砂の惑星「お前ってパスポート持ってるか?」
八月中旬酷暑、扇風機の前で涼む私は首を傾げた。
「持ってはいるが、なぜ?」
するとマトリフは古びた雑誌を開いて私に向けた。それを受け取って目を通す。扇風機の風がページを弄ぶのを抑えながら、書かれた文字に目を通した。
「バカンス?」
そのページには青い海が紹介されていた。大きな文字で魅力的な言葉が並ぶ。
「行かねえか」
バカンスには少々遅い気もする。幸か不幸か私には職がなくいつも時間に余裕があるが、マトリフには仕事があった。しかしその都合も付けずにマトリフが提案するとも思えない。今年は夏の休暇がないのかと思うほど、マトリフは仕事を詰め込んでいた。もしかしたら、それもこのバカンスのためだったのだろうか。
「もちろん。君が行きたいと言うなら、どこへだって行こう」
抱きしめようと腕を広げれば、マトリフはその手を軽く叩いた。
「こんなに暑いのにくっつくかよ」
そのまま離れていこうとするマトリフを捕まえる。腕の中へ閉じ込めてしまえば、マトリフは抵抗もせずにじっとしていた。そのうなじに汗が滲んでいる。
「暑苦しい」
「では夕食はさっぱりしたものを作るよ」
「離れろって言ってんだよ」
マトリフが口で言うほど嫌がってはいないことを知っている。素直ではない口を塞いで舌を絡めた。
「バカンスへの出発はいつ?」
「……来週」
「植木鉢の水やりをお隣に頼んでおこうか。枯れてしまっては可哀想だ」
マトリフはつまらなさそうに鼻を鳴らす。私が植物にかまけることを面白く思っていないからだ。植物を愛でることと、マトリフを愛することは違うベクトルであるのに、嫉妬じみた気持ちになるらしい。
「おい」
その声に私は手を止める。マトリフの薄い腹を撫でていた手は、少しずつ下へと向かっていた。まるで衛兵のような厳しい目を向けられる。
「昼間だぞ」
「気にするのかね」
「暑いって言ってんだろ」
「すぐに気にならなくなる」
手をズボンの中に差し入れれば、マトリフのものは緩く勃ち上がっていた。既にその気になっていたのに、口ばかりで抵抗する。
「しても良いかね」
「嫌だって言ってもヤるんだろうが、この絶倫野郎」
「君の嫌がることなんてするわけがない」
本当は触って欲しくてうずうずしているだろうに、素直になれない性格が自らの首を絞めている。下生えをくすぐると、抗議するように睨まれた。これ以上に焦らしては可哀想だと思い竿に触れると、ようやく大人しくなった。
そのまま扇風機の前に座り、下着をずり下げてマトリフのものを扱く。扇風機の唸りと、遠くから聞こえる工事の音と、時折りマトリフが上げる吐息が、じりじりと暑い部屋に充満していた。汗の匂いが濃くなる。
「……出る」
まるで敗北感でもあるような声だった。顔は私の腕に押し付けているから見れない。私はそのまま追い上げて、片手で精液を受け止めた。絞り出すように手を動かし、出された白濁を塗りこんでいく。やがて冷静さを取り戻したマトリフは、自分の格好に羞恥を覚えたようだ。だが濡れた性器のまま下着を履きたくないらしく、ズボンと下着は半端に下ろしたまま脚だけは閉じた。
「手を洗ってくるよ」
「……最後までやらねえのかよ」
「何の準備もしていないだろう。楽しみは夜に取っておこう。さあシャワーを浴びて」
マトリフに手を貸して立ち上がらせる。まだ仕事が残っているとわかっているマトリフは文句を言いながらも、浴室に入って出の悪いシャワーを浴びた。
***
窓の外を熱風が通り過ぎる。窓が音を立てて揺れて、風に乗った砂が通り過ぎていった。
風が止んだのを待って窓を開ける。観測用のベランダには所狭しと機器が並ぶが、その隙間にマトリフを見つけて声をかけた。
「大丈夫だったかね」
「大丈夫じゃねえよ」
そのままベランダに出るが、先ほど風が運んできた砂が一面に広がっていた。マトリフはゴーグルを外して機器についた砂を払っている。それらの機器はマトリフが天候を観測するためのものだった。
「最近の突風はどうなってやがんだ。シートをかける暇もねえな」
「私は君を心配しているのだよ」
砂まみれになっているマトリフの身体を払う。それらの砂はこの街を囲む砂漠から風に乗って運ばれてきたものだ。確かに八月にして突風が多い。ここは街の端だから突風がくれば真っ先に砂を被る。
この星が砂漠になって久しい。ごく限られた土地にだけ緑が残っているが、それも年々減っていっているという。私が生まれ育った土地はまだ海が残されていたが、暫く帰っていないから干上がっているかもしれない。
「今の突風を報告してくる」
「砂を全て落としてから部屋に入ってくれないか。またベッドが砂だらけになる」
