①
カラリとグラスの氷が鳴る。
綺麗に磨かれた丸い氷がグラスの中で煌めいた。
「......あんたもう辞めたら?」
ため息交じりの言葉に上鳴りは「んー」と生返事を返す。小皿に乗ったオリーブのみをピックで軽く突いて口の中に放り込む。奥歯で噛み締めながら緩やかなジャズの響く店内で少し暗めの照明にゆっくりと目を細めた。
「辞めたって俺、行くとこねぇし。......耳郎が面倒見てくれんなら考えるけど?」
「はぁ?死んでもお断りなんだけど」
「じゃあ無責任なこと言わないでください〜」
すっかり客の引いた小さなバーはマスターが一人で切り盛りをしている。上鳴たちと同い年くらいだろう寡黙な青年は、自分たちの会話に干渉してくることは一切ない。これが心地いいのだと、上鳴は良くこのバーを訪れていた。
「ウチはあんたを心配してんの。......また痩せたでしょ」
「そんなことねぇよ、食うもんは食ってるし」
ポケットに入れた携帯が低い音を立てて鳴る。ちらりと視線を向けると幾度か見たことのある名前に上鳴はゆっくりと息を吐き出した。グラスを一気に煽って気合を入れると、隣でカクテルグラスを傾ける耳郎に断りを入れてバーから出る。上鳴の後ろ姿を視線で追いかけて耳郎は小さくため息を零した。
「......アイツ、ここに来るときはいつも1人で?」
「......誰かを連れて来たのはあなたが初めてですよ」
「......火、もらえます?」
胸ポケットから出した煙草を加えると、青年は耳郎の前で指を鳴らした。途端にボッと火が灯り、耳郎は驚いたように微かに目を開いた。
「あんたの個性、イカしてんじゃん」
「どうも」
ゆっくりと煙を燻らす様子を横目に、青年は洗い立てのグラスを清潔そうな布巾で丁寧に拭いていく。その様子を眺めながら耳郎は軽く頬杖をついた。
「ウチよりアンタの方がアイツのこと詳しそうだね」
「そんなことないですよ。俺は彼とは特に喋らないので」
「それだけ気を許してるって事なのかな......」
カラリと音を立てて戻ってきた上鳴は耳郎の隣に戻ると青年に同じのを、と呟く。
先程より随分と疲れたように見えるのは気のせいではないだろう。
ロックグラスにウイスキーと、丸い氷を一つ。青年の指先から生み出されるそれを上鳴は頬杖を付いて見つめた。
「お前煙草吸うのな」
「まぁね、アンタもウチも変わったのかもね、色々」
「そうだなぁ......」
「お待たせしました」
丸い氷が照明を反射してキラキラ輝く。
上鳴は差し出されたグラスを受け取り口を付けるとゆっくりと嚥下した。
「なぁ耳郎、今晩泊めてくんね?」
「はぁ?無理」
「えー......じゃあマスターでいいや、今日だけでいいからさ、泊めてくんない?」
「ちょっと上鳴アンタ、」
「......別に構わないけど?」
「はぁ?!」
「っ、ハハッマジか。マスター俺の仕事勘付いてると思った」
「......まぁ薄々は。でも俺はそれには関係ないですから」
一切顔色を変えない様子に上鳴は耳郎と顔を見合わせる。興味がないのか、本当に関係ないと思っているのか。上鳴は澄ました顔で綺麗にグラスを並べる背中をじっと見つめた。
「じゃあお世話になっちゃおーかな」
「閉店まで待っていただけるなら、どうぞ?」
「ウチは帰るよ」
「おー。......なぁ耳郎、また飲もうな」
「はいはい、ま、アンタの相手してあげられるのはウチだけだしね」
からかうように笑う様子に、嬉しそうについ頬が緩む。じゃあ、と立ち上がる背中にひらりと手を振って、上鳴は頬杖をついた。
「そーいや俺マスターの名前聞いてない」
「......必要か?」
「これから上がり込もうと思ってるからねぇ、結構マジで」
「.......轟」
「轟サン。......俺は、「上鳴、だろ?」
「.......もう一杯付き合って。轟サンも」
「どうも」
二人分のグラスを傾ける。高い音を立ててグラスが鳴った。
②
バー【No.2】は繁華街の裏路地、地下に小さく店を構えている。コの字型の5人掛けのカウンターに奥に四人用のテーブルが1組。
若いバーテンが一人で切り盛りする、ジャズの流れるおとなしいバーだ。
歓楽街で働く者にとって、余所者には知られたくない唯一の癒しの場。口数の少ないバーテンは必要以上に言葉を発さず、また耳にした噂話を他者に漏らすこともない。
若い青年は顔立ちも良いので、水商売の女たちからも目の保養だと言って好まれていた。
