現役 実は知っていることがある。ほんの少し。
小さな村の宿屋の裏庭の、外でブランチを食べる用のテーブルで、私はパンを食べていた。ロカはまだ寝ていたし、アバン様は朝市に行って食料を調達してくると出かけていった。あとは朝が弱い老魔道士だけど、と私は宿の二階を見上げた。
「おはようさん」
扉を開けて宿屋から出てきたマトリフに、朝の挨拶を返す。普段起きる時間より随分と早い時間に現れたことで疑惑は確信へと変わった。
マトリフは私の横を通り過ぎて井戸に向かった。顔を洗っている後ろ姿を見つめて、なんと声をかけようかと迷う。
「あなたの歳を聞いたことがあったかしら」
「なんだよ突然」
洗った顔から雫をこぼしながらマトリフは振り返る。その顔から寝不足であることは見て取れた。
「タオルいる?」
差し出したタオルをマトリフは無言で受け取った。私が何を言い出すのかと身構えている。この老魔道士は驚くほどの知恵を持ちながら、純なところを残している。私の「女の勘」を警戒しているらしいが、これほど一緒にいて気付かないわけがない。
「歳か。しばらく本に閉じ込められていたからな。だが八十は越えただろうよ」
本題がそこにはないと分かっているためか、マトリフの視線が本題を切り出せと催促していた。
「昨夜は帰らなかったみたいね」
「なんだよ、気付いてたのか」
マトリフは悪い顔で口の端に笑みを作る。昨夜マトリフは飲みに行くと言って夕方に出かけ、小一時間で帰ってきた。しかしそのあとでこっそりと二階の窓から出ていったことを私は知っている。そして帰ってきたのはついさっきだ。ルーラで戻ってきたのに、わざわざ宿屋に入って裏庭に顔を出したのは、今起きたばかりだと思わせるためだ。
「アバンには言うなよ。ロカは気付かねえだろうが」
マトリフの横顔に、その歳になっても色香があるのは秘密の逢瀬のためだろうかと思う。荒々しい男のものとは違う、煙のように苦くて掴みどころない色だ。
マトリフにはルーラで会いに行くほど恋しい人がいる。だけどそれを私たちには教えてくれない。仲間だからといって秘密は無しなんて言わないけれど、少し寂しくもある。いつか教えてくれるかもしれないから、それまでは気付かないつもりでいたかったのだけど、どうやらそのマトリフの愛しい人は意見が違うらしい。
「だったら上手く隠さなきゃ」
私は食べ終えたお皿を持って席を立つ。そのついでにマトリフのうなじを指で突いた。そこにある鬱血痕がマトリフの愛しい人からのメッセージのように思える。
マトリフはさっとうなじを手で覆った。その顔は見たことがないほど焦っていて、垣間見せる純な箇所をつい刺激してみたくなる。
「お相手は紹介して欲しがっているんじゃない?」
「んなわけあるか」
すっかり首から上を赤くさせたマトリフは、初めての恋をした少年のようだった。マトリフの愛しい人がどんな人なのか知らないけれど、よほどマトリフのことが好きらしい。その自己顕示欲さえ可愛らしく思える。
「秘密は守るわ。でも紹介してくれるなら、私を一番に会わせて」
「おめえも知ってるやつだよ」
マトリフはうなじを隠したまま項垂れる。さっと頭をよぎった人々の中で、まさかと思う人物がいる。すとんと腑に落ちたような気がして、私はマトリフの首にタオルをかけてあげた。