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    はるち

    好きなものを好きなように

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    はるち

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    観用少女と新上海エピキュリアンのパロです

    #鯉博
    leiBo

    ピグマリオンの末裔達一目惚れだった。
    椅子に腰掛けているそれを見た時に、世界が静止するのを感じた。止まっているのは時間でも世界でもなく、自分の呼吸であると気づくまでに一体どれくらいかかったのだろうか。一分一秒を争うというのに、それと出会ったときは完全に、自分がこの場所を訪れた目的も意図も、もしかすると時間という概念すら頭から抜け落ちていた。
    だってそうだろう。
    人形というものは、最も美しい時間を切り取って形を与えた存在だ。
    その人形は、重厚感のある煉瓦色の椅子に座っていた。座面には臙脂色の天鵞絨が張られ、重く沈んだような色合いが、人形の来ているドレスの白さを一層鮮やかにする。薔薇の花弁のように幾重にもレースが使われ、首元や袖口には繊細な刺繍が施されていた。糸も布地も、白一色で統一されているそれは、光の下でだけ悪戯に表情を変え、微妙な陰影を見せている。けれどもそれでさえ、この人形を際立たせるための舞台装置に過ぎなかった。穢れを知らない白磁の肌、頬には微かな赤みが差し、まるで生きているようだった。
    実際、これは生き人形だ。
    観用少女という、古くから龍門の貴族たちの間で愛されてきた人形だ。主人と定めたたった一人のために咲き、動き、微笑み、愛されるために存在している人形。
    人形の白金の髪はゆるやかに波打って腰まで伸びている。空から降り注ぐ月の光が、手で触れられる形を持ったようだった。しかし、その人形を最も美しく見せているのは、豪奢なドレスでも髪でもなく――身体を這う薔薇の蔓と、右の眼窩に咲いた白薔薇だった。それは人形を苗床にして咲いているのだろうか。それともその薔薇こそが人形の養分なのだろうか。
    さながらスポットライトのように、カーテンの隙間から差し込む月光が人形の横顔を照らしていた。光にきらめいて見えるものは埃だ。それはわかっている。けれどもそれすらもダイヤモンドの欠片のように、その人形の美しさを際立たせる物に見え、つまるところひと目見たときからもう、自分はその人形の虜だった。
    首筋と、ドレスの袖口から覗く人形の肌の上には蔓が巻き、鋭い棘も生えていた。触れようと手を伸ばせば、それは自分を傷つけるだろう。しかしそれが、躊躇う理由にどうしてなろうか?
    手を伸ばす。――それが観用人形であることはわかっていた。人形の右手首には、無骨な黒と青のベルト――職人の手によって作られた正規の観用少女であることを示す証だ――が巻かれていたから。この美しいものは、こんな埃っぽい資料室の中に閉じ込めておくべきではない。昔の仕事はとうの昔に捨てたはずだが、けれどもこれは世界の損失だ。あるいは、もっと単純に。――自分が、この美しいものをこの場所から連れ出して、専有したかったのかもしれない。
    人形の前に跪き、許しを請うように、膝の上で組まれた手に触れる。――奇跡が起こったのは、その瞬間だった。はじめは目の錯覚だと思った。あるいは、都合の良い幻覚だと。人形の睫毛が震え、ゆっくりと、蕾が花開くように、百年の眠りから覚めるように、その目蓋が開かれた。――嗚呼、その瞳より美しい宝石など、果たしてこの世に存在しようか。
    「――、誰?」
    人形が語りかける。他でもない自分に向けて。
    あのときに、自分は心に決めたのだ。
    例え、世界を敵に回したとしても――この人形を盗み出そうと。
    おれにとっての運命は、人の形をしていた。

