花の中で私を殺して 嘔吐中枢花被性疾患、通称花吐き病という疾患がある。
口から花弁を吐き出すというのが唯一の症状だ。初めて聞いたときは何を馬鹿な、とドクターも思ったのだが、人間が石になる疾患もあるテラの大地だ。それくらいの奇病はあって然るべきなのかもしれない。感染経路は感染者の吐いた花。これに触れることにより感染する。
そして、一番の問題は。
「……ええと。ケルシー。悪いんだけどもう一度言ってくれないか」
ドクターの言葉に、ケルシーは首を振った。聞こえていなかったのか、というように、先程の言葉を復唱する。
「この疾患の治療法はただ一つ。意中の相手と両思いになることだ」
「……」
ドクターは俯いて唇を噛んだ。ケルシーの口から出る「意中の相手」「両思い」という言葉の重みたるや、推して知るべしだろう。
「ドクター。私と君は今、現在君が罹患している疾患について真剣に話しているのだと思っていたが」
「いや、わかっている。わかっているよ。つまりこの病気は薬でどうこうできる代物ではないんだね」
「感染者が少ないこともあって疾患の研究が進んでいない。君はどこで感染したんだ?」
「……この前アカフラへ行ったときかな。珍しい花をいくつか見せてもらったから」
切り花も花弁だけのものもあった。あの中に混ざっていたのかもしれない。確かに、彼らの民族性であれば、この疾患の特徴はそれほど問題にならないのかもしれない。
それにしても、疾患を治すための条件がそれとは。少女趣味が許されるのは御伽噺の中だけだ。真実の愛の口付けで呪いが解けるのと同程度の非現実さに眩暈がする。
「君の病の対象が誰であるかについては詮索しない」
「……感謝するよ」
「しかし協力は惜しまないつもりだ」
「やめてくれ、ケルシーが言うと冗談に聞こえないんだ」
「君は病気が治らなくてもいいのか?」
診察用の椅子に座ったドクターを、ケルシーは冷ややかに見下ろす。その言葉に先程吐き出した花弁が脳裏を舞う。黒い花びらだった。
ドクターが体調に違和感を覚えたのは数日前から、アカフラから帰還した後からだった。何をしていても吐き気が消えず、ついに執務室で限界を迎えた。なんとかゴミ箱まで辿り着き、部屋を汚す心配はないと安心したのも束の間。喉から溢れ出す黒い花は、ドクターに今までで一番死を覚悟させた。
内線でケルシーを呼び、医務室へと搬送され、診察を終えればこれだ。不治の病は恐ろしいが、しかし治療法が実行不可能な病というものはそれと変わらないのではないか?
「治らないのは困るけど治らないんだから仕方ないだろう。もっと他にないのか? 失恋とかじゃだめなのか?」
「相手は余程の高嶺の花なのか?」
「いやそういうことじゃなくてさ……。単純にそういう事にかまけている余裕はないだろう」
色恋に。
うつつを抜かしている場合ではない。
だからこの花は、咲く前に枯らしてしまうべきなのだ。
「協力してくれるって言うなら。恋心を捨てる薬を作ってくれよ」
「……では、一つ尋ねるが」
燐光めいた輝きを放つケルシーの瞳に、戦場にいるかのごとく、背筋がにわかに泡立った。
「君は例えばアーミヤが誰かに恋をした時に、同じことを彼女に言うのか?」
――ドクター、と。春の日差しに似た、柔らかな声を思い出す。
彼女のことを何も覚えていなくても、自分のことを親のように慕ってくれている彼女を。戦場で多くの傷と重圧に押し潰されそうになりながら、自分以外の人間の感情に塗り潰されそうになりながら、それでも賢明に生きている彼女のことを。
例えば彼女が、ごくありふれた幸せを、彼女と同い年の少女が、当たり前に享受しているような幸せを、得たいと願ったのならば。
自分は、何というのだろう。
お前にはやるべきことがあるのだから諦めろと。そう言うのだろうか。
「…………私とアーミヤは違うだろう」
努めて普段通りの温度で答えた声は、けれどもその翡翠色の視線の前では無意味だった。何の迷彩にもなりやしない虚飾がぼろぼろと崩れていく。
