組織に命じられた診断によって後天的に与えられた性がセットであるという理解は持ち得ていたものの、植え付けるように与えられた性など必要ないと、基礎知識を学ぶに留めてしまっていた。
だってこんな、プレイを行わない程度で体に悪影響が現れるなんざ思うはずもない。我慢強いほうだと自負する身だし、うっかりやって癖を付けてしまえば総士に迷惑がかかるかもしれないと考えて、蝕む飢餓感を底へ底へ押し込めてこの数カ月を過ごしていた。穏やかにいられる日常を、新たに生まれた欲望程度で変える必要なんかないと。
そうして、知らぬふりを続けた代償に不調をきたした俺を見かねた総士が、おずおずと実は講習を受けてきた、とパンフレットを取り出してくれたのが今朝のこと。総士の務める製薬会社のロゴと、丸ゴシック体の大文字で「支配欲に溺れずSubと向き合おう」と記載されたパンフレットは、外見はともかく慎重に精査された文字列で埋め尽くされていた。
ダイナミクスとは、あくまで与え、受け取る関係であり、一方的なものでないこと。Subからの、心身を預ける信頼がDomのよろこびとなること。なによりも信頼を重視するべきであり、尊厳を脅かすようなプレイではSubを満たせないこと。無策に始めれば互いに不完全燃焼の悪循環に陥りかねないので、予め欲求を擦り合わせ、傾向を把握する必要があること。必ずセーフワードを決めておくこと。名残惜しく思おうとも、セーフワードが発されれば必ずそこで切り上げること……。
丁寧なオブラートで包まれていようとも、そういうつくりにされた事実を不承不承理解したとしても、支配を受ける側だと認めるのは不健全に思える。そのはずだったのに、これから責めようかと提案されたというのに、天よりの慈悲に見えたものだ。重い体を引きずる癖に威圧的な言葉を望むのは、なんともおかしな話ではあるが。
知ってしまったせいで、ますますひどい飢餓感に苛まれていた。あれだけじゃ足りない。はやく、次の命令が欲しい。次は何を言ってくれるだろう。ただ見つめ合っているだけなのに、期待して息が荒くなっていく。興奮に湿るのか、暑さに参っているせいかわからない汗が、またぼたりとシーツを汚した。
「隣に来い。そのまま横になれ。力を抜いて楽にしていい」
言われるまま、先に身を投げ出した総士の動作を倣う。総士の好きに動かされている。なんでもないことなのに、じわじわと、幸福感が肌を覆い尽くしていく。これだ。俺が欲しかったものは。
「そのままだ。少しも動かず僕を見ていろ」
じっと汗ばんだ手が頬を、首筋を、腕を、腹を、好きにまさぐる。いつも、ならばセックスの前触れに行うものだ。今は固まっている腕を動かして、頬に、唇に、喉元にキスをしながら総士の服を脱がして、それから。その先が今は遠い。気持ちいいのにもどかしい。もどかしいのに心地良い。何度生唾を飲み下したろう。見ろと命じたくせに、こちらを見据えもせず自分の手を追う灰紫の瞳は快楽を訴える時のようににじんでいる。
自分のDomに命じられてきもちいいことがSubの幸福であると、今、身を持って知らしめられている。たぶん、どんなに言葉のうまいDomに似たような命令をされようと、他の誰かとじゃこんなのは味わえない。総士だから。躊躇いなく俺を委ねられるこいつの言葉だからだ。
総士は? 総士は心地良いだろうか。言うことを聞くばかりの俺を操って、よろこびを感じてくれてはいるだろうか。Domのよろこびは支配することらしい。俺の信頼ならばいくらでも捧げられる。
発言の許可は与えられていない。くすぐったいとか、素肌に触れてほしいとか、言い慣れた甘えの声が喉元まで駆け上がりかけて、腹の底へ落ちた。
しばらく好きに触れ回っていた手が俺の髪へ戻る。また撫でてくれる。褒めてくれる。
「素直に聞くものだな。よくできたと褒めておこう」
ふ、と微笑まれて、びしりと衝撃が走る。先程の比じゃない。
「う、あ」
「なんだ。今のは不服だったか」
「や、ち、ちがう。おまえに褒められるの、気持ち、良くて」
やはり、これはいけないことだ。だってこんな、言葉をもらって気持ちよくなるなど。俺ばかり、与えられているようで。
「ああ、そうか。褒められるのが一番気持ちいいのか」