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    はるち

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    はるち

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    列車で旅をする二人の少し不思議な話

    #鯉博
    leiBo
    #リー博
    leeExpo

    銀河鉄道の夜と朝 たたたん、たたたん、たたん。
     狭い鉄の箱、その壁を超えて、規則的な音が響く。時折混ざる低く重い音は衝撃となって車両を揺らし、そのどれもが中で眠る私にとっては子守唄のようだった。カーテンを閉ざした後では星の光も月の輝きも、室内に満ちる闇を払うことは出来ない。ここにあるのは、一際濃度の高い夜だ。毛布のように暖かく、そして真綿のように首を絞め上げる安らぎに目を閉じて身を委ねようとした時に、先程までとは異なる振動が響いた。振動は次第に大きくなり、どうやらこちらへと近づいてくるようだった。うるさいな、と閉じかけていた目を開ける。こんなところまで、一体何だろうか。
     その疑問に答えるように、突然扉が開いた。
    「――ああ、こんなところにいたんですか」
     背の高い男だった。お世辞にも姿勢が良いとはいえないが、しかしこの狭い場所ではそうするしかないのだろう。現に背筋を丸めてもなお、被っている帽子はほとんど天井を擦っている。
    「ここ、空いてますか?」
     隣と言わずに、別の車両に行けばよいのに。その方が広々とコンパートメントを独占できるだろう。返答を躊躇っている間も、薄く黒に色づいた眼鏡越しでも鮮やかな金の瞳が私を見つめる。
    「……空いているよ」
     だからそう答えたのはただの社交辞令だった。でも他の車輌も空いているだろう、と言葉を続けるより先に、男は窮屈そうに身をかがめたまま私のいるコンパートメントへと滑り込んで来た。向いのソファに腰を降ろし、長旅でも終えたようにため息をつく。自分以外の他者がこの空間にいることに戸惑いながら、孤独と静寂を乱されてさざ波立つ内面を落ち着けるために私は目を閉じた。眠ってしまえばいい。夜の静かな眠りの中なら、私は一人きりだ。
     しかし。
    「……」
    「あれ、起こしちゃいましたか?」
     煙草を吹かしながら、男は愉快そうに笑う。ここは禁煙だと注意したところで、適当にはぐらかされるありありと想像できた。いつかどこかで経験したかのように。副流煙は有害なばかりで意識を賦活するような物質はそれほど含まれないことは当然理解しているが、しかし眠ってしまおうという気持ちにはもうなれなかった。半ば睨みつけるように見つめても、眼の前の男はどこ吹く風と言った様子で煙草をふかし続けている。目が合うと、男はにこりと人好きのする笑顔を浮かべた。
    「名前をお伺いしても?」
    「今更覚えていないよ。この列車に乗るために売り払ったからね」
     自分の過去、未来、理想、希望。そういったものを全て差し出して、私はこの列車に乗っている。
    「自分の名前もですか?」
     こりゃ驚いた、と言いたげに男は私を見つめる。別段珍しい話でもないだろうに、何がそんなに意外なのか。
    「君は違うのか?」
     この列車に乗っている者は、多かれ少なかれ何かを対価に支払っている。まさかとは思うが、無賃乗車の類ではないだろうか。だとすれば面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。
     それが顔に出ていたのだろう。男はゆるゆると苦笑した。
    「おれは終点まで行くつもりはないんですよ。ここにいるのはただの人探しです」
    「ああ、なんだ。そういう」
     人探し。だとすればここで呑気に油を売っている場合なのだろうか。確かに次の駅に着くまでの間、車内に人の出入りはないだろう。ならば今のうちに車内を一通り巡っておくべきではないのだろうか。それとも、途中停車する駅の方に彼の探し人はいるのかもしれない。
     いずれにせよ、私には関係のない話だ。
    「しかし、名前もないとなると、あなたを呼ぶ時に不便ですね」
     ふう、と男がため息のように紫煙を吐き出す。さざめくように中空に拡散し、闇の中へと溶けていく。どうやら男は私を道中の話し相手にするつもりのようだった。終点までただひたすらに眠っているつもりだったのに、とんだ誤算だ。
    「本当に何も思い出せないんですか?」
     太陽より優しく、月より鮮やかな瞳が私の顔を覗き込む。何も覚えていない――と言いかけたところで、喉に引っ掛かる言葉があった。すっかり空っぽになった自分のうちに、まだこんなものが残っていたのかと、我ながら呆れてしまうような。
    「……リー」
    「は?」
    「リー。この言葉だけは覚えているんだ。多分名前だろう」