    ***

    「で?だから連れて帰って来たってのか?」
    「ああ。ワイフーには内緒だぞ」
    「いや無理だろ。ワイフー姐、来週顔出すって言ってたし」
    それは困ったなあ、と言いながら、アの義父は言葉通りの表情をしようと眉をひそめて見せた。しかしそれで緩みきった頬が引き締まるわけでもない。リーは至極幸せそうに、その観用少女の髪をブラシで梳いていた。人形が腰掛けているのは葡萄の彫刻があしらわれた、歴史の深みを感じる煉瓦色の椅子だ。この事務所で一番豪華な椅子といえば所長であるリーのものだったのだが、その順位を入れ替える必要がありそうだった。人形は眠っているのか、目を閉じたままされるがままになっている。依頼を受け、悪徳な生体実験を行っているという企業の証拠集めに出ていったリーが、書類やUSBと共に持って帰ってきたのがこの人形だった。
    アの養父は炎国人らしく情が深く、そして面倒見の良い人だ。何せ血の繋がらない子どもを三人も抱えて、面倒を見ていたほどだ。ワイフー姉に関しては彼の義兄弟の子どもらしいからわからなくもないが、自分とウンに関してはダウンストリートで途方に暮れていたところを拾ってきたのである。
    三人の子どもたちが彼の手元を離れた今、養父はまた何かしらを拾ってくるだろうとは思っていたが。いい歳をした大人、それも中年男性がお人形遊びとは。
    「おいおい、観用少女は龍門上流貴族の嗜みだぞ」
    「んなこた知ってるよ」
    純血種の犬や猫、手のかかる美術品のようなものである。観用少女はそれを持っているということがある種のステータスなのだ。元は有名な商人の出であるという養父は、もしかすると生家にも観用少女がいたのかもしれない。
    しかしそれはそれとして、着飾った人形の世話を甲斐甲斐しく焼いている姿を見るのは、子どもとして複雑な思いだった。義父の有様に頭痛を覚えるが、果たして義姉はどんな反応を見せるだろうかと想像すると、少しだけそれも和らぐ。
    「つーかその人形、――薔薇との混一か?」
    「……」
    リーの手が止まった。
    混一とは、木に竹を接ぐように、植物と宝石、昆虫と鉱石など異なる物質同士をかけ合わせて一つの物体を作る技術である。組み合わせとしては有機物と無機物が多い。有機物同士では、拒絶反応が強く素材が耐えられないからだ。アも、リーに連れられて見に行った闇オークションで、花弁がところどころ水晶に変じた百合や、オパールの羽を持つ蝶などを見たことがある。現在は倫理的な観点から禁止されている技術ではあるのだが。
    「人形と植物の組み合わせなら見たことがあるけどよ。よく成功したな、観用少女と植物なんて」
    観用少女は、普通の人形とは違う。眠り、ものを食べ、時には喋る個体さえあるという。つまり有機物よりの存在だ。有機物同士をかけ合わせて、薔薇も人形もまだ生きているということが、奇跡に等しい。
    アが人形に手を伸ばしたのは、単純に好奇心からだった。科学者、それも生体に携わるものとしての。しかし。
    「――、」
    ふ、と人形の目蓋が開き、彼の手はその白磁の肌に触れる寸前で止まった。人形の右目は薔薇に置換されており、アを見つめるのは左目だけだ。しかしそれだけで充分だった。口ほどに物を言う瞳が、その真意をアに伝えるのは。
    「どうしました、おひいさま。眠くなりましたか?」
    リーが人形の顔を覗き込む。人形は相変わらず何も言わなかったが、リーはそうですか、と相好を崩した。彼らには、目を合わせるだけで十全らしい。人形が両手を持ち上げると、ブラシを握り込んだリーが横抱きにかかえ上げた。一般的なお姫様抱っこの姿勢だった。
    「ア、ちょっとこの子を寝かしつけてくるから、お前は――」
    「――いや、俺もそろそろ帰るわ。診察があるしな」
    そう言えば、養父はあっさりと頷いた。人形はもう目を閉じて、リーの胸に頭を預けている。
    リーは人形を抱えたまま、奥の部屋へと消えていく。その背中にさえ嬉しさが滲んでいることは明らかなで。アは第二の実家とも言えるこの事務所の現状について、果たしてこれを兄と姉にどう伝えたものかと今度こそ頭を抱えた。

    ***

    「あの子は……、君の子ども?」
    珍しいことに。出会ったときから、彼女は喋ることができた。製造した職人の腕が良かったのだろう。そうですよ、と言い添えると、うとうとと微睡む目蓋が微かに強ばる。
    「義理の、ですけどね」
    むう、と今度は唇がとがる。両手がふさがっていることが悔やまれる。つついたら、果実のような手触りがするのだろうか。
    「……リーは、少し意地悪だ」
    「そんなつもりはないんですけどねえ」
    寝室の扉を開ける。自分の部屋とは別に、彼女のために用意した部屋だ。観用少女はとにかく手間がかかる。専用の寝台、栄養剤。観用少女が口にするのは人肌程度に温められたミルクだけなので食費という意味ではそれほどかからないが。
    他の観用少女がどの程度食事をするのかはわからないが、彼女は一日に数度のミルクで満足なようだった。このために新調した茶器で、ゆっくりと自分の温めたミルクを飲む彼女を見ていると、陽だまりのような何かが、自分の喉を下り落ちていくような気がするのだ。勿論身に纏うドレスも、何着か代わりを用意してある。
    もう眠いのだろう。再び瞼が下がり始める。寝台の上に華奢な身体を降ろすと、しかし白い指が自分を引き止める。
    「わたしは、……あのこの代わりだった?」
    花びらが散るように、零れ出した言葉は、どこまでが意識下なのだろうか。ようやく空いた両手で前髪をかきわけ、そっと唇を落とす。
    「あなたの代わりなんていませんよ」