マトリフの気のない返事に、後で掃除するはめになりそうだ。マトリフは寝室に備え付けられた通信機に向かっている。中央観測台への電報は暫くかかるだろう。
私はベランダに置いたままだった植木鉢の様子を見た。突風がきても大丈夫な場所に置いてあったから砂も被っていない。艶々とした葉は日光を浴びていた。
「おい、そこのお前!」
厳しい声が飛んできて、その出所を探す。ベランダから下を見下ろすと衛兵がいた。これは珍しい。あの制服はパプニカの衛兵だ。
「そこを動くな。IDを出しておけ」
頷いてから寝室を振り返る。窓から見えていたのか、マトリフが通信を急いで終わらせていた。
間も無く玄関の扉が激しく叩かれる。出ようとした私より先にマトリフがドアを開けた。
「うるせえな」
衛兵にそんな口をきくのはマトリフくらいだ。その言葉だけで殴られて拘束されても文句は言えない。
「IDを」
マトリフは懐からカードを出した。衛兵はそれをスキャンする。すぐさまに照合が取れた音がした。
「観測官か」
衛兵が忌々しそうに舌打ちする。街には数人の観測官が配置されるのが常だが、マトリフはその一人だ。だが観測官は疎まれることが多い。空ばかり見て飯が食えるなんてと言う者もいた。だが観測官がいなければ突風の予測もつかず、生活に支障が出る。
「そこのお前、さっさとIDを出せ」
衛兵はマトリフを押し退けて私の方へきた。私は首に下げたタグを服の下から出す。私のIDがマトリフのものと形が異なるのは、私の生まれがこの国ではないからだ。
衛兵は私のIDをスキャンしたが、エラー音が出た。これもいつもの事だ。私の国とこの国では情報交換がすんなりといっていない。
「IDが確認できない。来い」
衛兵は銃を抜いて私に向けた。するとマトリフが衛兵と私の間に割り込んでくる。
「こいつはオレの助手だ。IDならちゃんと持ってるだろ」
「照合できてない」
「いいんだマトリフ。どうせ詰所へ行けば照合できる」
このような事は初めてではなかった。以前も詰所まで連れていかれて、半日を無駄に過ごした。
「待て」
その声に戸口を見る。砂避けのフードを被った若者がいた。私はほっと息をつく。よく知った者だったからだ。
「すまない。もう一度IDを見せてもらえるだろうか」
若者はフードを外した。銀髪と整った顔立ちがあらわになる。パプニカ衛兵長のヒュンケルだ。
ヒュンケルが私のIDをスキャンする。すると今度は照合できた音がした。
「すまなかった。古い機器ではそのIDを認識できなかったようだ。問題はない」
ヒュンケルが目配せをすると衛兵は部屋を出ていった。衛兵がいなくなるとヒュンケルは表情を和らげた。
「すまないおじさん。こちらの不手際だ」
「構わないよ。久しぶりだなヒュンケル。元気にしていたか?」
私がこの国にきたばかりの頃、ヒュンケルはまだ少年だった。それが今となっては衛兵長にまでなっている。時の流れは早いものだ。
「茶でも飲んでいくといい。先ほどの突風に巻き込まれなかったかね」
「ええ。ちょうど物陰にいたので」
「何か用があってきたんだろ」
マトリフの言葉に、ヒュンケルは頷いて懐から封筒を取り出した。
「アバンから預かった」
アバンはマトリフの友人だ。ヒュンケルの師でもある。マトリフは受け取った手紙をすぐに懐へ入れた。私はヒュンケルに椅子を勧めて茶を淹れる。浄化槽からではなく、飲用タンクから水を汲んだ。それでも薬臭い水なので味の濃い茶葉を選ぶ。マトリフはまた観測に戻っていった。
茶を飲みながらヒュンケルと近況を報告し合った。パプニカでも緑地が減少しているらしい。飲料水の配給が減らされるという噂のせいで無許可で越境する者が後を絶たず、衛兵がその取り締まりに神経を尖らせているらしかった。私はもうすぐバカンスへ行くのだと話す。
「海のそばに植物が自生しているらしい」
「おじさんの研究していたものもあるといいですね」
おそらく無いだろうと思いながらも、私はヒュンケルの気遣いに頷いた。この国に来た時から、植物の研究は諦めている。今はあの植木鉢で育てている林檎の木だけが私が故郷から持ち込んだ植物だった。
夜になって暑さが落ち着いてからベッドに入る。マトリフは先に横になっていた。
「そういえば手紙にはなんと?」
中央勤めのアバンとマトリフは昔一緒の部署にいたという。今でも頻繁に手紙のやり取りをしていた。
「いつものレシピだ」
「それはいい。見せてくれ」
アバンのレシピには工夫が凝らされていた。限られた水と乾物で美味しいものを作ろうとしている。マトリフはものぐさだから料理をせずに保存食しか食べないから、私がマトリフの好みそうなものを作っていた。
「レシピは明日でいいだろ」
怒ったように言いながらマトリフが身を寄せてくる。本当に口と行動が反対を向く人だ。小さな身体を抱き寄せる。するとシーツがざらざらとしていることに気付く。やはり砂が入り込んでいた。