     列車の切符を買うために、過去も未来も全て売り渡して、それでもまだ残っているのだから。それがきっと私の名前なのだろう。
     それを聞いて。
     男は、まるで真空の中に閉じ込められたようだった。身動きひとつせず、瞬きさえしない。ぽかんと私の顔を見つめ、――そして。
    「っ、は――ははははは!」
     腹を抱えて笑い出した。眼には涙さえ滲んでいる。
    「……何だよ、笑うところじゃないだろ」
     そんなに変な名前ではない、と思う。男は笑いの発作を押さえようと深呼吸を繰り返していた。いやいや、と目元に滲んだ涙を拭う。
    「いい名前じゃないですか」
    「そんなに笑っておいて何を言っているんだよ」
    「でもせっかくなので、他の呼び方でも構いませんか?」
     何がせっかくなのか全く持って意味不明だった。しかし男がこの車両に来てからずっとペースを乱されている。今更抵抗したところで無意味だろう。どうぞ、と私は投げやりに返事をする。
    「ドクター。あなたのことをそう呼んでも?」
    「……好きにすると良い」
     ドクター。その呼び方は名前ですらなかった。ただの役職名だ。その響きは、しかし水のようによく馴染んだ。もしかすると以前の私、この列車に乗り込む前の私、何もかもを捨てる前の私は、本当にそのように呼ばれていたのかもしれない。
     君のことはなんと呼べば良いのか――と。尋ねるより前に、コンパートメントの扉が開いた。私と彼は、揃って来客の方を見る。
    「……人を探している」
     そこに立っていたのは少年だった。夜明けを待つ河のような深緑の髪に、長く生きすぎた星に似た赤の虹彩。
     男との会話にすっかり気を取られていたからだろうか。彼が近づいていたことに、入ってくるまで全く気がつかなかった。男は外套の内ポケットから携帯灰皿を取り出し、煙草を放り込んだ。流石に子供の前では吸わないくらいの分別はあるらしい。
    「白い服を来た少年だ。年齢は、俺と同じくらい」
    「いや……、見ていない。ここに来たのは、君が来る前は彼だけだ」
    「そうか」
     その答えを予想していたのだろう。少年は一瞬目を伏せただけだった。
     少年は酷くくたびれているようだった。まるで何年も、何十年も終わらない旅をしているように。足を止めることも、眠ることすら許されずに。
    「少し、ここで休んでいかないか?」
     私のその申し出に、少年は驚いたようだった。無言で私を見つめる。そうすることで、言葉の裏に潜んでいるものを炙り出せるというように。その眼には覚えがあった。いつ、どこで見たのかは思い出せないけれど、私はこの眼を持った人に、何人も出会ってきた。何度も裏切られ、打ちのめされ、善意の裏には打算と悪意があると疑わずにはいられない人間の目だ。
    「休んでから、また探しに行けば良い。どうせこの列車からは降りられないんだ。探していけば、きっといつかは出会える」
    「……」
     少年は、なおも疑念の籠もった眼で私を見ている。隠すものなど何もない私は、ただ真っ直ぐにその視線に応えた。
    たたたん、たたたん、たたん。
     規則的な列車の走行音だけが響き、その後で、少年は肩の力を抜いた。
    「いや、俺は先に行く。……早く探さないといけないんだ」
     そう、と私は頷いた。私に、これ以上彼の歩みを止める理由はない。
    「早く出会えることを祈っているよ」
    「……ありがとう」
     少年がわずかに唇を歪めた。あるいはそれが、もう何年もろくに浮かべることのなかった、彼の微笑みだったのかもしれない。
     少年が扉に手をかけ、出ていこうとした時に、その背に男が声をかける。
    「あなたがその人を探しているのは、贖罪のためですか?それとも、彼に償わせるため?」
     一瞬、男が何を言っているのかわからず、私は彼の方を見た。男は先程までと変わらない飄々とした笑顔のままだ。なのにその瞳だけが、月がいつの間にかひっくり返って裏側を見せているように、あまりにも先程までと違っている。
     少年が息を詰めたのがわかった。――言いたくないなら答えなくていい、と。私が言う前に、少年は言った。
     血の塊を吐き出すような声だった。
    「俺は、……あいつに生きてほしかった。生きていて、ほしかったんだ。それが、あいつを苦しめたなら――やっぱり俺は、あいつに会わないと」
     ゆるゆると、少年は唇を笑みの形に釣り上げる。瞳に浮かんでいるのは諦念と、悔恨の色だった。夜の底を覗き込んでるかのように、あまりにも暗く、深い。
    「……そうですか。引き止めてすいませんね」
     それが、男の望んだ返答だったのだろうか。もう聞きたいことは済んだ、というように、背もたれへと体を預ける。もうこの場に留まる理由がなくなった少年は、今度こそここから出ていく。少年は去り際に、彼の方を一瞥し、クロスボウから放たれた矢のような言葉を残す。
    「――お前も、そうなんじゃないのか?」