毎日午後8時から午前3時まで。週末は小さなカウンターいっぱいに埋まってしまうことも多い。
煌びやかなネオンが輝く歓楽街の一角に小さなウリセンがあった。見目の良い青年が揃っているとその筋の連中には人気の店。特にデンキという男にハマるとヤバい、というのは、バーに訪れる同業者たちの中で有名だった。バーを一人で切り盛りしている轟の耳にも頻繁に入っており、いつかよく来る金髪の派手な男が噂のデンキだと知った時にも轟は特になんとも思わなかった。なるほど、そういう人たちにはよく好まれる顔だろうな、と思った程度で、いつも同じ席。同じ酒を頼んでボーッと1時間も2時間も1人でいたのを覚えている。いつも一人で来て何時間も同じ酒を飲んでふらりと帰っていく。
今日は初めて人を連れてきたな、とは思ったが、まさか家にくることになるとは思う予想だにしなかった。
轟はウイスキーについてまとめられた本のページをめくりながら小さく溜息を零す。噂の元となる男が家に泊まったと言えば、彼の噂話が好きな連中はどんな顔をするのだろうか。
「シャワーごちそうさま」
ふわりとシャンプーの香りに轟はちらりと視線だけを向けるとお粗末様、と呟く。不意に背中に重みを感じて肩に乗る顔を横目に見ると上鳴は微かに口元に笑みを浮かべていた。
「何見てんの?」
「本だ」
「......いや、そうじゃなくて」
「勉強だ。一口にウイスキーと言ってもたくさんあるからな」
「へぇ......見た目通り真面目なんだな」
「どうでもいいが服を着ろ」
「どうせ脱ぐからいいかなって思って」
「は?」
そういうと上鳴は轟の項にそっと唇を押し当てる。ぞわり、背筋を撫でる感触に轟は上鳴がしようとしていることを察して、呆れたようにため息を零した。
「辞めろ」
「なんでー?ちょっとは期待してんじゃないの?」
「しねぇ、俺は疲れてるし興味ない」
「興味ない?勃たねぇの?」
「うるさい触んな。うちに来たのはそれが目的かよ」
「逆にお誘いに乗ったのはこれが目的かと」
「んなわけあるかさっさと服を着ろ」
無理やりTシャツを頭から被せる。轟より少しだけ小柄な上鳴はいささか大きなシャツに意外そうに声を漏らした。渋々下着を付けると律儀に敷かれた布団に腰を下ろす。全く微動だにしないのだ、轟という男は。自分の誘いに乗ってこなかったのは初めてだった。上鳴はそのままごろりと横になると熱心にページを捲る轟の背中をじっと見つめる。一緒に寝ようと声をかけたら、応えてくれるのだろうか。
「......寝ねぇの?」
「もう少ししたら寝る。先に寝てろ」
「1人じゃ寝れねぇんだよ」
「......なんか作ってやるよ」
おいで、と言う言葉に素直に従う自分が可笑しい。上鳴は自嘲気味に笑みを漏らしながら、轟の向かいにおとなしく腰を下ろした。
③
夕方いつも通り目を覚ますと上鳴の姿はなかった。律儀に畳まれたTシャツが一枚、枕元に置いてあるだけ。
轟はいつものルーティンをこなし、ダイニングテーブルに置かれたメモを1枚掴み上げた。
「お邪魔しました」という一言とおそらく連絡先だろう電話番号。誘い出せ、と言うことかと思うと途端に馬鹿らしく感じて、轟はため息混じりにメモを冷蔵庫に貼り付けた。軽い朝食を作り夕刊に目を通す。コーヒーカップを軽く傾けながら不意に昨夜上鳴が触れた頸を撫でた。
軽い唇の感触はすぐに消えたはずなのに、まるで静電気を纏っているようにチリっと痛む。
なるほど、と妙に納得してしまっていけない。
ハマるとヤバい、という客の言葉の意味が少しだけ分かったような気がした。
午後6時。店を開けるために家を出る。
少しずつネオンのつき始めた歓楽街で、一際異彩を放つラブホテル。その3つ先を曲がった路地に轟の店がある。
買い出しを済ませたビニールを両手にいつもの道を辿っていると、視界の端に見覚えのある金髪を捉えた。随分と肉付きの良いスーツの男に腰を抱かれ、ホテルの中へと消えていく。
一瞬、目が合ったような気がして怪訝に眉を顰めた。
自分とあの男はなんの関係もない。たった一晩泊めてやっただけだ、と言い聞かせながら、無人のバーの扉を開く。
今日のチャームはチーズの盛り合わせにしよう、上物のスコッチが手に入ったからこれはお得意様に。
