気持ちの自覚「あいつのこと、本気になっちまいそうだ」
酔ったマトリフの言葉に、何を今更とアバンは思った。てっきり自覚しながら戯れあっているのかと思っていたからだ。アバンは問いを返す。
「本気になったら駄目なんですか」
「まずいだろ。あいつは敵だぞ」
「そんなこと、最初からわかっていたでしょう」
二人が惹かれあっていくのを側から見ていた。止めたってしょうがない。心が通じる相手が偶然にも敵だったのだから。
話の接ぎ穂がなくなる。しばらく沈黙が続いた。解決しない悩みは山ほどあるし、これもその一つに過ぎない。やがてマトリフが重い溜息を吐いた。
「悪い。忘れてくれ。今日は変に酔っちまった」
言いながらマトリフはアバンのグラスに酒を注いだ。その横顔を見る。酔っているとは思えない眼差しが、ここにはいない誰かを見ているようだった。
「飲み過ぎたんだ」
「ええ。そのようですね」
「私はおかしいだろうか」
ガンガディアの深刻な声に、バルトスは言葉に迷った。相談があると言われて話を聞いているが、アドバイスに困ってしまった。
「話を整理して良いだろうか。ガンガディア殿は大魔道士のことを尊敬している。そうだったね」
「ああ。その通りだ」
ガンガディアは大魔道士をいかに尊敬しているかを説明するだけで小一時間費やした。バルトスは真面目なので一生懸命にそれを聞いていたが、簡単に言えば「尊敬している」ということだった。バルトスは頷いて言葉を続けた。
「だが最近はそれだけではなくて、彼を見ているとどうにも……?」
「可愛いと思うのだよ」
「そうだったな。可愛いと思うのか。それは」
バルトスは真剣に悩む同僚に告げるべきか迷った。おそらくそれは恋だ。だが彼の想い人は敵だった。
「それ沼じゃないですか」
その声に二人で振り返る。するとキギロが笑みを浮かべながら立っていた。どうやら話を聞いていたらしい。
「沼?」
「大魔道士沼に落ちたんですよ。可愛いって言い始めたら沼にハマった証拠って言いますからねえ」
「先ほどから言っている意味がわからないのだが」
「つまりあんたは大魔道士推しってこと。尊敬してて可愛いって思ってるんでしょ。あのジジイの健康で元気な姿が見たい。その姿に元気を貰える」
「確かに。そう言われてみれば」
ガンガディアは思い当たるのかハッとした。キギロが得意顔になる。
「そういうのを推してるって言うんですよ」
「なるほど!」
清々しい顔になっているガンガディアを見ながら、バルトスは腑に落ちなかった。するとキギロがこっそりと耳打ちしてくる。
今ガンガディアが恋に溺れでもしたら魔王軍は機能しなくなる。だから恋を自覚させてはいけない。
「……それでいいのだろうか」
バルトスは呟く。ガンガディアが推しのために重課金しないか心配だった。
「なんだよ、またお前か」
マトリフは高く飛び上がりながら嬉しそうに呟く。遠くからでもはっきりと見える青い巨躯は既にこちらに向けて呪文を撃っていた。まるで挨拶のようなそれを難なく相殺する。
「さて」
マトリフは煙幕代わりの呪文を地面へと放つ。巻き上がる砂埃で数秒はガンガディアの視界を奪えるだろう。その間にマトリフは今日のガンガディアの手法に考えを巡らせた。遮蔽物も何もない平地で遠慮なく高位呪文を撃てるマトリフを相手に、ガンガディアはどのような策でくるのか。それを考えるだけでマトリフの胸は躍った。
「しばらくはオレのことだけ考えてたか?」
呟いてマトリフは狙いを定める。撃った呪文は砂埃から飛び出そうとする影に命中した。
「勿論だ」
背後から聞こえたガンガディアの声に胸が高鳴る。マトリフは咄嗟に逃げようとしたが手遅れだった。足首を掴まれて天地がひっくり返る。砂埃から飛び出していたのは囮の呪文だったらしい。
「会いたかったぜ」
この距離では避けられないだろうとマヌーサを唱える。しかしガンガディアは呪文を真正面から受けてもマトリフの足を離そうとはしなかった。
「君を離さない」
「へえ、口説いてんのか?」
「戯言を」
だが次の瞬間にマトリフは大空に身を翻していた。呪文で小鳥に化けてガンガディアの手から抜け出したからだ。マヌーサのかかったガンガディアはそれが現実か幻かわからないまま手を伸ばす。しかしその手は空を切るばかりだった。
マトリフは逃げ帰るとモシャスを解いた。掴まれた足首を見れば掴まれた跡が赤く残っている。捻挫したらしく地に足をつけば傷んだ。
それからしばらく足を引きずって歩くマトリフの姿があった。その間の機嫌はすこぶる良かったという。