     たたたん、たたたん、たたん。
     再び、断続的な振動だけが空気を揺らす。途切れてしまった会話の糸口は、最早完全に断線してしまったかのようで、繋ぎ直す術が見つからない。一人きりでは心地の良い静寂も、それを分かち合う相手がいるとなると途端に居心地の悪さを引き起こすのだから困ったものだ。
    「……さっきの少年は知り合いだったのか?」
     先程まではあれだけ気軽に話していた男がむすりと黙り込んでしまったものだから、私が代わりに話しかけた。こうすればカーテンの向こうを透視できるとでもいうように。
    「いえね、そういう訳じゃありませんが」
     ゆるりと首を動かし、男は私の方を見た。
    「じゃあどうしてあんなことを尋ねたんだ」
    「あんなこと?」
    「彼が人を探している理由だよ」
     ああ、とようやく思い出したような呑気な声を上げる。それにわずかな苛立ちを感じないわけではなかったが、しかしそれに流されていたのではいつまでも男のペースに乗せられたままだ。
    「本当はそんなことが聞きたい訳じゃないでしょう」
     男は、組んでいた足を解いて、私に向き直る。
     その通りだ。本当はそんなことを尋ねたい訳ではない。
     知りたいのは、少年が残した最後の言葉と――彼自身の探し人。
     けれど彼は、偶然出会っただけの他人にすぎない。踏み込んだことを聞けるような間柄ではない。私の意気地のなさを笑うように、彼は目を細めた。
    「聞いてみればいいじゃないですか」
    「君がさっき、そうしたように?」
    「ええ。人の出会いは一期一会ですよ。これを逃したら最後、あなたは答えを求めて彷徨い続けるかもしれない」
     それが冗談だということは勿論わかっていた。しかし、彼の瞳がどうにも切実な光を宿しているものだから、私は彼の冗談に笑い損ねる。
     代わりに、からかい半分で、この疑問をぶつけようとした時に――きっとそれなら、気軽に尋ねられるから――、列車が急停止した。
     慣性の法則に従い、私の体が彼の方へと吹っ飛ぶ。鉄の壁に叩きつけられるよりは遥かにましだった。
    「っとと……、大丈夫ですか」
     彼の胸に頭から突っ込むような姿勢になっていたが、想像していたような衝撃はなかった。なんとか顔を上げる。別の座席にかけていたときよりも遥かに近いところで瞬く金の瞳は、手を伸ばせば届く星のようだった。
    「おかげさまで」
    「ならいいんですけどね。まさかこの列車ではエアバッグの真似事までさせられるんですか?」
    「列車に何かあったんだろう」
     列車は完全に停止しているようだった。いつまでもこうしているわけにはいかないので、私はゆっくりと立ち上がる。
    「何があったか見てくるよ」
     ちょっと、と焦った声が私の背を追いかける。伸ばした手が届くより先に、私は扉を開けていた。
     一瞬で視界が白く凍りついた。