「他人に要求できないことを自分にすることは不実だ。自分に要求できないことを他人にすることが不実であることと同様に」
「御高説ありがとう。診察はもういいかな? 仕事があるからそろそろ戻らせてもらうよ」
ドクターは乱暴に会話を打ち切り、診察用の椅子から立ち上がった。待て、と追いかける声に足を止めてしまうのは、実力行使で彼女に敵わないと理解しているからだ。
「これを携帯するように。君が吐く花には感染性がある。くれぐれも感染者を増やさないでくれ」
「…………、どうも」
差し出された紙袋を受け取る。吐きたくなった時はこれを使え、ということのようだ。
ケルシーからそれ以上の言葉はなく、ドクターは今度こそ診察室を後にした。
喉に張り付いた花びらが不快で仕方なかった。
***
人を嫌いにならないようにすることよりも、人を好きにならないようにすることの方が難しい。
「花占いですか?」
背後からかけられた声に、ドクターの肩が大仰に跳ねる。内心の動揺を沈めながら、ドクターは努めて冷静に振り返った。声の主、ドクターの片思いの相手であるリーは、ドクターの驚きを必要以上に不自然には捉えなかったようだった。
「すみません、驚かせちまいましたね」
「いや、大丈夫だよ。……それより」
花占いとは、と言いかけたドクターは、そこでようやく自分が手にしていた花が、今はすっかり花殻に成り果てている事に気がついた。可愛らしいピンク色のスイートピーだった。咲いているものを眺め、風でなびいた拍子に指先へと触れたそれを、弄んでいたはずだった、のに。手の中には、無惨に解体された花弁があるばかりだ。
ドクターくん? と言葉の裏に熾烈な棘を隠した、庭園の主からの囁きが聞こえたようだった。
ど
「パ……パフューマーに怒られる……!」
どうしよう、と本気で頭を抱えだすドクターに、リーは笑いながらポケットから煙草の箱を取り出した。その中から一本を抜き出し、口に咥える。
「ここは禁煙だよ」
「一つ貸し、ということで。パフューマーさんには黙ってますから、ドクターも内緒にしておいてくれませんか?」
リーは片目をすがめて笑ってみせた。庭園の花を勝手にばらばらにした罪と、ここで煙草を吸った罪を互いに胸に秘める。それはつまり、怒られる時は一緒に怒られてくれる、ということだろう。ある種の共犯めいた取引に、あるオペレーターの言葉を思い出す。
――一つの秘密を共有し合うするより、お互いの秘密を交換したほうが良い。それでようやく平等で強固な関係と言えるんだ。
自分と、彼の間に。
「……っ」
喉をせり上がる嘔吐感に、思わずドクターは口を抑えた。手のひらからばらばらと花弁がこぼれる。その様子に、リーの表情が変わった。
「ドクター? どこか具合が悪いんですか」
「ち……ちょっと外の空気が障ったみたいだ。最近喉の調子が悪くて」
失礼するよとドクターはリーを押しのけるようにして出口の方へと向かう。ふらふらとよろめくその足取りに、リーはドクターの腕を掴んだ。
「顔色が悪いですよ。パフューマーさんを呼んだ方が――」
「そんなことをしたら怒られるだろ。何のために秘密を作ったんだ」
私なら大丈夫だから、とドクターは言う。しかし大丈夫というのはそうでない人間が往々にして使う言い訳の一つだ。無理矢理腕を振り払うようにしてドクターは歩き出す。
追いかけてくる声はなかった。
それを、確かに自分は望んでいたはずなのに。
咳き込む。喉から溢れた黒い花弁を、ドクターは捨てることも出来ず、ただ自らの手の中で握り潰した。
***
彼と初めて出会ったときのことを覚えている。
「どうも初めまして、あなたがドクターですね?」
のらりくらりと掴みどころがなく、まるっきり昼行燈に見える中年。いつ見ても真面目さからは程遠く、提出された履歴書も嘘ばかり。何が戦闘経験はありません、だ。秘書を任せればサボろうとし、隊長を任せれば迂闊な冗談で隊が解散しそうになる。
