たったひとつの冴えない願い「リーに聞いてくれないかしら? 次はいつ来てくれるの、って」
美しい人だった。雑然とした居酒屋の中でも燦然として存在感を放っている。この距離でも、鼻先まで纏う香水の甘い匂いがした。これは百合であろう。清純の象徴でありながら、橙の雄しべと芳香が時として淫靡だと忌避される、毀誉褒貶定まらない花。あの香りも美しさも、蝶を誘うためにあるのだから、それは当然であろうに。そして目の前にいる女性もまた、彼の花と同じ美しさを纏っている。輝くプラチナブロンドはゆるやかに巻かれ、首元と耳には真珠のアクセサリー。艶を消した黒のドレスこそ大人しいが、それは彼女自身が宝石だということの証左であり、身に纏う全てはそれを引き立てるために存在していた。
この日、ドクターは龍門に置かれたロドス支部に常駐しているオペレーターたちと飲みに出ていた。ひと仕事を終えた後の打ち上げだ。こうして共に酒の席に着くことが、チームとしての連帯感を高めることは理解している。それに、とドクターは思う。飲み会の後でロドスに戻ることが出来なくても、龍門であれば行く宛があった。
そして眼の前にいる女性は、その家主への伝言を自分に頼んでいた。
確かに、とだけドクターは答え、差し出された名刺を受け取る。表面にはビジネス用の肩書きと名前が記されていたが、裏面には手書きで電話番号が書かれている。走り書きと呼ぶにはあまりに美しい筆致だ。
ドクター、と背後で自分を呼ぶ声がする。席を離れた時間が長すぎたのだろう。女性は薄く微笑むと、それじゃあねと身を翻して去っていく。
「ドクター、どうかしましたか? 飲みすぎました?」
ぱたぱたと駆け寄ってきたオペレーターが声をかける。なんでもないよ、と答えた自分の声は誰が聞いても上の空で、そのまま飛んでいきそうなほど現実感がない。
宴の輪の中に戻るまでの間で、ドクターは渡された名刺を丁寧に丁寧に千切る。ポケットに流し込まれたその紙片は花弁のようで、指先にはただ彼女が纏っていた香水だけが残った。
***
「飲み会は楽しかったですか?」
もう日付も変わる頃だと言うのに、家主はまだ起きていた。ちくちくとする言葉には気づかない振りをして、羽織っていた外套をコート掛けに押し付ける。
「まあまあ。でもちょっと疲れたな、シャワーを浴びて――」
今日はもう寝る、というより先に冷えた手が頬を捉える。顔を固定され、鬱金色の瞳が、じいと自分を見据える。
「……何かありましたか?」
このときばかりは彼の勘の良さが憎かった。舌打ちは堪えたが、顔が歪むことは抑えられない。目の端で揺れるのは、あの女性の影だ。
「居酒屋の匂いが身体に染み付いて気持ち悪いんだ、先にシャワーを浴びても?」
あの百合の香りが染み付いた指先で、彼に触れたくなかった。二人共が口をつむぐと、夜は途端にその密度を増して迫るものだから、うっかり言葉が零れそうになる。
――あの女性とはどういう関係だったのか、と。
わかっている、つもりだった。情に厚い彼が、これまで誰とも情を交わしたことがないはずがない、と。それが一時のものであれ、もっと長いものであれ。石棺から目覚めて数年しか経っていないような自分とは違うのだ。
けれど。知識として理解していることと、それを実感することには、炭とダイヤモンドほどの違いがある。
嗚呼、彼はどんな風に彼女に触れたのだろう? どんな風に愛を囁いたのか?
「……そうですか」
するりと手が引かれる。それを望んだのは自分であるはずなのに、彼の手の代わりに頬をなぞる夜の空気が恐ろしかった。
「――あのさ、リー」
その未来は、いつでも頭の片隅にある。
種族的な問題を考えても、立場上の問題を考えても、自分と彼ではまず間違いなく自分の方が先に死ぬだろう。相手は殺しても死ななさそうな昼行灯だ。
だから。
もし、自分がいなくなったら。彼は今、自分に向けている愛情を、別の誰かに向けるのだろうか?
「どうかしましたか」
その言葉は、いつでも心の奥底にある。
私で最後にしてくれ、と。
私がいなくなったら、もう誰も愛さないでくれ。私の墓に、君の心も葬ってくれ。
一度そう言葉にしてしまえば、彼はきっとそれを叶えるだろう。叶えて、しまうだろう。彼は義理堅く、情に厚い人だから。
「何か頼み事でも?」
だから。
「……君がいてくれてよかったよ」
今、君の愛する人間でいられて。
それだけを口にして、今度こそドクターは浴室へと去ろうとする。
しかし。
「……手を離してくれないと、行けないんだけど」
ドクターの手首を掴んだ張本人は、けれどもドクターの困り顔には気づかない振りをしていた。
「猿の手、というものをご存知ですか?」
「うん?」
「呪具の一つですよ、所有者の願いを何でも叶えてくれるという、ね。こんな逸話があります」
曰く、とリーは語りだす。昔々あるところに、一人のいじめられっ子がいた。ある日、少女は猿の手を貰い受ける。まだ幼かった彼女は、運動会の徒競走で一番になれますようにと願った。いじめっ子たちを見返せるように。
「それで、どうなったと思います?」
「……一番になったんじゃないのか?」
「ええ。クラスメイトが全員怪我で走れなくなったので、その子は不戦勝で一番になったんですよ」
人間には本音と建前があるというお話です、と彼は締めくくった。
一番になりたいという願いと。
いじめっ子たちがいなくなってしまえばいいという願いは。
同じ願いの両面でしかないのだと、彼は語る。
「……この話の教訓は、神頼みをするときは願い方を考えなきゃいけないってことかな」
「何事にも裏表があるってことですよ」
「君がくれた玉佩みたいに?」
「おれが渡した玉佩のように。……それで、ドクター。もう一度聞かせてください」
彼が纏う香りが、こんなにも近くから漂っていることに、少しずつ慣された鼻は気づかなかった。腰に腕が回され、身動きが封じられる。芳香はそれに誘われるものを捉えるためにあり、それは花も紫煙も変わらない。
「何か、おれに、言いたいことがあるんじゃないですか?」
お上品で良い子なだけの言葉は聞きたくない、と言外に彼は囁く。
「……嫌だよ」
「どうして」
「君に嫌われたくない」
一体何が悲しくて、醜い胸の内を晒さなければならないのか? 限りなく零に近い距離を開けるべく、ドクターはリーの胸を押した。おやおや、と嘆かわしそうにリーは首を横に振る。
「ドクターはまだ、おれのことを信じてくれないんですか」
信じてくださいよ、とリーは囁く。どんなあなただって愛していると。
叶えさせてくださいよ、とリーは笑う。
「あなたの綺麗な願いも、醜い祈りも、全部、おれだけに」
唇が触れる。身体の中へと直接紫煙が流し込まれるように目眩がした。彼がこんなふうに愛するのは、過去でも未来でも自分だけだという思いがした。例え錯覚だとしても、今はそれに酔っていたかった。祈り続けるには夜はあまりに短く、人生はあまりに長い。唇が離れたその距離を埋めるために吐かれた言葉は、果たして裏と表のどちらなのか。夜に溺れつつある自分には、もうわからなかった。
「私を離さないでいて、ね?」