     寒い、という感覚を理解するのにしばらくかかった。分子の運動さえ停滞するような世界の中にあるせいか、頭の働きも呆れるほど鈍い。視界はすっかりホワイトアウトしていた。吹雪の中にいるからだろう。これのせいで、列車は道を失っているのだ。この吹き荒ぶ風と絶え間なく打ち付ける雪の嵐の中にいる私と同様に。寒いというよりは痛く、しかしその痛みごと全身が凍りついていく。何も見えず、どこに行くべきかもわからない。ただ身を切るような痛みだけが、この雪原の全てだった。
    「……久しぶりだな、ドクター。再会できるのは、もう少し先だと思っていたよ」
     耳を切り裂くような風に混じって、誰かの声が聞こえる。それは耳元で囁かれているようにも、遠くから響いてくるようにも聞こえた。
     そこに誰かいるのか、と私は呼びかける。声は風によってたちまち千々に引き裂かれていく。
    「お前が来るべき場所は、本当にここでいいのか?」
     私の問には答えずに、淡々と声は告げる。その出処を探そうと、私は闇雲に駆け出した。どのみちこのまま立ち止まっていたら私は凍りついていただろう。
    「君はどこにいるんだ」
    「それがお前の選んだ道なのか?」
     道、道、道。そんな上等なものがこの場所にあるのだろうか。私の前に道はなく、私の後にある道は、全て雪が白く飲み込んでいく。私にできることは、これが正しい方向であることを願って、ただ走り続けることだけだ。心臓がうるさく、しかしこの生物を拒む純白の世界の中ではそれだけが生きている証だった。
     風に、彼女以外の声が混じる。
     ドクター、と、私を呼ぶ声が。必死な声だった。普段の余裕が嘘のように。繰り返し繰り返し、何度も、喉が枯れるのではないかと不安になるほどに。
    彼が、私を、呼んでいた。
    「……もう、行くんだ」
     打ち付ける風が、少しだけ和らいだ。あるいはそれは、私の錯覚だったのかもしれない。
     声の聞こえる方へ、光の差す方へ。
    「君は――行かないのか」
    「私は、ここで待っているんだ」
     何を、と私は吹雪に問いかける。風にいたずらに吹き散らかされるばかりだった雪が、高く空へと舞い上がった。
    「春が訪れる日を」