それが、いつから、こんなに。
「……好きになっちゃったんだろうな」
夜遅く一人で働いている時に、夜食だと言って彼が持ってきた魚団子を二人で食べたときか。夜更かしで身体をやっちまわないように気をつけろと労られたときか? 秘書でいるときに茶を淹れてくれたときか、戦線の予期せぬ崩壊で動揺している私の頭を撫でて安心してちょーだい、と戯けてみせたときか。失敗して敗走を余儀無くされた時に、なんてことはない、と。私を安心させるように微笑みかけたときか。
わからない。わからないけれど、これだけは言える。きっと決定的な瞬間はなかったのだ。彼との時間は澱のように私の中に降り積もり、それを土壌に育った感情は身体の隅々まで根を張って、胸の奥で花を咲かせる。廃棄が決まったはずのそれは、けれどもはらはらと口から溢れだすのだ。いとしいこいしいという、言葉の代わりに。
私は彼と過ごすひとときの穏やかさを慈しみ、その静けさに焦がれていた。
つまり、どうしようもなく、私は彼に恋をしていた。
ごめんね、と私は手の中に降り積もる花弁に語りかける。咲かせることが出来なくてごめんなさい。枯らせてしまうばかりでごめんなさい。
天鵞絨に似た手触りの黒い花弁は、薊よりも鮮烈に、私を苛んだ。
***
その人が自分に特別な感情を向けてくれていることには気がついていた。
そしてそれを、なかったことにしようとしていることも。
ドクターが置かれている立場を考えれば、別段不思議なことではなかった。あの人が個人として在る時間と余裕は、ここロドスではほとんどない。周りにいる人間が邪悪なのだと言いたいわけではない。ただあの人に課された責務と責任が、全てを押し潰してしまうだけで。他のオペレーター達だって、きっと多かれ少なかれ同じ気持ちだろう。ただあの人に、少しでも幸せていてほしいと。
だから自分もロドスにいる時は、可能な限りそうしていた。あの人の肩に乗った責任が、背負った生命の重圧が、少しでも軽くなるようにと。少しでも美味いもので腹を満たして、温かい感情が胸を満たしますようにと。
胡乱げだったその視線は、いつからか親愛へと変わり。別の熱が滲んでいることに気がついたのは、一体いつのことだっただろうか。そしてそれが、その人を焦がすようになったことにも。自分を見つめる瞳には熱と苦しみが同じだけ宿っており、次第に比重が後者へと傾いていくことは明白だった。だから努めて距離を置こう、と。それをあの人が望むのならば、それを受け入れようと。
そう思っていたのだが。
「……はあ」
リーの手の中にあるのは一枚の紙だった。いつになく深刻な表情をした、末の子どもから手渡されたもの。ドクターのここ最近の体調不良は医療部の中でも喫緊の課題となっているらしい。もちろんドクターの主治医はケルシーであり、彼女に一任されているのだが、しかしロドスの最高責任者の一人が身体を壊しているとあれば、同じ組織に所属する医療従事者も手をこまねいて見ているわけにはいかないのだろう。
アが手渡した紙には、ドクターの病状についてが記載してあった。ドクターのカルテは最高機密の一つで、アも閲覧する権利は与えられていないのだという。しかし同じ空間にいるだけでもわかることはある。可能な限りの情報からアが導き出した仮説。ドクターを苛むものの正体。
これが単なる恋煩いであれば、どれほど良かったことだろう。
龍門を離れてからの一ヶ月でドクターの病状は坂を転がり落ちるように悪化したらしい。今は医療部の一画に専用の病室がある。そこに繋がる廊下を歩いていると、見覚えのありすぎる人影が門番のように立っていた。
「どうも、ケルシーさん」
ケルシーはリーの姿を認めると、片眉がわずかに跳ねた。
「……てっきり、あなたには止められるかと思ってましたよ」
「私はドクターの主治医だ。治療に必要なことを制限する理由はない」