***
「浮き輪が必要だと思うよ」
もう何度も見た雑誌を広げながら言った私の言葉を、マトリフはいつものように聞き流した。中央から送られたデータを読んでいるときのマトリフに何を言っても無駄だとわかっているが、最近のマトリフはずっと仕事ばかりしているから他に話しかけるときがない。私はこの発行年数もあやしい雑誌を繰り返しみることが娯楽になっているが、さすがに読みすぎて書かれた文字を暗記してしまっていた。
「ここらは昔は海だった」
マトリフから言葉が返ってきたことに驚く。どうやら話が聞こえていたらしい。
「本当に?」
「大渦があったらしい。あの展望台がある高台が島でな」
私は窓から外を見た。今では砂しかない。ここが一面の青い海だったことを想像する。私が生まれ育った国の海と同じ色だろうか。私が知っているのは透き通るエメラルドグリーンの海だ。
「けれどそれはずっと前のことだろう。君は海で泳いだことが?」
「ねぇよ」
「ではやはり浮き輪が必要だよ。市場で売っているだろうか」
「砂漠で浮き輪が買えるかよ。向こうで買えばいい」
水着もな、とマトリフは付け足した。あと数日で出発だから私は荷造りをしているが、バッグの周りには物が散乱している。機内に多くは持ち込めない。足りないものは現地調達だろうが、いくら最低限のものと思っても、バッグに入りきりそうにない。
「レシピを持っていっても?」
アバンから貰ったレシピには、沢山の野菜を使った物もある。これを機に向こうで作ってみるのも良さそうだ。バカンスに行く国はまだ海があるから植物もまだ多いのだろう。
マトリフからの返事はない。何か熱心に書き込んでいる。私達がバカンスへ行っている間はマトリフの仕事を彼の弟子が引き継ぐことになっている。私はモニタ越しにしか話したことがないが、気の良い青年だ。その弟子への引き継ぎのために、マトリフは山のような注意書きを書いている。
マトリフがバカンスの行き先を海にしたのは私のためだろう。海自体に恋焦がれたことはないが、この砂しかない国では私の好きな植物はない。この砂の国ではほんの少しの鉢植えの土を確保するだけでも大変な苦労だった。祖国を恋しく思うこともある。そんな私の気持ちをマトリフは知っていたのかもしれない。
マトリフは口は悪いが愛情深い人なのだと思う。行き場のなかった私をこの部屋に住まわせてくれた。あの砂漠化を進めた酷い内乱の混濁したときに、素性の確かでない異国から来た私を招き入れることは無謀な行いだったはずだ。
「かわいい浮き輪があるといいが」
海が初めてのマトリフが浮き輪で海の浮かぶ姿を想像する。きっと不機嫌な顔をするだろう。カラフルな浮き輪とのちぐはぐさが、私には可愛らしい思える。
「なにニヤニヤしてんだよ」
マトリフがこちらを見ていた。書類をまとめているから終わったのだろう。
「何か飲むかね」
私は不埒な想像をかき消して立ち上がる。するとマトリフが腕を掴んで止めた。
「すけべなこと考えてただろ」
「まさか」
頭の中は自由であるから、たとえばマトリフが海を怖がって私の腕に縋りついていようが、溶ける氷菓を舌で舐めていようが、日焼けした肌でベッドであられもないポーズをとっていようが、申告する必要はない。
***
祖国を愛していたかと問われれば、迷いながら首を横に振るだろう。愛着こそあれど、貧しい国での生活は食うにも困るほどだった。だが祖国には私が心から愛して人生を打ち込めるものがあった。植物の研究だ。この砂の星において、植物の研究は大変な価値があった。苦労して学者になった私は、植物の研究に打ち込めて幸せだった。
だがあの内乱がきっかけで、それらは全て失われた。私の祖国は貧しさに耐えきれなくなり、この国の内乱に乗じて侵略を始めた。祖国は秘密裏に多くの兵士をこの国へ送り込んだ。私もその一人だった。
だがそれは失敗に終わった。この国はスパイが送り込まれたことに気付き、国交を一切経ってしまった。行き来は出来なくなり、私のような兵士はこの国に取り残された。だが祖国は私たち兵士の存在は決して認めず、内乱の最中の国に観光へ行き帰れなくなった者とした。この国もスパイを探しているだろうが、名乗りでない限り見つけられはしないだろう。祖国からの救済はなく、帰れなくなった私はこの国で生きていくしかなかった。海もないこの国で。
「もし帰れるなら、国に帰りたいか?」
マトリフに問われたことがある。マトリフは私の訛りから、この国の住人ではないと早々に気付いていたらしかった。私は自分がスパイだとは言わなかったが、マトリフなら全て気付いていただろう。
「帰りたいよ」