     たたたん、たたたん、たたん。
    「……ようやく目が覚めましたか」
     うっすらと目を開けると、心配そうに私の顔を覗き込んでいた金の瞳とかち合った。どうやら私は今、二人がけの座席をベッド、彼の膝を枕代わりにして横になっているようだった。
    「……吹雪は?」
    「吹雪?」
    「列車が停まって……外に……」
    「外に出ようとして、ふらついて扉の角に頭をぶつけて気を失っていたんですよ。覚えていますか?」
     そうだっただろうか、と私は最後の記憶を呼び起こそうとする。しかし列車が停まった後のことは、まるで誰も足を踏み入れていない雪原のようにまっさらだった。
     何も思い出せない。思い出せないのならそれでいい、というように、彼は私の眼を手で覆った。
     ただ繰り返される振動が車両を揺らす。
    「……列車は、今どこを走っているんだ?」
    「さあ」
    「終点まで、後どれくらいだろうか」
    「わかりません」
    「もういい、自分で確かめる」
     上体を起こすと、しかし彼はそれを止めなかった。元気が戻ったように安心しました、と、もうすっかり見慣れた笑顔を口元に浮かべている。
     立ち上がり――今度は頭をぶつけないように十分気をつけた――彼の反対側、自分の元いた座席に座る。こうしてみると、初めからすっかり何も変わっていないようだった。
    「……この列車が終点に着いたら」
     ぽつりと彼が呟いた。
    「あなたはどうするんですか?」
    「私?私は――」
     そう問われてようやく、私はこの旅路の終点に思いを馳せた。高い対価を払って、過去も未来も、自分も他人も、何もかもを犠牲にして旅の果てを目指す理由。この列車に乗った理由。
     それを、何一つとして覚えていないことに、ようやく気がついた。
    「私は……」
     どうするんだろう。
     どうすべきなんだろう。
     私は、どうしたいんだろう。
     口ごもっている間、彼は何も言わなかった。煙草を吹かしさえしなかった。ただじっと、私の答えを待っている。沈黙の形をしたその誠実さが、酷く苦しかった。
     カーテンの向こうで、星が瞬いた。
     赤い光だった。一つの生命の終わりのように眩しい。分厚いカーテンを透過して、それでもこの車内を照らす。そういえば、と私は思う。このカーテンはいつから閉ざしていたのだろうか。私がこの列車に乗る前からだったような気もする。この列車は今どこを走っているのか、その答えがカーテンの向こうにあるのかもしれない。私はそれに手を伸ばし、
    「やめましょう」
     今度こそ、彼の手が私に届いた。手首を掴み、それ以上の動きが封じられる。
    「どうして」
    「まだ知らなくてもいいからですよ」
    「では、いつ」
    「あなたが答えを出したら」
    「その答えを出すために、窓の外を見なければならないとしたら?」
    「だったらこうしている方がましです」
     手首を掴む力は決して強くないが、しかし逃してくれる気はないようだった。私は無言のままに手を引いた。力比べで敵うはずもない。
     彼があれほどまでに阻む窓の外には、一体どんな景色が広がっているのだろうか。彼はそれを知っているのだろう。知っているから、私にそれを知らせまいとする。
     それは何故なのかと尋ねようとした時だった。
     ぴんぽんぱんぽん、と間の抜けたチャイムの音が響く。車内放送のようだった。もう駅が近いのだろうか。しかし、スピーカーから流れた声は、そんな牧歌的なものではなく、
    「――さて、ドクター」
     ――私に、過去を喪失した私に、耐え難い痛みを引き起こす。
     耳には瞼がない。だから、彼も私も、流れ込む過去を止められない。
    「お前さんは、きっと俺のことを覚えちゃいないんだろうが……。俺のほうは、お前のことを覚えてる。昔どんな奴だったのかってこともな」
     この声を、私は知っている。征け、と私を叱咤した声を。幸運を祈る、と最後に告げた人のことを。
     扉が音もなく、滑らかに開き、私は、自分がどこにいるのかを思い出した。
     熱風が吹き込む。
     蛋白質の焼ける匂いと硝煙の香り。
     嗚呼。
    「思い出した」
     一体どうして、これが列車だと思っていたのだろう。
     これは鉄の檻だった。私を閉じ込めておくための。断続的に聞こえていたのは列車の駆動音ではない。銃声、砲撃、斬撃、爆発、それに類する何かだ。
    「思い出したよ」
     懐かしくもおぞましい、チェルノボーグよ。
     私の記憶の始まりの地よ。
    「ドクター」
     彼が乱雑に肩を掴み、私のことを揺さぶった。
    「過去に呑まれないでください、あなたは――」
    「私はここで死ぬべきだった」
     譫言のように言葉が溢れ出す。それを止めることは、私にも、彼にもできない。
    「そうすれば――そうすれば、彼らは死ななかったかもしれない。死ぬ必要はなかったんだ」
     一体何人が、私のせいで死んでいったのだろうか。私を生かすために。私の立てた作戦のために。十人?百人?払った犠牲も奪った犠牲も多すぎて、天秤はとっくの昔に壊れている。けれども背中に張り付いた命が、足を止めることを許さない。
     私の前に道はなく、私の後には血の河と死体の山がある。
    「答えてくれ。私はあとどれくらい生きれば良い?これだけの犠牲を出す価値が、本当に私にあるのか?」
     答えろ、と私は言う。だってきっと私こそが、彼の探していた人なのだから。
     この地が私の終着駅ならば、私が彼の終着点だ。
    「――それでも」
     それでも、と彼は言う。泣き笑いのような表情で、彼がそんな顔をしているところを初めて見た。
    「生きることが、あなたに苦しみをもたらすのだとしても――」
     彼は、触れることを恐れるように、私に手を伸ばした。
     その指先が、私に届く。
    「おれは、あなたに、生きていてほしいんですよ」