カウンター後ろの棚に市場で仕入れたばかりの貴重なボトルを並べながら、昨夜の出来事を思い出してしまう。特別何があったわけではない。ただ眠れないと騒ぐ上鳴に温かいミルクを作ってやり、1人は嫌だと言うので一緒に寝た。上鳴がいつも客相手にしているようなことは何もしなかったはずなのに、あの小さい子供のような男が突然色っぽい視線を向けるのだから違和感を覚えて仕方がない。
どっちが本当の上鳴電気なのだろう。
先ほどネオンの中に消えて行った背中を思い出して、轟はもう一度ため息を零した。
その日上鳴は店に姿を表すことはなかった。ある意味“真面目に”働いているのだろう。
午前三時、closeをかけて店を閉める。店内の片付けや食器の片付けを終わらせて午前四時。
今日は一日集中出来なかった、と独言て自宅のアパートに戻ると、轟はあからさまに眉を顰めた。
「......なにやってんだよ」
「あ、おかえり〜」
すっかり出来上がった様子の上鳴は呂律の回らない様子でひらひらと手を振る。
衣類が少し乱れているように見えるのは気のせいだろう。轟は呆れたようにため息を零すと部屋の前に横になる上鳴の体をつま先で軽く突いた。
「近所迷惑なんだが」
「んも〜つれないな〜。俺と轟サンの仲でしょ〜?」
「昨日泊めてやっただけで赤の他人だ」
「今日も泊めてよ、行くとこねぇんだよ、」
泣きそうな声色に微かに罪悪感が込み上げる。しかしふと夕暮れに見た様子を思い出して轟は苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。
「行くとこなんかいくらでもあんだろ」
「ねぇよ、」
「だれかお前の客でも呼べば良いだろ?寝場所もできて金ももらえて万々歳じゃねぇか」
馬鹿らしい、これではまるであの男たちに嫉妬しているようではないか。途端に自分の馬鹿さ加減にうんざりしてくる。轟はゆっくりため息を零すと未だに横になったままの上鳴の腕を掴んで起き上がらせた。
「......俺のこと捨てるのかよ」
「あいにく明日は粗大ゴミの日じゃねぇんだ」
「轟サン、優しいね」
「宿代払えっつの」
「カラダでいい?」
「お断りだ」
「つれないんだから」
半ば引きずるように連れ込んで、畳んだままの布団の上に上鳴の体を投げ捨てる。痛いと騒ぐのを尻目に帰り際にコンビニで仕入れた飲み物を冷蔵庫にしまう。這うようにリビングに来た上鳴はまるで定位置と言わんばかりに轟の座る椅子の向かいに腰を下ろした。
「......またあれ作って」
「なんだ」
「ホットミルク」
思いがけない言葉に拍子抜けして買ったばかりのペットボトルを床に落とす。轟がゆっくり振り返ると、今にも眠そうに目をトロンと閉じかけた上鳴が締まりのない笑みを浮かべていた。
「あれ美味かった。めちゃくちゃ」
「.......はぁ......作っててやるからシャワー浴びてこい。お前なんかくせぇぞ」
「臭いとかひどい!.......でもそうかも。俺ってめちゃくちゃ臭いかもね......」
ゆっくりと立ち上がると勝手知った風にふらふらとシャワー室へ向かう後ろ姿をちらりと横目に、少し言い過ぎただろうかと心配になる。
仕事柄、少々敏感な話題だったかもしれない。
鍋を火にかけて牛乳をカップ一杯分注ぎ、沸騰しないようにゆっくりと温める。スプーン一杯分の蜂蜜と、ほんの少しだけ生姜を入れてゆっくり混ぜると蜂蜜が溶けきったのを見計らってマグカップに注ぎ込む。突然背中に重みを感じで首だけ振り返ると、まるで音もなくシャワーから出た上鳴が小さな子供のように背中にしがみついていた。
「危ねぇだろ」
「ちょっとだけ背中貸して」
「......ホットミルク出来たぞ」
「飲む、......まだ俺臭うかな、」
「......今は俺のシャンプーと同じ匂いだな」
「そっか......そうか......」
どこまで踏み込んで良いのか分からず、轟はただ言われるままジッと背中を貸してやるしか出来ないでいた。すっかり懐かれてしまったと思う反面、気にしているのは自分も同じだった。
否、本当は噂話で耳にしている時から気になっていたのかもしれない。
ゆっくりと体を反転させると、轟は微かに震える上鳴の体をそっと抱きしめた。
④
ゆっくりと浮上する意識に任せて目を覚ます。
上鳴は自分がどこにいるのか分からず何度か瞬きをすると、頭を打つ鈍痛に顔を顰めた。
そうだ、昨日はサイアクな一日で、どうにか全てを忘れようと浴びるほど酒を飲んだのだったっけ。面倒な上客にいつも通りの適当な反応でさっさと済ませようとしたのがバレ、しつこく何度も揺さぶられ、なかなか帰らせてもらえなかったのだ。
