鼻に気をつけろ「小笠原の弓、お見事です!」
その溌剌とした声を瘴奸は貞宗の後ろで聞いていた。確か村上という名だったかと瘴奸は思い出す。瘴奸が会ったのはこの戦が初めてだったが、若いが明敏な男だった。
村上は自ら戦後処理を引き受けると申し出た。それも、市河と一緒にだ。村上の後ろにはその市河もいる。村上は貞宗に次の砦へ進むように進言した。
村上の進言は真っ当だった。より多くの領地を侵略するには三大将がいない手薄なうちに、貞宗自身が手早く動く必要があった。
しかし、瘴奸はこの村上という男が気に掛かった。
貞宗は村上の言葉に威勢よく答えて馬を走らせる。瘴奸はそれに続きながら、貞宗に馬を寄せた。
「大殿」
瘴奸は村上たちとの距離をはかりながら貞宗に声をかけた。
「よろしいのですか?」
「なんのことだ」
「市河殿のことです」
貞宗の目が真っ直ぐに瘴奸を見た。瘴奸は馬を走らせたまま貞宗に身を寄せる。
「あの村上という男。気をつけたほうが良いかもしれません。あれは北信濃の者。市河殿を取り込むつもりなのでは」
村上は貞宗をおだててから先へ進むように言った。気配りの出来る男のように受け取れるが、そう見せかけて、貞宗と市河を引き離したようにも見える。瘴奸は後者だと判断した。
貞宗は瘴奸の言葉に驚きも怒りもしなかった。視線を前方へと戻す。
「だとしても市河が村上に靡くと思うか。市河は儂から離れぬ」
貞宗は躊躇せず言い切った。それは市河に対する絶対的な信頼だった。瘴奸はやや面食らうが、その方が有り難かった。貞宗がその信頼を自ら口にしたという事実が必要だからだ。
「出過ぎたことを申しました」
「そちも心配性よの」
瘴奸は貞宗から身を引いて後ろを振り向いた。小さくだが、市河がこちらを見ているのがわかる。この距離であれば市河の耳には先ほどの会話が聞こえていただろう。
貞宗への忠告は本来の目的ではない。それを市河に聞かせることが瘴奸の狙いだった。市河が聞き取れる距離のうちで、瘴奸が貞宗に耳打ちすれば、市河は必ず聞き耳を立てる。瘴奸は市河に村上に気をつけろと伝えたかった。貞宗の市河への信頼の言葉も重く響くだろう。
瘴奸の目では市河の表情までは見えない。だが間違いなく聞こえているはずだ。良くも悪くも真っ直ぐ育った市河が、あの村上という男に奪われることは気に入らない。瘴奸は貞宗を追って馬を走らせた。