    ***

     全治三ヶ月、とケルシーは宣告した。
    「体の具合はどうだ」
    「痛みのある場所は二十三箇所ほどあるが、詳しく説明した方がいいか?」
    「それだけ口が回るなら問題ないだろう。鎮痛剤の使用は六時間おきだ」
     ケルシーが手元のカルテにさらさらと何かを書き付ける。隣では私に繋がれた計器類が規則正しく、私の生命活動を伝えていた。
     敵の襲撃を受けたのは列車で移動している時だった。私とロドスのオペレーターが乗っていた車両は横転し、その後に繰り広げられた戦闘のせいで、私は骨の何本かを差し出す羽目になった。とはいえ私が眠っていたのはそれが原因ではなく、戦闘中に他のオペレーターを庇ったからだ。
     かなりの混戦だった。横転した列車の周囲には投げ出された一般客もいて、私達は彼らを庇いながら戦うことになった。その中で、遠方から前衛オペレーターを狙っていたクロスボウに、幸運にも私だけは気づいた。そのオペレーターを突き飛ばしたのは、つまるところただの反射だったのだろう。いつかの日に、アーミヤを庇ったように。目の前にいるのがアーミヤでなくても、私は同じことをする。それだけのことだ。
     指揮官として、きっと私はどうしようもなく愚かだ。
     幸いなことに戦闘は勝利できたが、医療オペレーターの治療があっても、ロドスに帰艦した時に私はかなり危ない状態だったらしい。それこそ、一時は生命の存続も危ぶまれる程に。
     けれど、私は今もここにいる。
    「……ドクター。人工呼吸器から離脱した時に、自分が何を言ったか覚えているか?」
    「え?いや……覚えていないよ」
     本当に覚醒していたのかも怪しい状態だろう。果たして自分は何を口走ったのだろうか。けれどケルシーはため息をついて首を振るだけだった。答えを教えてくれる気はないらしい。
    「ああ、ところで」
    「長時間の活動は許可できない。勿論仕事もだ」
    「……」
     先手を打って釘を刺され、私は沈黙する。
     けれど、そう。沈黙というものは、時として何よりも雄弁だ。
     ケルシーは、私の診察を始めてから一番長く嘆息した。
    「……短時間であれば、病室から離れることを許可しよう」