口が勝手に答えていた。それは私の心が出す答えと少し違っていたが、むしろ無意識では即答できるほど帰りたいと願っていたのかもしれない。
バカンスへ行く朝。私はお隣のドアをノックした。腕には林檎の鉢植えを抱えている。
「はいは〜い」
隣に住むのは小柄な老人で、いつも丸いサングラスをかけていた。武術の達人だとマトリフは言っていたが、朗らかで軽妙な様子からは想像ができなかった。
「朝早くからすまない。これがお願いしていた植木鉢です」
「任せといて。ちゃあんとお水あげるから。バカンス楽しんで」
植木鉢を渡しすときに一抹の悲しさを感じた。たった二週間だというのに。
すると老人はじっと私を見つめてきた。
「元気でね」
その言葉に引っ掛かりを感じる。まるで長い別れの挨拶のようだった。
「おい、行くぞ」
後ろからマトリフに言われる。荷物は出されてあり、マトリフは鍵をかけていた。マトリフは私を押し退けて、鍵を老人に投げ渡した。
「じゃあな大将。しばらく留守にする」
「気をつけてね」
老人が手を振って、私は頭を下げる。マトリフのぶんの荷物も持って空港へ向かった。
空港はそれなりに賑わっていた。バカンスから帰ってきたのか、大きな荷物と異国の土産袋が目立つ。私たちはいくつかの煩雑な手続きをした。保安検査場は長い列になっている。出国検査も年々厳しくなっているらしい。職員に行き先での目的を聞かれたマトリフは素っ気なく観光だと言った。職員は私のパスポートを何度も訝しげに眺めてから、親の仇のようにスタンプを押した。私は息をついて職員の前を通り過ぎる。
マトリフと一緒に搭乗口へ向かった。ここまでくれば安心だろう。あとは飛行機に乗って一眠りすれば海だ。
「すみません」
ガードマンに声をかけられて足を止める。嫌な予感がした。
「少々お話を聞かせて頂いても?」
ガードマンに鋭い目を向けられる。私はまたかと思う。服の中からIDタグを引っ張り出した。
「IDチェックなら早くしてくれ。飛行機に乗り遅れる」
「ここではなんですので、別室へ」
ガードマンは有無を言わせない雰囲気で私の腕を掴んだ。見ればその別室の前にいる三人のガードマンがこちらを見ている。待ち構えていたと言わんばかりだ。私は思わずマトリフを見る。
「行くぞ」
マトリフは私の背を押した。胸がすっと冷えていく。マトリフは私が衛兵にIDを確認されるときにさえ庇うように食ってかかっていた。それなのに今は私を差し出すように背を押す。まさかマトリフが私を売ったのか。
私は何も考えられなくなって大人しく歩いた。
***
照明を反射した廊下がどこまでも続いているような気がした。右隣にはマトリフが、そして周りを固めるように職員に囲まれて歩いていた。
別室にと言われたはずだが、その前を通り過ぎてさらに奥へと連れて行かれた。関係者以外立ち入り禁止という立て看板まで超え、長い廊下を進む。だんだんと喧騒が遠のいていった。ここまできてただの持ち物検査ではあるまい。
私はマトリフの顔を見れなかった。裏切られたのだという事実を直視できない。だがどこかで安堵もしていた。これで偽りの人生は終わったのだと思えば肩の荷が降りるような気がした。祖国へ強制的に送り帰されるのか、あるいはこのまま陽の光を見ることなく人生が終わるのかはわからない。だがどちらにせよ、これでマトリフと会うこともなくなるだろう。たとえ裏切られたにせよ、恨む気持ちはなかった。
「ここへ」
職員の一人が突然にドアを開けた。なにもないこじんまりとした部屋に押し込まれる。
「っっっっはぁああああ〜」
突然に職員が気の抜けた声を上げた。見れば四人いた職員全員が空気の抜けた人形のように床にしゃがみ込んでいる。
「大きい声出してんじゃねえ」
マトリフが呆れたように肩をすくめた。
「わかってるよお兄者。でもここまで来るのが大変なんじゃよ?」
「ほら、さっさと着替えろ。お前もだよガンガディア。なにボサっとしてんだ」
マトリフに何かを押し付けられる。それは作業着のようだった。私はわけがわからずマトリフを見返す。マトリフは着ていた服を脱いで作業着に着替えていた。先ほどの四人の職員もそれぞれ作業着に着替えている。
「ほら兄者、ちゃんと説明したほうが良いって言ったじゃろ」
年嵩の男がマトリフに言う。いや、よく見ればこの男は以前にも会ったことがあった。確かマトリフの後輩だったはずだ。
「マトリフ、これはいったい」
「バカンスだって言ったろ」
マトリフは帽子を目深に被った。その姿は飛行場で働く整備士のものだった。
「お前を故郷に帰してやる」
「何を言って……私の国とこの国は行き来は禁止されている」
「だからこんな面倒くせえとこしてんだろ」
マトリフは作業着の襟を引っ張ってみせた。
「まさか密入国を?」
「そのためにこいつらに協力を頼んだ」
