歳上のお姉さん(概念)再来 幽霊というのは便利なもので、実体がないものだから簡単に姿を変えられる。瘴奸は我が身を若い頃のものに変えて、現世に降り立った。
すらりと上背がある体は若緑色の直垂で包まれている。隙なく結った髪には烏帽子が乗せられ、実直そうな面差しは、どこから見ても好青年という風であった。
瘴奸が容貌を若くしたのには理由があった。お姉さんに可愛がって欲しかったからである。そのためには、若い男子であるほうが都合が良いだろうと考えたからだ。
優しいお姉さんは良いものだ。それがたとえ初老の男性であろうが、大事なのは概念である。年齢を重ねた常興は、まさに瘴奸好みのお姉さんであった。
瘴奸はいつものように遠慮なく常興の居室へと入る。これも幽霊の体の便利さで、戸を開けずとも壁をすり抜けられるから、音もなく瘴奸は常興の前に姿を現した。
常興は庭に続く戸を開け放ち、手酌で酒を飲んでいた。寝間着で膝も崩している。月明かりは常興の白髪を照らし、憂いを帯びた眼差しはどこか色を含んでいた。
常興は突然に現れた瘴奸に目を丸くさせた。瘴奸も不意に見てしまった常興の表情に目を奪われていつもの軽口が出てこない。二人は少しの間、言葉もなく見つめ合った。
「……化けて出るところを間違えていないか?」
常興の言葉には刺々しさがなかった。いつもは瘴奸を見ると小言のように言葉を投げつけてくる。それなのに常興は少し気遣うような表情で瘴奸を見ていた。まるで知らない人物を見ているかのようである。
そこで瘴奸は思い至る。常興は瘴奸が誰かわからないのだ。若い頃の姿と入道姿があまりにかけ離れていて、同一人物であると気付かないらしい。
だがこれは好機だ。瘴奸だとバレないほうが、甘やかしてくれるかもしれない。瘴奸は小さくお辞儀をしてから、切実そうに訴えた。
「突然にお邪魔して申し訳ない。どうやら迷い込んでしまったらしく……」
「気にするな。ここは幽霊がよく来る」
常興は口元に柔らかい笑みを浮かべた。杯の酒を舐めるように飲む。よく見ればその眦は微かに濡れていた。
「……何かあったのですか」
常興は親指の腹で涙を拭った。その濡れた指を虚に見つめる。
「通りすがりの幽霊に聞かせる話ではない」
「通りすがりですから、話せることもあるのでは?」
すると常興は顔を上げて瘴奸をまじまじと見た。そして苦笑する。
「……そうかもしれんな。なに、先に逝ってしまったお方のことを考えていただけだ。ずっとお会いしたいと思っていたのに、全く会いにきてくださらない。代わりに呼んでもない奴ばかりが無駄話をしにくる」
自分のことを言われているのだと気付いて瘴奸は眉を顰めた。無駄話とは心外だ。せっかく興味深い話を選りすぐって話していたのに。
「……それが、ついにお姿を見せてくださった。やっと会いにきてくださったと思ったのに、殆ど話も出来ぬうちに帰ってしまわれた」
それは前回瘴奸がこちらに来た時のことだろう。貞宗は瘴奸を連れ戻すために少しだけ降りてきた。
貞宗は下界に干渉したがらない。そのため、常興にも会いに来ていなかった。瘴奸はその理由を訊ねたことがある。貞宗は、自分が亡き後まで常興を束縛したくないのだと言った。会えばいつまでも心は離れない。生者ならともかく、亡者に心を縛られてはならないと。武士なれば家に縛られ、そこからは逃れられない。だからせめて心は、赴くままに自由であってほしいのだという。
しかし瘴奸は違う意見だった。死んだからといって忘れられるほどの想いではないからだ。たとえ現世とあの世に隔てられようとも、決して忘れられず諦めることもできない。それは瘴奸が身に染みて理解していた。
杯を持つ常興の手が床に落ちた。酒が溢れる。白髪が一房ほつれ、額に影を落としていた。
「私はもう疲れた。早くあちらへいきたい」
幽霊は生者に触れられない。けれども瘴奸はその腕で常興を抱きしめた。
「そんなこと、言うものではありませんよ」
「お前にわかるものか」
「わかりますよ。懸命に生きるあなた達を見ていることしか出来なくて、歯痒くて仕方がなかった。こんなことだったら、武士としての生き方に拘らずに、地を這ってでも生きる道を探すべきでした」
「お前は本当に無駄話が多い。お前の生き方をお前が貶すな」
瘴奸ははっとして常興を見た。常興は呆れたように瘴奸を見ている。それはいつも瘴奸を見る常興の表情だった。
「……常興殿、いつから気付いて……」
「初めからだ馬鹿者。そこまで耄碌しておらぬわ」
常興は追い払うように手を振る。その冷ややかな対応に、先ほどの湿っぽさは見当たらなかった。
「……さっきのは酔ったための妄言だ。忘れろ」
あの言葉が酔いに任せたものだとは思わなかった。普段は目を逸らせていても、本音が消えるわけではない。
しかし、瘴奸は静かに頷いた。無言の共犯者となることを選んだからだ。
瘴奸はそのまま立ち去ろうとして、ふとここへ来た理由を思い出した。
「でしたらひとつだけ、条件が」
瘴奸は人差し指だけを立ててみせる。常興が細い眉を吊り上げた。
「条件だと」
「膝枕をしてください」
「するわけなかろう、この痴れ者が!」
常興は立ち上がって瘴奸を追いかけ回した。その騒がしい足音に、新三郎が眠い目を擦りながらやってくれる。新三郎は見慣れぬ姿の幽霊に悲鳴を上げ、さらにその声を聞きつけた郎党たちが集まってくる。賑やかになった小笠原館を瘴奸は駆け抜けていった。