    ***

    「……なんでこんなことになってんのよ」
    その声に応えるのは、工房の中に吹き込む風だけだった。
    窓ガラスは割れて、机や椅子と言った目ぼしい調度品は破壊され、風雨によって朽ちかけている。以前この店を訪れたときに並んでいた、観用少女は一体も残っていないが――、Wは舌打ちをした。それが良い兆候とは思えない。
    なんだか嫌な予感がするの、と彼女に訴えたのは、出会ったその日から彼女の世界の中心であり頂点となった観用少女、テレジアだった。彼女にショーケースや観用少女を取り扱う店よりもずっと広い世界を見せたいと、龍門外に旅行へと出かけていた二人が再び家へと帰ってきた時のこと。列車の窓から見える景色が、馴染み深い龍門の街並みに変わってからというもの、彼女はずっと気もそぞろのようだった。Wはそれを、数ヶ月ぶりに戻ってくる故郷への郷愁か、旅が終わってしまうことの寂寞だと思っていたのだが。
    Wが足を踏み出すと、フローリングに散らばったガラスの破片が更に細かく砕けた。テレジアを自分が引き取ったときに、最後まで寄り添っていたあのうさぎ耳の観用少女も、自らの作品を深く愛していた職人もいない。見る影もない。工房の中はがらんどうで、人形の抱える洞のような空虚さが満ちている。床に積もった埃や塵を見るに、この工房が廃墟になってからかなりの時間が立っているようだった。そして、それはただ潰れたからという訳ではなさそうだ。入念な破壊は、証拠や痕跡を残さないための工作だ。Wは唇の端を吊り上げた。扇情的に、好戦的に。まず間違いなく、同業者の仕業だろう。そうなれば、やることは決まっている。
    Wは踵を返すと、振り返ることもなくかつて工房だったその場所を出て行った。
    彼女の足取りは軽く、路地裏をステップを踏みながら踊るように駆けていく。向かう先はまだ決まらないが、やることは一つだ。テレジアはこの場所を深く愛していた。彼女が生まれ、そして彼女の同胞達が生まれては旅立っていく場所だ。ならばそれを蹂躙したものに、容赦など必要あろうか?
    Wの口元に獰猛な笑みが浮かぶ。それは獲物の喉元を食いちぎろうと飛びかかる、肉食獣の笑みだった。
    「また素晴らしい一日になりそうだわ」

    ***

    USBにかけられたセキュリティの解除、そして暗号化された情報の解読にはまだしばらくかかりそうだった。彼女とともにあの資料子から持ち出した書類とデータ、それを預けた白熊に調子はどうかと尋ねると、もうちょっと待ってくだせえ、とジェイは頭をかいていた。なら仕方がない、と家に帰って扉を開けるなり、白い何かがこちらに向かって突進してきた。衝突の衝撃こそあれど、後ろによろめくほどではない。おおっと、と抱きとめたそれは柔らかく、薔薇の香りが立ち上る。純白のフリルが残像のように揺らめいていた。
    「逃げんなって!……あ、ヤベ」
    室内から彼女を追いかけて飛んできた鋭い声は、人形が今どこにいるかを視認してトーンが下がる。何やってんだ、と末の子どもを呆れて見つめる。彼女はじりじりと、脅威から隠れるようにリーの背中側へと回った。
    「いや、俺もリーさんを見習って人形遊びを」
    「髪を抜かれた」
    「おい!」
    「髪?ア、この子はお前の実験体じゃないんだから」
    実験体、と聞いて背中越しに彼女の震えが伝わる。かばうように後ろでで頭にふれると、掌にすりよる柔らかさがあった。絹糸めいた手触りは手袋越しにも優しいが、アはこれを。
    「そんな顔しないでくれよ、リーさん。ちょっとじゃれてただけだからさ」
    「……ア、お前なあ」
    「おっと!そろそろ往診の時間だ。そんじゃな。次は夕飯を食いに来るからさ!」
    猫のように気まぐれで移り気な少年は、仕事用の鞄――医薬品と医療器具が詰まっている、いざという時はこれでぶん殴れば大抵のやつは大人しくなるんだぜと語っていた――を引っ掴むと、リーとその後ろで身を固くしている彼女の横を旋風のように駆けていった。
    「大丈夫でしたか」
    おずおずと、外套の影から彼女が顔を覗かせる。ガラスに似た瞳できょろきょろと周囲を見渡し、もう脅威がないことを確認してから、もう一度リーに抱きついた。
    「……ちょっと驚いた」
    「すいませんね、うちのが。……他になにか、乱暴なことはされませんでしたか?」
    何度も頭をなで、その銀糸の髪に指を通すと、彼女の身体から少しずつ強張りが取れていく。
    「実験」
    「はい?」
    「あの子も実験が……好きなの?」
    末の子どもは好奇心が旺盛だ。今でも怪しげな薬を作っては被験者を求めている。彼女を家に連れて帰ってから、引き合わせた後も、目を覚ました観用人形に興味津々だった。しかしそれは人形遊びをしたい、という無邪気なものではない。リーはワイフーがまだ幼かった頃のことを思い出す。彼女が遊んでいた人形、それを奪って、壊しかねない勢いで振り回していた近所の少年を。勿論されるがままになるワイフーではないので、きっちり鉄拳を見舞って奪い返していたけれど。しかし末の子どもに、自分がそうするわけにもいくまい。
    その柔らかな髪を指に絡めながら、なんと答えたものかを思案する。彼女は薔薇との混一だ。――彼女は、どのようにして生み出されたのだろう。混一が現在の龍門で禁止されているのは、それが生命を玩具にする行為だからだ。木に竹を接ぐのとは訳が違う。花に宝石を、虫に鉱石を、一つの生き物――それが本当に生きている、と言えればの話であるが――にして、時には装飾品、美術品としているのだから。ましてや観用人形と花、生命同士をかけ合わせてできたものであれば。それは殆ど禁忌に足を踏み入れている。しかし。その奇形めいた美しさに、禁じられたが故の魅力取り憑かれるものが少なからずいることを――この街の光と闇を、その中間に立って見続けてきたリーは、嫌になるほどよく知っている。
    「……あなたを実験体にはしませんよ」
    そう言えば、人形の彼女は蕾がほころぶように微笑んだ。彼女がどのようにして作られたのかはわからない。美しいものを見たいという、無邪気で純粋な欲望が、あさましく変質した結果として産み落とされたのかもしれない。その美しさに惹かれている自分も、同族のそしりを免れないだろう。
    ならば、せめて。――彼女の庇護者でいたかった。
    「リー……、ねむい」
    抱っこをせがむ子どものように、彼女が両手をこちらに伸ばす。抱え上げた身体は幻のように軽い。この胴の中に詰まっているのは、薔薇の花弁だけであるような軽さだった。こちらに体重と頭を預けきる無防備さが愛おしい。
    観用少女は、所有者の庇護がなければ生きられない。彼女たちは手のかかる美術品であり、愛されていなければ枯れてしまう花なのだ。人の手を離れれば、枯れて朽ちて散るばかりの。
    この手にある花が、何も恐れずに咲くために。自分は何をすればよいのだろう?
    「もう休みましょう。――おれがいますから」