すると先ほどの四人組はそれぞれに悪い笑みを浮かべている。確かマトリフは後輩だという年嵩の男のことを、悪どい商売をしていると言っていた。
「まあ頂くもんは頂いたからな。あんたの国まで送り届けてやるよ」
最初に声をかけてきた、黒髪で鋭い目の男が言う。
私は祖国に帰れることなどすっかり諦めていた。それを急に目の前に差し出されて、まだ気持ちが追いつかない。
「本気なのかねマトリフ」
「何も難しいことはねえ。その作業着を着たら、このまま外へ出る。すぐ近くにあるセスナの点検のフリをしてな。隙を見て乗り込んで飛び立つってわけだ」
「そんなに上手くいくのかね」
「安心しろよ。コイツらは何回もお前と同じような連中を何人も向こうの国へ送り帰してんだ」
危険を伴わないわけがない。だが、上手くいけば祖国に帰れる。
ようやく込み上げてきた嬉しさに、気付くのが遅れた。
「待ってくれ。君は」
私が祖国に帰るなら、マトリフには二度と会えなくなるということだ。だがマトリフは得意気な笑みを浮かべた。
「よく見ろよ。なんでオレまでこの格好をしてんだ?」
「まさか君も行くのか」
そんなことをすればこの国には二度と戻れないかもしれない。私が祖国に帰れても、マトリフが祖国を失うことになる。祖国だけではない。これまでの暮らしも仕事も友人も、すべて手放すつもりなのか。
「おいおい、まさか一人で行くって言うんじゃねえだろうな」
「しかし、君はそれで良いのか」
「一緒にバカンスだって言ったろ。お前の国の海で泳ごうぜ。ダセェ浮き輪も買ってよ」
***
私は遠い記憶を思い出していた。澄んだ海にただ浮かんで、空を見上げていたあの日を。
私はマトリフの手を掴んだ。
「一緒に行こう」
「だったらとっとと出発だ」
私たちは部屋を出て先ほどの廊下を奥へと進んだ。いくつかの扉を越えると外に出た。四人組はどこからか道具箱を持ってきている。マトリフがセスナを指し示した。
「きょろきょろすんなよ。堂々としてろ」
マトリフに囁かれる。しかしどうしても緊張せずにはいられなかった。ライフルを持った衛兵の姿があちらこちらに見える。今にもその衛兵が私たちを見咎め、銃口をこちらに向ける気がしたのだ。
「いいか。このままセスナの整備をする。そんで整備が終わったら整備工場の端まで移動させる。そしたら全員で乗り込んでそのままオサラバさ」
四人組は慣れた様子でセスナの整備を始めた。私は機械については知識がないから何をするか迷っていると、マトリフが私を指導でもするように振る舞った。多過ぎる整備員の誤魔化しなのだろう。
「よし、移動させるぞ」
そのままセスナを整備工場の奥まで運んだ。整備工場に人気はない。
「ガンガディア、乗り込め」
言われるままにセスナに乗り込む。操縦席にはマトリフの後輩が、その隣に髪の長い女性が座って地図を広げている。
「このまま滑走路へは出ずに飛び立つからの。多少は揺れるぞ」
「さあ行くよ」
すると前方で整備工場のシャッターが大きな音を立てながらゆっくりと下がってきていた。整備員がシャッターの昇降ボタンを押している。あのシャッターが閉じてしまえばセスナは飛び立てない。
「まずい」
言ってマトリフがセスナのドアを開けて降りた。
「おおい、まだ閉めるな!」
マトリフの声が工場内に響く。
「もう整備はそれで終わりだろ」
返ってきた声に緊張が高まる。このままバレてしまうのではないかと思うと息が詰まった。
「さっき油をぶち撒けちまったんだ。換気のために開けておいてくれよ。あとでオレが閉めておくから」
シャッターの動きが止まった。だがすでに半分以上が下がっている。このままではセスナがシャッターにぶつかってしまう。すると整備員がこちらに近づいてきた。
「おい、なんでお前らセスナに乗っているんだ」
マトリフが私を見た。嫌な予感がする。
「このまま行け。オレがシャッターを開ける」
止める間もなくマトリフはドアを閉めた。それと同時にセスナのエンジンがかかる。
「待て。マトリフが!」
「このままじゃ全員がとっ捕まるんだよ!」
ドアに手をかけようとしたが押さえつけられる。マトリフがシャッターに向かって走るのが見えた。
「マトリフ!」
セスナがゆっくりと動き始める。マトリフは銃を抜いて整備員に向けていた。整備員は両手を上げて後退っていく。ボタンが押されたのかシャッターがゆっくりと上がり始めた。セスナは途端に速度を上げる。同時にマトリフはこちらに向かって駆け出した。
「マトリフ!」
私はドアを開けて手を伸ばした。するとどこからか銃声がする。衛兵にも気付かれたようだ。だがこのまま飛び立てば逃げ切れる。
「マトリフ!」
身を乗り出して手を伸ばす。マトリフは持っていた銃も手放して全力で走っていた。銃声が増えていく。走るマトリフの足元を銃弾が跳ねた。