上鳴の個性である帯電は体の中に電気をため込むという意味では静電気と似たような原理だ。初めて客を取った時に、体内に留まる電気をコントロールできず、客の体に微かな火傷を負わせてしまった。これではたいそう叱られると思っていた上鳴に告げられた言葉は思いもよらないもので、以来人気の男娼として名を馳せていた。
上客への適当な扱いに文句を言われ散々痛めつけられた挙句、店のオーナーには他の客からクレームが入ったと文句を言われ、普段は絶対に取らない新規の客もサイアクでぜい肉だらけのぶよぶよの指に体中をまさぐられ、自分本位に抱かれたことを思い出すだけで吐き気が込み上げる。
胃の奥からせり上がるような気持ち悪さは二日酔いのせいだと言い聞かせながら布団から這い出すと、見覚えのない室内をゆっくりと見渡した。また酒に酔った勢いで知らない人間の家へと上り込んでしまったのだろうか。
自分のものではない少しサイズの大きなシャツ。どこかで嗅いだことのあるシャンプーの匂い。恐る恐る寝室から出ると、ほとんど何もない簡素な室内が広がっていた。家主は不在だろうか。ダイニングテーブルの上に書置きが置いてある。
『店を開けなきゃいけないから先に出る。鍵は下のポストに入れておいてくれ』
見慣れない文字と簡素な文面に何故だか微かに笑みが漏れた。
がんがんと響くような頭痛にため息を零して、上鳴はゆっくりと室内を歩く。整頓された食器、たくさんの酒の瓶は綺麗に並べられている。箪笥の中には似たような衣類と何枚もの同じシャツ、カマーエプロン。伏せて置いてある写真立てに入った写真に上鳴はあっと声を上げた。
「轟サンの家か……、」
先日たった一度だけ訪れただけなのに、なんの性行為もなくあんなにゆっくりと眠れたのは久しぶりだった。そのぬくもりを求めて、酔った頭で無意識に上り込んでしまったのかもしれない。もしかしたら無理やり彼を求めてしまったかもしれないと思うと、行為があったにせよなかったにせよ、なんだか急に申し訳ないことをしたような罪悪感に襲われた。
どんな顔をして会えばいいのか分からない。俺たちなんか間違いでもありましたかね、と聞くのは酔って記憶がありませんと言っているようで随分失礼に見える。それでもまるで何事もなかったかのようにヘラヘラと笑って見せるのも誠実さに欠ける。
誠実、と考えて、上鳴は自嘲気味に笑みを浮かべた。今更自分に誠実も何もあったものじゃない。こんな仕事をしていながら、一途ですと言ったところで誰が信じるのか。
カーテンを開けると広いベランダに干してある自分の衣服を見つけてますます申し訳なくなった。醜い汚れのついたシャツを誰かに洗ってもらうような人間であってはいけないのだ、と心が軋む。
上鳴は恐らく轟のであろうシャツを脱いで、洗い立ての柔軟剤の匂いのする自分のシャツに袖を通す。まるで知らない人の洋服みたいで落ち着かない。
このままだと、きっとずっと轟に甘えてしまう。深く踏み込もうとしない癖に、他の人とどこか違う風を出してくるあの人なら、自分を受け入れてくれるのではないかと勘違いしてしまう。
「もうクソみてぇな臭いが染みついてんのになぁ……」
ぽつりと呟いた言葉は、誰もいない清潔そうな室内に溶けて滲んでいった。
こんなところに自分のような人間がいつまでもいていいわけではないのだ。
借りていたシャツと布団を畳んで綺麗に整え、ふと冷蔵庫に貼られたメモを見つけた。先日思わせぶりに置いた自分の電話番号。何を期待したのか、急に恥ずかしくなってメモを剥がすとくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に突っ込む。これで無かったことに出来るだろう。ボロボロの革靴に足を入れる。きっともう二度と訪れる事はないだろうと室内を見渡して、上鳴はゆっくりとため息を零した。
部屋の鍵をかけてポストに放る。ポケットに押し込んだ携帯がけたたましく鳴り響き、液晶に映し出された名前に大きくため息を零した。
このまま無視してどこかに行ってしまおうか。
何度もしきりに表示される名前に自嘲気味にため息を零し、ゆっくりと耳に当てる。
「はいはいすぐ行きますよ。......えー.......またあの客〜?......はぁ......倍額じゃないとヤダ......」