    ***

    まるで薔薇の花園にいるような。
    呼吸をすると、その薫香が肺に染み込む。彼女の身体に咲く薔薇の香りだ。彼女を引き取ってから、絶えず漂っていた香りは、けれども今は厭わしい。彼女の回りでだけ香っていたはずなのに、いつの間にかそれは部屋から滲み出て、家中を満たすようになった。
    「……何か、食べられそうですか?」
    彼女が薄く目を開く。繊月に似た眼光は、白熱灯の前では容易く褪せてしまう。いらない、とか細い声は、溢れる端から薔薇の香りに埋まっていく。彼女の身体を苗床にする薔薇は、宿主の衰弱を嘲笑うかのように成長し、花開き、優美で豪奢に咲き誇っていた。
    観用少女が食べるものは人肌程度に温めたミルクだけ。彼女を引き取ったその日から、リーはいつでも彼女が食事を取れるように鍋にミルクを用意している。手を凝らした料理も手ずから茶を淹れることも好きだが、彼女のためにできることといえば買ってきた牛乳を温めることだけなのだからもどかしい。
    薔薇の旺盛な生命力と反比例するかのように、目に見えて彼女は衰弱していった。眠りがちな観用少女だと、連れてきたときからわかってはいたけれど。あれは体力の消耗を最小限にするためだったのだ。せめてなにか栄養のつくものを作れば、彼女も少しは回復するだろうか?観用少女の職人に見せることも考えた。しかし――薔薇との混一を、どのように説明すれば良い?この状況を見ても口止めの効くような、口の固い職人を何人かリストアップはしたものの、選別はまだ終わっていない。アにも連絡してはいるが、あの日から一度も家に顔を出さなかった。おおかた実験に夢中になっているのだろう。
    どうしたものか、と寝台の上に横渡ったままの彼女の額を撫でながら、リーは思案する。このまま待っていても状況はじりじりと悪化するだけだ。ならばいっそその前に――
    ぴんぽーん、と。
    思考を中断したのは気の抜けるほどに牧歌的な玄関のチャイムだった。来客か、依頼人か。今はそれどころではないのに、とわずかな苛立ちを抱えた、最後に頭をひと撫でしてからリーが腰を上げる。彼女の部屋を出ると、床板を叩く硬質な足音がした。おそらくハイヒール、客人は女性だろうか。いつでも依頼人が入ってこれるようにと、玄関の鍵は初めからかけていない。それでもチャイムを鳴らすのだから、依頼人は礼儀正しい人物だろうと思っていたリーは、
    「……は?」
    扉を開けて絶句した。
    肌を隠したいのか見せつけたいのかわからない黒のボンテージ。意図的に体のラインを強調するように巻かれたベルトは、野生動物を拘束しそこねたようにも見える。何より、そのバタフライマスクは――
    「あら、お邪魔してるわ――」
    よっ!という言葉の裏で爆ぜたのは閃光弾だった。視覚が白く焼き切れ、耳鳴りが聴覚を狂わせる。それでも横をすり抜けようとした人影に手が届いたのは、ここが自分の家であり、自分にも経験があるからだ。
    「随分とお転婆なお客様ですねえ!」
    反射的に右腕を上げる。容赦なくこめかみを蹴り飛ばそうとした膝を受け止められたのは、その蹴りに乗った悪意と敵意があまりにも明確だったからだ。直撃すれば脳震盪を起こして沈んでいたであろう一撃をリーが受け止めたことに、Wは感嘆の声を上げる。
    「へえ、なかなかやるじゃない」
    その声はリーには届かない。そのはずだった。しかしリーは唇の端を吊り上げて、嘲笑の滲む来訪者の称賛に応える。
    「そりゃどうも」
    思っていたよりも厄介なことになりそうだ――、と、Wが距離を取ろうとしたときに。自身の袖の端で、何かが煌めくのが見えた。
    瞬間、爆熱と爆風が身体を焼く。
    「――ッ!」
    爆ぜたのはWの武器ではなく、リーの符だった。
    辟邪除災。
    その符は張り付いた後、五秒で起爆する。リーが得意とするアーツの一つだ。
    よろめいたWを取り押さえようとリーが近寄る。眩んだ視界も耳鳴りも収まりつつある。
    その動きを止めたのは、Wによってもたらされる爆発でも暴力でもなかった。
    「……リー……?」
    廊下の奥、背後から、かけそき声が聞こえる。あれは真昼の月であり、それでもリーがそれを見落とすことはない。
    そしてそれが、決定的な隙となった。
    先に立て直したのはWだった。ふらつく足は地面を蹴り、リーの方へと飛びかかる。攻撃を受け流そうとしたリーは再び腕でそれを防ごうとしたが、しかしそれすらも布石に過ぎなかった。怪盗はそれを踏み台にしてリーを飛び越え――うっそだろおい、という単純な驚愕が零れた――、ネコ科の肉食獣のしなやかさで後方に着地する。
    振り返る。怪盗は真白い薔薇を抱きかかえていた。
    「――彼女を離してください」
    喉の奥から出た声は、獣の唸りに似て。
    「あら、泥棒はそっちの方でしょ?」
    そんな威圧などまるで意に返さない、キャンディに火薬を練り込んだような嘲笑が応える。
    廊下の先に出口はない。飛び出せそうな窓もない。けれども頭の中では警鐘が止まらない。
    怪盗は宝物を抱えたまま廊下の奥へと走り出す。走れば数歩で埋まる距離だ。しかし今はそれが致命傷だった。人形を抱えた手とは反対の腕が放り投げたのは、そのキッチュな服装とはまるで正反対の無骨な黒い塊――爆弾だった。
    閃光が爆ぜる。
    白くけぶる視界の果てに、青空が覗いていた――錯覚ではない。あの野郎、壁に穴を開けやがった。
    「それじゃあね、探偵さん」
    壁に空いた大穴から、人形を抱えた怪盗が飛び降りる――兎を追いかけて穴に飛び込んだ少女のように迷いなく。爆風と自由落下にたなびく白いフリルは、風にもてあそばれる薔薇の花弁のようだった。手を伸ばしても届かない?そんなことはわからない。だから駆け寄って、自分も飛び降りようとしたリーは、瓦礫の中に埋もれていたそれに気が付かなかった。かちり、と何かのスイッチが入る音。
    四度目の爆発はリーの足元で起こり、びっくり箱に驚く間もなく、彼の意識は刈り取られた。