美しい翡翠にひびが入るように、眉間にシワが寄せられる。通行の許可は出ているようだ。
ノックは三回。どうぞ、とやけに掠れた声が中から答える。扉をくぐると、微かに花の香がした。
「ケルシー? すまないけど今どれくらいの仕事が滞って――」
「こんばんは、ドクター」
ベッドで上体を起こしてこちらを見ているドクターは、入ってきた人物が想像と異なることに衝撃を受けているようだった。凍りついている理由は、それだけではないのだろうが。
「だから言ったでしょう。体を壊しちゃもったいないって」
どうして、という悲鳴じみた声は、喉からせり上がってきた何かに飲まれて消えた。代わりに口から溢れだすのは黒い花弁だ。部屋に霞のように立ち込めている香りの正体を理解する。やっぱりアの診断に間違いはなかった、とリーは心の中だけで嘆息する。
ドクターの手のひらに収まり切らなくなった花弁がぼろぼろとシーツに溢れる。それは黒く固まった血痕のようだった。
「さわらないで」
ベッドの横に立つリーに向かって、ドクターはそれだけを口にする。げほげほと咳き込みながら。
「花には……感染性、が、あるから」
「ええ、知ってますよ」
ドクターの顔を過ったのは雷光のような動揺だった。
知っていた、本当はずっと知っていた。この人が自分に恋をしていることも。それを捨てようとしていたことも。捨てきれずに、ずっと苦しんでいたことも。
けれどもそれは時間が解決してくれると。そう思っていたのだ。
情はいつかは尽き、縁もいつかは途切れる。だからそれを待てばいいと。そうすれば、いつかはその痛みを、笑って飲み下せるようになるから。
そう思っていたのだけれど。
あなたの体と心を苗床とする花が、咲く場所を求めるのなら。
ドクターの両肩を掴む。その人は身体をびくりと震わせて、リーを見上げた。距離が近づく。ドクターがリーの意図を理解した時には、抵抗はもう無意味な距離になっていた。
二人の唇が重なる。
食事もまともに取れていないのだろうか。ほろほろと花を零す唇はかさついてひび割れていたが、それでも重なると花弁よりも瑞々しい。張り付いた一枚を舐め取り、咀嚼する。食用ではないそれは青臭く、けれども悪くはなかった。
リーは目を閉じず、ドクターも同じだった。夢でも見ているように、唇が離れた後も、ドクターが呆けたような顔をしていた。瞬き五つほどの空白の後で、その人はようやく自己を取り戻した。
「じ……自分が何をしているのかわかっているのか!」
「初めてでしたか?」
「そういうことじゃない! 君にも感染って……!」
「構いませんよ。だって治りますからね」
頬に触れる指先を、その人は拒まなかった。抱きしめる両腕も。その人の体は冬の寒さに凍える薔薇のように華奢で、ともすれば潰してしまいそうだった。
ドクター、と。リーがその人を呼ぶ。
「本当はどうしたいのか、教えてくださいよ」
「……私は、ロドスの指揮官で」
「はい」
「君だけじゃない、君の子どもたちも危険に晒している」
「ええ」
「いつか、……君たちを、君を、死なせてしまうかもしれない」
それでも、と。震える唇が、必死に言葉を紡ぐ。それは、生きることに懸命で、太陽を求めて枝葉を伸ばす花のようだった。
「私は、君に恋をしていても、許されるのか?」
リーは、春風のような笑い声をあげて。
「それが、どうしてあなたが恋をしてはいけない理由になるんですか?」
黒い花びらが舞い散るシーツの上に、白銀の百合が落ちる。それは病の完治を意味する花で、ドクターが吐き出した最後の花だった。
笑いながら、泣きながら、ドクターはリーを抱きしめる。朝露に似た雫が、頬を滑り落ちる。
「私は――君が好きだよ、リー」
ええ、と答えたリーの唇が、ドクターのそれと重なる。仄かに花の香がした。これはどちらのものなのだろう。自分と、そしてドクターの。胸の内で枯れるはずだったそれらは、今ようやく、咲き誇ることを許されたのだ。
「おれも、あなたが好きですよ」