「セスナを止めてくれ!」
私は叫んでいた。だが私の体を押さえている男に怒鳴り返される。
「出来るわけない!!」
セスナはあと少しで工場を出る。シャッターは上がり切っていた。マトリフは走りながら手を伸ばしている。私も目一杯手を伸ばした。あと少しで手が届く。セスナが大きく揺れた。
「マトリフ!」
一緒に海に行こう。あの海をあなたと一緒に見たいんだ。
伸ばした手の指先が触れる。私はマトリフの手を掴んだ。
***
滑り落ちそうになるマトリフの手のひらを必死で握りしめた。機体は揺れながら高度を上げる。弾丸はなんとしてもこのセスナを撃ち落とそうとしていた。
傾く機内に体ごと持っていかれそうになる。私の脚を二人が押さえているが、今にも滑り落ちてしまいそうだった。だがそれよりもマトリフの手がすり抜けるのが怖くて、掴んでいた手摺りを離して両手でマトリフの手を掴んだ。
「駄目だ。オレの手を離せ」
マトリフが諦めたように言う。私はマトリフを引き上げようと力を込めるがうまくいかなかった。
「何を言っている。早く私の手をのぼってくるんだ!」
高度はどんどん上がっていく。もう銃弾は飛んでこなかった。
「両手で掴んで、早く!!」
マトリフが腹を押さえていた手を伸ばした。その手が赤く濡れている。見れば腹が赤く染まっていた。衛兵が撃ったものが当たっていたらしい。
「ああ、マトリフ」
零れ落ちそうになる命を繋ぎ止めるように赤い手を握りしめた。
「絶対に君を見捨てない」
力尽くでマトリフを引き上げた。すぐにドアが閉められる。セスナはバランスを取り戻して速度を上げた。
マトリフを機内に寝かせて傷口を見る。溢れ出る血を止めようとするが、事態が良くなっているとは思えなかった。
「心配すんな。これくらいじゃくたばらねえよ」
「マトリフ。すまない」
私が帰りたいなんて言わなければこんなことにはならなかった。だがマトリフは手を伸ばすと、私の顔に触れた。
「約束しただろ。海に行くって」
マトリフの手を握りしめる。そうだ。このまま戻ってすぐに病院に行けばマトリフは助かる。
「戻ってくれ。マトリフを病院に連れていく」
「馬鹿言うな。戻ったら蜂の巣にされるだけだ」
「しかし……だったらどうしたらいいんだ」
マトリフを助けることが最優先のはずだ。だが戻ったところで適切な治療が受けられるとは限らない。このまま私の国へ向かった方が安全かもしれない。時間はどれくらいか。マトリフがあとどれくらい持ち堪えられるか。
「おい……手を貸してくれ」
マトリフが起きあがろうとしていた。マトリフは厳しい表情をしている。
「動いてはいけない」
「いいから早くしろ!」
マトリフの背に手を添える。傷口を押さえたまま体を起こすと、マトリフは窓に顔を寄せた。
「クソッ……突風だ」
セスナはすでに砂漠を飛んでいた。遠くへ目を凝らすと、砂の壁が見える。
「まぞっほ、西に大きく回れ」
「あんな大きな突風避けきれんよ!」
「やるっきゃねえだろ」
マトリフは大きく息をつくと私を見た。
「オレがナビする。ガンガディア、オレの体を支えてくれ」
もし突風に巻き込まれれば小さなセスナなど粉々にされる。私はマトリフの体を抱きかかえるようにした。
セスナは突風から逃げるように飛んだ。まるで大きな魔物のような強風がセスナを喰らおうとする。突風の爪先がセスナを襲った。悲鳴が上がる。
「逃げ切れねえじゃんか!」
翼が大きな音を立てて割れた。途端にセスナが傾く。
「逃げ切るよ。不時着には慣れてるから安心せい」
やがてセスナは砂漠へと降りた。そのまま突風をやり過ごす。風はあっという間に去っていった。
「さてどうするかの」
「どうするもこうするも、歩くっきゃねえだろ」
リーダー格の男が言う。私はマトリフを背負った。地図を見て私の国へ向かう方角を確かめる。するとリーダー格の男が言った。
「オレたちは向こうの国へ向かう。少しは近いからな。あんたらはやっぱり最初の目的地を目指すのか」
広大な、どこまでも広がる砂に体が沈みそうになる。背のマトリフを背負い直した。
「ああ。約束したからね」
***
歩く先に見えるのは砂ばかりだ。世界の半分が青い空で、残りの半分が黄褐色の砂だ。その世界の中に取り残され、いつか自分もその砂の一粒になるのではないかと思う。
砂地は常に足を絡め取ろうと手を伸ばしていた。一歩ごとに沈み込む足を上げることが辛くなってくる。
「マトリフ、日が傾いてきたよ」
少なくとも太陽の位置さえわかれば方角は間違わないはずだ。だが私はマトリフほど空に詳しくない。もしまた突風がくれば無防備に身を晒すしかない。