    ***

    「……い、おーい。リーさん。起きてるか?」
    閃光と爆音に溶けた意識に、誰かの声が反響する。それが末の子どもであることに気づいた瞬間、リーは飛び起きた。危うくぶつかりそうになる頭を、のけぞることで避けたのはアの方だった。
    「いきなり起きるなって!」
    「アか?……あいつ、は」
    眩さに目がくらむ。網膜を焼く光が壁に開いた穴から差し込む日光であることに気づき、リーは2つの意味で頭痛を覚えた。日は傾き、赤のほうが多い光は彼女をさらっていったあの怪盗を連想させる。瓦礫の散らばる床に寝ていたせいだろう。関節が軋みを立てるが、しかし思っていたより痛みが少ないのは、アが介抱していたからだろう。
    ともかく探しにいかなければ。リーは歯を食いしばって立ち上がろうとしたが、それを制したのはアだった。
    「リーさん」
    やけに改まった表情で、アは自身を引き取った保護者を見つめる。いつになく真面目で、真剣に
    「この前、あの子の髪を抜いただろ。あの解析結果が出た」
    そうだ。自分はアにそれを尋ねようとしていたのだ。アは悪戯好きだが、意味もなく人を傷つけるような人間ではない。ならば彼女を怯えさせたことにも、何か理由があるのではないか、と。例えば、彼女の衰弱の原因を調査する、といった。
    しかし。アが下した診断は、リーの想像を超えていた。
    「あれは人形じゃない」
    アは。簡潔に、簡単に、ただ事実だけを伝える。
    「あれは人間だ。――人間と薔薇の混一だ」

    ***

    そこは小さな方舟で、それが私の箱庭だった。
    観用少女を作る工房。そこで少女たちを形作り、相応しい人間へと預ける。愛されて育ちますようにと願いながら。観用少女は元々、龍門の上流貴族達の間で親しまれてきた文化だ。けれど私は、彼女たちが望むならば、誰のところでも構わなかった。だからだろう。私は他の職人たちとは違って、上流階級の貴族たちとはそれほど深い交流を持っていたわけではなかったから。あの企業に目をつけられたのだろう。
    本当に美しいものを作りたいのだ、と彼らは言っていた。
    観用少女と植物の混一。それを成し遂げることが悲願なのだと、やってきた男は熱に浮かされたように語っていた。混一が禁じられた技術であることも、それが生命の冒涜であることも、生まれたものを合成獣と呼んで蔑む人間が一定数いることも理解してると。けれども自分はそうは思わない、と。あれこそが真の美であり、生命の調和なのだと。
    けれども実験は上手くいかない。手持ちの観用少女はあらかた使い潰してしまった。だから新しい人形を提供してくれないか――と、男は言った。他の工房とは異なり、ここは人形を売る相手を選り好みしないと聞いたから、と。
    私は断った。そうなることも想定の内だったのだろう。無理やり実験室に連れ込まれ、協力するよう強制された。手を貸すふりをしていたのは、データを集めて失敗した人形たちを元に戻す方法を探りたかったからだ。
    しかし彼らは思いついた。
    実験は未だに成功しない。
    だが、失敗することなら誰にでもできる。
    繋がりのない個人の職人であれば処分もし易い。それも私が選ばれた理由の一つだった。
    これで実験を成功させるためのデータの一つでも得られたならば重畳だ。失敗しても、その遺骸は他の職人を脅迫するときに見世物にはなるだろう。
    ――だから、彼らにとって一番の計算違いは。
    この実験が成功し、【私】が生まれたことだろう。