    ***

     ロドスで喫煙が許可されている場所はそれほど多くなく、であれば彼のいるところは一意に定まる。
    「ここにいたんだね」
     まだ日が昇る前だというのに、彼はずっと前からここにいたようだった。電動の車椅子に乗って現れた私に、彼は左手を軽く上げて答える。まるで道端で偶然再会したかのように。私の方はといえば、点滴や各種計器類に繋がれたままで、それら全てを引きずっていると、まるで一つの要塞が移動しているように見える。
    「おはようございます、ドクター。調子はどうです?」
    「全身あちこち痛いよ」
    「それはそれは。病室で大人しくしてなくて良いんですか」
    「主治医が許可してくれたからね。短時間なら」
    「なるほど、その貴重な時間を俺のために使ってくれている、と」
    「そう。会いには来てくれないようだから」
     勘弁してくれ、というように彼は星の影も遠ざかった天を仰いだ。がしがしと頭を掻きむしる。
    「ドクター、手術が終わった後になんて言ったか覚えてますか?」
     またその話か、と私は先程のケルシーを思い出し、そして全てを理解する。目を覚ました時に、私は、誰の名前を呼んだのかを。
     何故か病室に寄り付かないリー、生暖かく、それでいて湿度のこもった目で私を見る医療オペレーター達。
    「……もしかして、私は、君のことを」
    「その続きはなし、なしですよ」
     煙を追い払うように、リーはぱたぱたと手を振った。私が目を覚ました時、傍にいたのは目を真っ赤に泣き腫らしたアーミヤだけだったのは、つまりそういうことらしい。こっそり医療オペレーターが耳打ちしてくれた話によると、覚醒の兆候が見られるまでは彼も傍にいたらしいのだが。
    「そろそろ戻った方がいいんじゃないですか?ドクターに巻き込まれて俺まで怒られるのはごめんですよ」
     それもそうだ、と私は頷く。戻ろうと、車椅子に手をかけたその時に。
     地平線の向こうで、日が昇る。
     赤い光だった。いつか、どこかで見た戦場の炎とは違う。温かな、生命を祝福する光。
     私と彼は、言葉もなく、並んでそれを見つめていた。
    「……ドクター」
     彼は、触れることを恐れるように、私に手を伸ばした。触れることで、夢から覚めてしまうとでもいうかのように。
     かすかに震えるその指先が、私に届き――彼は、私を抱きしめた。
    「あなたが生きていて、本当に――よかった」
    「……うん」
     私は、彼に手を伸ばし、彼のことを抱きしめる。喪失の痛みを恐れる生命を。
     この人生が苦しみに満ちたものだとしても。痛みに溢れていたとしても、絶望と災禍を振り撒いて、自分にも他者にも、代償を強制するものなのだとしても。
     私は、まだ生きている。
    「私も、――生きていて、良かった」
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    はるち

    DOODLEロドスでダンスパーティーが開かれるのは公式というのが良いですね
    shall we dance「あなたには、ダンスはどのような行為に見えるかしら?手を相手の首元に添えて、視線を交わせば、無意識下の反応で、人の本心が現れるわ」

    踊ろうか、と差し出された手と、差し出した当人の顔を、リーは交互に見た。
    「ダンスパーティーの練習ですか?」
    「そんなところだよ」
    ロドスでは時折ダンスパーティーが開催されている。リーも参加したことがあり、あのアビサルハンター達も参加していることに少なからず驚かされた。聞けば彼女たちの隊長、グレイディーアは必ずあの催しに参加するのだという。ダンスが好きなんだよ、と耳打ちしてくれたのは通りがかりのオペレーターだ。ダンスパーティーでなくとも、例えばバーで独り、グラスを傾けているときであっても、彼女はダンスの誘いであれば断らずに受けるのだという。あれだけの高嶺の花、孤高の人を誘うのは、さぞかし勇気のいることだろう――と思っていたリーは、けれどもホールの中央で、緊張した様子のオペレーターの手を取ってリードするグレイディーアを見て考えを改めた。もし落花の情を解する流水があるのならば、奔流と潮汐に漂う花弁はあのように舞い踊るのだろう。グレイディーアからすれば、大抵の人間のダンスは彼女に及ばないはずだ。しかしそれを全く感じさせることのない、正しく完璧なエスコートだった。成程、そうであれば、高嶺の花を掴もうと断崖に身を乗り出す人間がいてもおかしくない。
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