ふと、あの林檎の木のことを思い出した。お隣の老人に託した私の林檎の木だ。あれは今朝のことだったのに、随分と前のことのように思える。あの国へは帰らないことの、唯一の心残りはあの林檎の木だった。あの老人なら世話をしてくれると思うが、やはり持ち帰れないことは残念だった。だがいつかあの林檎の木が実を付けたなら、老人も喜んでくれるだろう。
「君は林檎を食べたことがあっただろうか」
砂漠の国で果物は貴重だった。そんなものが市場に出ても、おそらく買えないほどの高値がつく。おそらく一月分の水が買えるほどの値段だ。代用肉だって安くはないし、魚なんてここ数年見ていない。そうだ、マトリフは魚が好きだった。海に行けばまず魚釣りをするのも良いだろう。小舟を借りて二人で魚釣りをする。それはとても良い考えに思えた。
「マトリフ?」
ずり落ちてくるマトリフを背負い直す。足は砂に沈んだ。流れ落ちた汗が砂地に吸い込まれていく。
「言っていなかったが、私は泳ぐのは苦手だ。足のつく浅瀬でなら泳げるのだが」
浮き輪は二つ用意しよう。お揃いの模様の、マトリフがダサいと文句を言いそうな浮き輪だ。その浮き輪をつけて二人で泳ぐ練習をする。疲れたらパラソルの下で休みながら、木の実のジュースを飲むんだ。
そうだ、もしマトリフが植物に興味を持ってくれたら、国中の草木を見せて回ろう。植物園には私が発見した植物がまだあるはずだ。あの美しい硝子張りの円天井と、希少な植物たち。その一つずつをマトリフに説明してあげたい。
「もし新種を発見したら、君の名前をつけるよ」
歩きながら天を仰ぐ。どれくらい歩いただろうか。もう随分と歩いた気もするが、日の傾きから、まださほど経っていない気もする。遠くを見ようとするが景色は変わらなかった。振り返れば私の足跡だけが砂地に残っている。翼の折れたセスナはもう見えなくなっていた。
「あの四人は無事に辿り着けただろうか」
彼らの向かった国を私は知らない。今さらだが、彼らと一緒にその国へ行った方が良かったのだろうかと思う。だが今から引き返して追いかけたところで、追いつくはずがない。その国には海はあるのだろうか。いや、確か本来ならその国にバカンスへ行こうとしていたのではないか。あの古い雑誌に載っていた美しい青い海。だが私は今も海が残っているなんて半分も信じていなかった。だがマトリフが誘ってくれたバカンスに文句を言うようなことをしたくなくて黙っていた。
私の国にだって、もう海はないのかもしれない。行ったところで、干からびた砂漠だけがそこにあるのかもしれない。
「すまないね。水を持ってくれば良かったのだが」
私たちは何を目指しているのだろうか。ありもしない海を求めて、こんな砂漠を歩いている。いや、信じたいのだ。こんな砂漠の惑星にだって、まだ海があるのだと。それは望みというよりは祈りだった。このまま歩き続ければ、枯れた海にさえ水が湧き出すのだと。そうでなければ何のためにここまで来たのかわからない。
途端に足が動かなくなる。汗が流れ落ちた。息が上がって苦しい。浴びるように水が飲みたい。もう砂なんて見たくなかった。そうだろうマトリフ。何故さっきから返事をしてくれないんだ。
「海だよマトリフ。見てくれ」
そんな稚拙な嘘を彼が信じるはずがない。見えるのは果てしない砂漠だ。どこにも海なんてありはしない。地平線が揺らめいている。
答えてくれマトリフ。何故命を賭けてまで私を故郷へ帰してくれようとしたんだ。海に何を望んでいたんだ。君の気持ちを知らないままで、私は砂に埋もれたくはない。
「海だよマトリフ。私たちの海が見えるんだ」
***
目の前に広がる海は波もなく穏やかだった。古い記憶と違わぬ透き通った水が、周囲の砂漠なんて嘘であるかのように存在している。
私は浜辺に刺したパラソルが作った影の下でビーチチェアに腰を下ろしていた。手に広げた本は先ほどからページを捲っていない。どこまでも続く海を目の前にすると、つい目が海のほうを向いていた。
「君も見ていて飽きないだろう、マトリフ」
私は話しかけるが、隣のチェアから返事はない。チェアに置かれた植木鉢は不機嫌そうに黙り込んだままだ。私が品種改良した、水が少ない土地でも育つ林檎の木で、マトリフと名付けた。小さいが赤い実をつける。甘さはなく、酸っぱさがいつまでも舌に残るせいか、同僚にはひどく不評だった。
「私は美味しいと思ったのだがね」
色付いてきた林檎の実を撫でる。すると嫌がるように葉が揺れた。わかっているよ。いつでも触られたいわけではないのだよね。
透き通る海の中に小さな魚の群れを見つけた。予測できない動きで滑るように泳いでいる。陽の光を反射してきらめいて見えた。
魚釣りが禁止されていたのは残念だった。種の保存のために誰も海の生き物に手出しできない。それどころか遊泳すら限られた場所と期間でしか許されておらず、今はその禁止期間だった。派手な模様の浮き輪はまだ買っていない。次の海開きには買えるだろう。
