夏になると、校舎脇のプールに水が張られる。体育の授業に入る機会しかないそれは、日差しを浴びてゆらゆらと煌めいている。刑部からしてみれば風呂とは違う、泳ぐための施設と教えられても、何が楽しいのか今一つ理解できなかった。
海も市民プールも、カタギの人を驚かせてはいけないからと山浦や祖父から行けないのだと昔から教えられていた。
たがら余計に、自分とは縁のないものと思っていたのかもしれない。
「晃、本当に行くのか?」
夏とはいえど、八時も過ぎれば夜の帳が降りてくる。その暗闇に便乗して、桐ケ谷とともに夜の学校に潜入した。
「当たり前だろ。なんだよ、怖気ついたのか」
「そんなことないさ。先生に見つかったら、俺は桐ケ谷を止めに来たと言うからね」
「へーへー」
声を潜ませながらフェンスを乗り越えて降り立つと、水と塩素の臭いが鼻につく。
「刑部が言ったんだろう。プールなんて何が面白いんだって」
桐ケ谷が暑くなってきたから早く体育でプールに入りたいと零すと、あんなもの濡れるし着替えいといけないし何が楽しのかと返ってきた。桐ケ谷が涼しいし泳ぐのが楽しいとどんなに熱弁しても、刑部には刺さらなかった。なら実体験をもって納得すればいいと、夜の学校に刑部を誘った。
体育が始まるまで待てば良かったが、授業では人数が多く好きに泳ぐことも儘ならない。それに、桐ケ谷が夜の暑さに耐えかねたのも大きかった。
「ほら、刑部も来いよ」
サンダルを脱ぎTシャツも放り投げると、桐ケ谷はそのままプールへと飛び込んだ。
「晃、水着には着替えないのか?」
「持ってきてねーもん。それに、この暑さだとすぐ乾くだろ」
確かに刑部も水着は持ってきていない。
膝丈までのズボンのまま水に浮く姿を見て、諦めたように刑部も靴を脱ぐ。放り出されたサンダルも横に揃え、Tシャツを畳むとズボンの裾を折り上げる。
桐ケ谷のように飛び込むことはせず、足のみ浸かると昼間温められた水がぬるりと肌にまとわりつく。
「んだよ、はいんねーの?」
「俺はこれで十分だよ」
縁に肘をつき刑部を誘うが、足を時折バタつかせるぐらいだ。
これでは誘った意味がないと不貞腐れていると、いい案が桐ケ谷の頭に浮かんだ。息を吸うと、暗闇の水面に躊躇なく潜っていく。
「晃?」
桐ケ谷が潜ると、光源がない水面では探すのが難しい。姿が見えなくなり反応がないと少しばかり不安がよぎる。暗闇に恐怖は覚えないが、何かあったのではないかと心配になる。光源になるもの、来るのに乗ってきた自転車のライトでも持って来ようかと足を上げたその時、水面から手が伸び足を捕まれて引っ張られた。
「う、わ…!」
丁度腰を上げようと前屈みになっていた時だから、バランスを崩して簡単に水面へと叩きつけられる。
バシャンーと盛大な水飛沫を上げて暫くすると、咳き込みながら刑部が顔を出した。
「ゲホッ…、何するんだ」
「ハハッ、お前がいつまでも優等生気取ってるからだろうが。どうだよ、少しは涼しくなっただろ」
「おかげでずぶ濡れなんだが?」
纏わりつく服の感触と鼻に入った水に渋面を見せるが、桐ケ谷は気にした様子もなく水に浮かんでいる。
「つーか刑部、眼鏡は?」
「…さっきのでどこかに飛んでいったみたいだね」
水が滴る髪をかき上げた時、確かに引っかかるものがなかった。指摘されて顔に手を置くと、いつもあるべき物がない。
「しかたねぇな。ちょっと潜ってきてやるよ」
恩義せがましく言うが、原因の発端は桐ケ谷だ。潜るのは桐ケ谷に任せ、刑部は入ってしまったプールに諦め、全身から力を抜く。揺れる水面に合わせて体も揺れて、確かにこれは、気持ちいいかもしれない。
「っぷは。あったぜ、眼鏡」
刑部の横から顔を出し、桐ケ谷が眼鏡を差し出す。水浸しの眼鏡を受け取り、もう落とさないように縁に置く。拭くものがない眼鏡を掛けようとは思わない。
「んだよ、掛けぇの?」
「また無くしたら困るしね」
「ふーん…で、どうよ。楽しいだろ?」
「まぁ、悪くはないね」
刑部の素直ではないの賛辞に、桐ケ谷も笑みを浮かべる。
「今度、でっかいプールにでも行くか?流れるプールとか、ウオータースライダーとかもあるぜ」
「…考えておくよ」
二人で暫く自由に泳でいるといい加減体も冷えてきたので上がると、濡れた服が体に纏わりつく。
お互い下着一枚になってズボンを絞り乾くまでプールサイドに並べる。滴る水が鬱陶しいのか、前髪を上げて後ろへと撫でつける桐ケ谷の髪型が珍しく、つい見入ってしまう。夜でも、この男の美貌は損なわれないものだと感心してしまう。いや、夜だからこそ余計に淡い光を纏って、神秘的に見せているのかもしれない。
「んだよ?」
「…お前は、口を開くと残念だな」
「は?喧嘩売ってんの?」
「晃の顔が好みだって話さ」
綺麗だと評すると機嫌が悪くなるので、言葉を変えると途端に照れるから見ていて飽きない。
「お前の好みとか、別に刑部のための顔じゃねーし」
強気で跳ね返してくるが、暗くても耳が赤いのが髪を上げている分よく見える。
「晃」
「ん、ん…」
ここが学校内の敷地ということも忘れて、桐ケ谷の口を塞いでしまう。鼻に抜ける甘い声を聞くと、つい腕が日に焼けていない脇腹を弄るが、止めるように腕を取られた。
「ここでヤんのかよ」
「…プールサイドでというのは惹かれるけれど、これではね」
座っている地面を触ると、転倒防止のためにざりざりとしている。ここで背中をつけるのは不向きだ。
「なんか下に轢くか?」
「何かあるのか」
「ビート板、とか…?」
懐かしい名称に、つい吹き出してしまう。
「ふふっ、ビート板ね。良い案だな」
「うっせ!あーもぅ、服乾いたんじゃねぇの!帰ろうぜ」
立ち上がって服を着るのに刑部も合わせ、フェンスをまた乗り越える。
行きに乗ってきた自転車に跨ると、荷台置きに桐ケ谷が後ろ向きに乗ってくる。
「家着いたら覚えとけよ」
「はいはい、晃が覚えていたらね」
桐ケ谷の髪から塩素の臭いがする。
今年の夏は、いつもより楽しめそうな予感がした。