    ***

    「――で?あんたはそうやって、ジジイ共の慰み者になって物置の片隅で埃を被ってるつもりだった訳?」
    背もたれと向き合うように座り、椅子をぎしぎしと軋ませながらWは問う。女性もいた、と工房にいた頃の私だったら答えただろう。あるいは、テレジアの前でそんな言葉遣いをしないでくれ、か。
    けれども今はもう身体の自由が効かなかった。まるで本当の人形になったかのように。頭の中には、密度の高い薔薇の薫香が霧のように立ち込めている。
    Wは優秀な傭兵で、怪盗だ。テレジアを引き取り、裏稼業から足を洗った後も、そのスキルの全てが失われた訳では無い。彼女はきっと、荒れ果てた工房から伸びる痕跡の糸を辿って、あの探偵事務所へやってきたのだろう。
    きっと彼が現れなければ、Wの言う通りになっていただろう。成功例として他の実験データとともに展示されて。思い浮かんだ横顔に、胸の奥がつきりと痛む。それは身体に巻き付く茨よりも鋭く、私を締め付ける。
    「あのねえ、あんたがそうなったら、誰がテレジアの調整をするのよ」
    Wが私の額を小突く。彼女にしては珍しい力加減だった。私が何かを言おうと唇を開けると、声があまりにか細いことに不満を覚えたのか。しかめっつらで彼女が耳を寄せる。
    「――、……」
    囁いたのは同業者の名前だ。彼女は気難しいが腕は良い。Wと穏便にやれるかだけが問題だが、テレジアのためならばWも少しは自分を曲げてくれるだろう。
    それに、と私は思う。私のような人間がこれ以上でないように、Wには彼女を守ってほしい――と。ぽつぽつと、葉を伝い落ちる雫のような言葉をひとつ聞く度に、彼女の渋面はますます深くなる。
    「あんたねえ、なんで――」
    何かを言いかけたWは、最後まで言うことなしに頭を横に振った。再び私を見据えた瞳には、先程までの色はない。ただ浮かぶのは冷ややかな嘲笑だけだった。
    「もう喋ることすらまともにできないわけ?あんたがただの人形になったら、あの男はどんな顔をするか見ものだわ」
    「……」
    頭を埋め尽くす薔薇の花弁、その薫香の向こう、伸ばした腕を傷つける茨の先に――あの人がいる。
    胸を軋ませるのは、最早この肌から褪せた温もりだ。彼の注ぐミルクの中に、髪を梳く指先に、眠る私の上にかけられる毛布に。宿っていたあの温もりは、きっと愛と呼ばれるものだ。ガラスケースの中で、不十分な成功作として朽ちていくばかりの私を、彼は見出してくれた。
    実験は失敗はしなかった。しかし完全な意味で成功したとはいえない。もうすぐ私は物言わぬただの人形になるだろう。生きているのか死んでいるのかも曖昧な、薔薇の苗床になるだろう。
    そうなったら、あの人は。
    ――私のために、泣いてくれるだろうか?