「理想通りにはいかないものだね。だが海がある。君たち植物もだ」
このマトリフがいずれ砂漠に根を下ろす日がくるだろう。きっと大きな木になる。たくさんの実を付けて、たくさんの人の喉を潤すのだ。
すると、突然に頬に冷たいものが当てられた。驚いて見れば、グラスを持った不機嫌そうなマトリフが私を見下ろしていた。
「オレの椅子に植木鉢を置くなって言ったろ」
マトリフは私にグラスを渡すと、空いた手で植木鉢を掴み、浜辺のへこみへと置いた。そしてビーチチェアに音を立てて座った。
「また植木に嫉妬かね」
「そいつをオレの名前で呼ぶな」
「既に正式な学名として認められているのに?」
私は植木鉢を砂地から救った。同じ名前なのにマトリフから嫌われて可哀想だ。
「ったくよ……」
マトリフは盛大なため息をついて持ってきたグラスのストローを吸っている。木の実のジュースは気に入ってくれたらしい。私もマトリフが持ってきてくれたものに口を付けた。
「通信は終わったのかね」
「アバンの話は長えんだよ。お前の欲しがってたレシピを書き写すだけで何時間かかるんだよ」
「ではレシピを聞いてくれたのだね?」
「机に置いてある。走り書きだから読めねえかもしれねえけどな」
意地悪そうに笑うマトリフの頬に口付ける。マトリフはせっかく作った笑みを一瞬で消してしまった。
「愛しているよマトリフ」
「軽い口だよなまったく」
「何度でも伝えたいのだよ」
マトリフは呆れたようにチェアの背に身を預けた。しばらくお互いに口をきかずに海を見ていた。やはりいつまでだって見ていられる。
「きれいだな。お前の故郷は」
「私もそう思うよ。今こうしていられるのは君のおかげだ」
マトリフを見るとき、つい視線が腹部にいく。今は服で隠れているが、そこに残る傷跡があの砂漠での出来事を思い出させる。もしあのとき四人組が別の小型飛行機で飛んできてくれていなかったら、マトリフも私も砂に埋もれていただろう。
「私の故郷は美しい。海もある。だから私を故郷へ帰してくれようとしたのかね」
あのとき聞けなかった答えを聞きたくて、再び問いを投げかける。私を故郷へ帰してくれた事だけではない。内戦中に見捨てられ、あの国で行く宛のなかった私を匿ってくれたこと。やがて私がマトリフを愛してしまって、その想いを告げたときも私を拒まなかったこと。私はそんなマトリフの優しさに甘えてきたが、それほどまで愛される理由がわからなかった。
「あの国だって、昔は海があったって言ったろ」
「それが関係しているのかね」
「ずっと昔のことだ。大渦があるせいで、ずっとその音が洞窟の中にまで届くんだ」
まるで実際にその場にいたようにマトリフは言う。だがその海があったというのは、今から何千年も前の話だ。だがマトリフの表情は想像を語っているようには見えない。まるで本当にマトリフが薄暗い洞窟の中で、海の音を聞いているように思える。
「ガンガディア」
マトリフが私を見た。その視線がこれまでと違って見えるのは気のせいだろうか。マトリフは私の知らないものを知っているように思えた。
「今回は殺し合わずにいられるんだ。なんだってするさ」
「どういう意味かね」
殺し合うだなんて突然に物騒なことを言う。もしかして私がスパイとしてこなした任務のどれかで接触したのだろうか。しかし私は殆ど任務らしいことなどしなかった。
「遠い夢の話さ。過去を思い出せば、お前にもわかる」
マトリフの言っている意味がよくわからない。私たちはあの国で出会う前に、どこかで出会っていたのだろうか。
「マトリフ」
私の声から逃げるようにマトリフが立ち上がった。片足立ちになって靴を脱いでいる。やがてマトリフは靴下も脱いでしまうと海へと歩いていった。
「遊泳は禁止だ」
「足を濡らすだけだよ」
マトリフは波打ち際まで行くと遠慮なく足をつけた。小さな波がマトリフのズボンの裾を濡らす。
「お前も来いよ」
振り返ったマトリフが大きな声で言う。何故だか目頭が熱くなって、慌てて指先で押さえた。なにか大事なことを思い出せそうな気がしたのに、消えていってしまった。
君がいるだけでこんなにも嬉しいのに、私は何を忘れてしまったのだろうか。私も靴を脱いでマトリフのもとへと向かう。指先に触れた海の水は予想よりも冷たくなかった。
「思い出させるだろうか。過去のことを」
「別に思い出さなくてもいい。きっと驚いて腰を抜かすだろうからな」
声を抑えるように笑うマトリフを抱きしめる。どんな過去だろうと、今私の腕の中にマトリフがいることには変わらない。
海が陽の光を受けて輝いて見える。水平線まで続く一面の銀光りが、どこまでも広がっていくようだった。