    ***

    あの企業に自分より先に侵入した人間がいるとは思わなかった。大っぴらにはできない部署である。表向きは静かだが一皮むけば中でうごめいているのは馬鹿らしくなるほどの狂騒だった。実験に協力させていた人形師が残した記録と、その人形師だったものが持ち出されたのだ。記録は暗号化されているとはいえ、人形が盗まれたのは問題だ。早く何とかしなければ――。その過程で、人形を処分しても構わない。誰かに見つかってこのことが明るみになるくらいなら、という言葉にWは舌打ちをし、そして幹部連中を何人か黙らせた。――後は残っている連中よりも先に、あの人形師を盗み出した張本人を見つけ出さなければならない。
    蜘蛛の糸を辿るような繊細さと獲物を狩る肉食獣の大胆さで、Wはついに辿り着き、そして見つけた。変わり果てたかつての人形師と、そしてそれに寄り添う探偵を。
    もう人形師は長くは持たないだろう。――いっそのこと、その前に、人間としての意識を保っている内に殺してやるのが慈悲かしら、と。Wがその細い首に、その細さに似合わぬ大輪の花を支える茎のような首に手を伸ばした、そのときに。
    静寂を、夜を引き裂く音がした。
    それはガラスの割れる音で――、Wのセーフハウスに訪れた、招かれざる客が足を踏み入れた音だった。
    「――こんばんは」
    人影が夜を切り取ったような人影が、月光の中に浮かぶ。あれはシルクハットの影だろうか。タキシードを纏った彼が、手の中でステッキを踊らせる。
    「彼女を頂きにあがりました」
    Wの舌打ちが響く。手にはいつの間にか手榴弾が握られていた。けれどもそれを気にもせずに、彼は足を踏み出す。ガラスの砕け散る音は、開幕を告げるベルにも似ていた。
    「懲りないわねえ、あんなに惨めにやられたのに」
    「大事な宝物を盗まれちゃあ黙ってられませんよ」
    悠然と、昼に何があったのかを忘れたような面差しで、男が笑う。けれどもその瞳だけが自分と同じ、夜闇に隠れて獲物を狙う狩人のものだ。とっくの昔に引退したって聞いてたのに、と内心で毒づく。今となっては御伽噺、尾びれのついた物語。トランプを弄ぶ、瀟洒な怪盗がいたのだと。旧友の子どもを引き取ったことで引退した怪盗がいたのだ、と。今は、その時の経験を活かして探偵をしているとも、旧友を探して旅に出たとも聞いている。
    だからなんだ、とWは唇を三日月の形に歪ませて、もうひとりの怪盗に向き合う。自身の宝を奪い返すことすらできないような相手に、テレジアが気にかけるものなど渡せない。
    「老頭児にはご退場願おうかしら」
    挨拶代わりに放られた手榴弾は、彼の手から放たれたカードに両断された。ここまでは互いに予定調和だ。間合いに入ろうとしたWの身体が止まる。リーの手の中で切り替えされたステッキは、あと数センチで彼女の眼球に触れようとしていた。もし一歩でも踏み込んでいたならば、それは容易く目を抉っただろう。足を止め、踏み出そうとしていた勢いのままにステッキを蹴り上げる。リーの手を離れたステッキはくるくると宙を舞い、リーが生まれた間合いに踏み込む。迎え撃とうと繰り出されたWの手刀を絡め取ったのは金色の糸だった。それはリーがステッキを手にしていたのとは反対の手に繋がり、最早自分の意志では動かない。――マジシャンが右手を出したならば、左手に注目すべきというのがマジックの基本だ。カードも、ステッキも、自分の動きを封じるまでのブラフに過ぎない。Wの表情が驚愕と、そして昂揚に歪む。戦い甲斐のある相手と相対することに喜びを覚えるのは、怪盗よりも傭兵としての性だろう。
    「――はッ」
    片手が封じられているのは相手も同じ。Wは太股のホルスターからナイフを引き抜くと、金色の糸を断ち切った。悪くない、とWは思う。昼に会ったときは、牙も爪も抜かれてすっかり腑抜けになったものだと思ったけれど。懐に飛び込んだWのナイフを、どんな魔法を使っているのか、リーは一枚のトランプで受け止める。そこに描かれているのは踊る悪魔だ。この男を象徴するような。刃の光を移し込んだ鬱金の瞳を見つめ、Wはにい、と唇の端を釣り上げた。
    それでいい。
    怪盗であるならば、欲しいものを力ずくでも奪ってみせろ。

    ***

    ――動かなくては、と思うのに。もう指の一本も自分の意志では動かせなかった。今の自分は、人間と言うよりも随分と人形に近い。或いは、薔薇の苗床か。
    金属がぶつかり合う音が断続的に響く。彼女の戦闘にしては珍しく、爆発音は聞こえたかった。今、何が起こっているのだろうか。――彼、は。私のせいで、傷付いてはいないだろうか?
    「……はーぁ、全く」
    静寂が落ちる。戦闘を意味する音が止む。響くのは、こつりこつりと響く足音と、深々としたため息だった。
    「あの嬢ちゃん、ずいぶん景気良く爆発しようとしますねえ。あなたに何かあったら、どうするつもりなんだか」
    ぼやく声と足音は次第に近づく。――彼が、私を見つけてくれたときのことを思い出す。
    「起きてくださいよ。――ねえ、お願いですから」
    それは哀願で、懇願だった。答えたかった。腕を伸ばして、彼を抱きしめたかった。抱き止めて欲しかった。
    唇に、冷たい何かが押し当てられる。陶器の冷たさだった。
    「アの野郎が作った薬です。あなたが残した記録を元にして、あいつが作ったんですよ。……飲んでください、どうか」
    彼が、弱りきった私にミルクを飲ませてくれたように。唇を少し開けて、その液体を飲み下せばいい。わかっていても、もう少しも、この身体は私のものではなかった。唇に当たっていた冷たさが遠ざかる。失われたのはその温度だけではなく、喪失と捨てられる痛みに叫び出したくても、喉が震えることすらない。
    代わりに、喉を流れるのは。
    再び唇に押し当てられた、無機質の冷たさではなく、生き物の温度を宿していた。温かな何かが唇を開けて、液体が口の中へと流れ込む。こくりとそれを飲み下したのは、生物としての機構故だった。食道を伝って落ちたそれが熾火となって、冷たく固まっていく身体に熱を、意志を、吹き込んでいく。
    ――ゆるゆると、百年の眠りから覚めるように、私は瞼を開けた。
    嗚呼、とこぼした溜息は、どちらのものだったのか。
    「……おはようございます」
    彼は、今にも泣き出しそうに微笑んで。その金の瞳より美しいものを、私は知らない。
    「……おはよう、リー」
    私にとっての運命は、人の形をしていた。

    ***

    目を覚ましたときに、事態は粗方収束していた。
    観用人形と植物の混一を作ろうとしていた企業は潰れた。リーが暴いた証拠が決定的になったようだ。逃げ出そうとした人間を数人、宵闇に紛れて銀髪の怪盗が襲撃したとも聞いたが、真偽の程は定かではない。私の工場と、なんとか流した観用人形は、同業者がその後の面倒を見てくれることになった。緑髪の彼女は私と彼を交互に見た後で、後のことは任せてほしいとだけ言い残して去っていった。彼女であれば安心だろう。
    私といえば、アの作った薬のおかげで、意識を保っていられる。私が残したデータは観用人形のものだけだったのに、そこから特効薬をあの短期間で作り出してしまえるのだから、天才――否、鬼才と言うべきだろう。私の髪を試料として得てから、三日三晩徹夜して薬を完成させたらしい。そこからは泥のように眠っていたというが、先日会った時は私の容態に目を煌めかせていた。次は血液をサンプルとして分けてほしいんだけどさぁ、とせがまれた。
    そして、私といえば。
    「今日の調子はどうですかい?」
    彼がカーテンを開けると、差し込む光が朝を告げる。アが作ってくれた薬は有効だったが、それでも完全に体が元に戻った訳ではない。蔓の絡む足はもう自分の意思では動かず、私は一日の半分以上を眠って過ごしている。今の私は、誰かの庇護がなくては生きていけない観用人形と変わらない。
    「食事が済んだら外に行きましょうか?今日は天気が良いですからねえ、きっと気分が良いですよ」
    せがむままに、彼が私を抱え上げる。薬の影響だろうか。私は、ミルク以外のものも食べられるようになった。彼が手づから作った料理はどれも美味しい。それはきっと、人形のままでは得られなかったものだ。
    「ああ、買い物に行くのもいいですね。夏用のドレスを用意して――。何か欲しいものはありますか、おひいさま?」
    今の私は、人間と人形の、果たしてどちらなのだろうか。
    きっともう、どちらでもない。
    だから。
    「――名前」
    名前が欲しい、と。
    私が彼の袖を履くと、彼は息を止めた。
    人形師としてではなく、実験体としてではなく。
    あなただけの、私としての名前。家にやってきた人形に、持ち主はまず、自分だけの名前を与えるのだから。
    「……そうですね」
    空いた手が、私の前髪をさらりと流す。額から頬を伝った指先は、百年の眠りを覚まし、そして永遠の魔法をかける。
    「あなたの、名前は――」
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    はるち

    DONEドクターの死後、旧人類調技術でで蘇った「ドクター」を連れて逃げ出すリー先生のお話

    ある者は星を盗み、ある者は星しか知らず、またある者は大地のどこかに星があるのだと信じていた。
    あいは方舟の中 星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで一輪咲いているからだね
     ――引用:星の王子さま/サン・テグジュペリ
     
    「あんまり遠くへ行かないでくださいよ」
     返事の代わりに片手を大きく振り返して、あの人は雪原の中へと駆けていった。雪を見るのは初めてではないが、新しい土地にはしゃいでいるのだろう。好奇心旺盛なのは相変わらずだ、とリーは息を吐いた。この身体になってからというもの、寒さには滅法弱くなった。北風に身を震わせることはないけれど、停滞した血液は体の動きを鈍らせる。とてもではないが、あの人と同じようにはしゃぐ気にはなれない。
    「随分と楽しそうね」
     背後から声をかけられる。その主には気づいていた。鉄道がイェラグに入ってから、絶えず感じていた眼差しの主だ。この土地で、彼女の視線から逃れることなど出来ず、だからこそここへやってきた。彼女であれば、今の自分達を無碍にはしないだろう。しかし、自分とは違って、この人には休息が必要だった。温かな食事と柔らかな寝床が。彼女ならばきっと、自分たちにそれを許してくれるだろう。目を瞑ってくれるだろう。運命から逃げ回る旅人が、しばし足を止めることを。
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    はるち

    DOODLEロドスでダンスパーティーが開かれるのは公式というのが良いですね
    shall we dance「あなたには、ダンスはどのような行為に見えるかしら?手を相手の首元に添えて、視線を交わせば、無意識下の反応で、人の本心が現れるわ」

    踊ろうか、と差し出された手と、差し出した当人の顔を、リーは交互に見た。
    「ダンスパーティーの練習ですか?」
    「そんなところだよ」
    ロドスでは時折ダンスパーティーが開催されている。リーも参加したことがあり、あのアビサルハンター達も参加していることに少なからず驚かされた。聞けば彼女たちの隊長、グレイディーアは必ずあの催しに参加するのだという。ダンスが好きなんだよ、と耳打ちしてくれたのは通りがかりのオペレーターだ。ダンスパーティーでなくとも、例えばバーで独り、グラスを傾けているときであっても、彼女はダンスの誘いであれば断らずに受けるのだという。あれだけの高嶺の花、孤高の人を誘うのは、さぞかし勇気のいることだろう――と思っていたリーは、けれどもホールの中央で、緊張した様子のオペレーターの手を取ってリードするグレイディーアを見て考えを改めた。もし落花の情を解する流水があるのならば、奔流と潮汐に漂う花弁はあのように舞い踊るのだろう。グレイディーアからすれば、大抵の人間のダンスは彼女に及ばないはずだ。しかしそれを全く感じさせることのない、正しく完璧なエスコートだった。成程、そうであれば、高嶺の花を掴もうと断崖に身を乗り出す人間がいてもおかしくない。
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