ファンタジーパラレルなロビぐだ♂第5話宵闇の森に降り注ぐ月光。水気を孕んだ夜風が梢を揺らして踊る。風に乗るのは葉擦れの音だけではない。宵色に沈んだ窓の向こうから聞こえる鳥の声。あれはきっとどこかの木に停まった小夜啼鳥だろう。古来から人々に愛された美しい囀りは夜なべ仕事の良き連れ合いだった。
自然が作り出す静かなざわめきは己にとって心地好く響く。緑の恩恵にあやかって生きてきた身上だからか。物思い、にも充たない思考の断片を他所にロビンは作業に精を出す。
微かな音を立てて揺れる卓上洋燈の灯。年季の入って黄ばんでしまった硝子越しに、光はテーブルの上の品々と手元を照らす。ややぼやけた色合いの照明を頼りに黙々と作業を進めた。
弓。鏃。短剣。刻み煙草。水筒。ロープ。燧石。一つ一つを丁寧に検分して、気になる箇所があれば手を加える。旅支度は心配性なくらいでちょうど良いのだと、経験から知っていた。
「───ロビン、まだ起きてるの?」
背後からかけられた愛しい声。聞き間違える筈のない音程で名前を呼ばれて、ふっと集中の淵から意識が引き上げられる。
顔を上げれば当然ながら最愛の伴侶がそこに居て。相好は自然と崩れた。
「ええ、まあ。でも、もう少しで終わりますから。」
「そう?なら良いけど……あんまり遅くなると明日に響くから、程々にね。」
気遣わしげな面持ちの立香が傍らに立つ。こちらを覗き込んでくる蒼色に揺らめく灯火が反射して、星のように煌めいた。どんなに美しいものもいずれは飽きられ価値を失う、などと誰が嘯いた妄言だろうか。少なくともここに在るのは月日を砥石にして輝きが増す宝玉だ。きっと生涯見飽きることのないだろう色彩に、ロビンは密やかな感嘆を呑み下す。
「……ねえ、今度はどれくらいで帰ってくるんだっけ?」
するりと背中側から首に回る両腕。椅子に腰かけているロビンに対し、佇む立香は高さにおいて優位性がある。耳元に直接囁かれた問いかけと擦り寄せられた頬にロビンは目を瞬かせた。しかして同時に口角が持ち上がる。
どうやら彼は甘えたい気分らしい。ならば応じぬのは男が廃るというものだ。
「……一週間と少し、くらいですかね。雨に降られなければもっと早くなりそうですが。」
質問に答えつつ、自らも彼の方へ頭を傾けた。溌剌とした皮膚と柔らかな癖っ毛の感触。肌に当たる毛先が少しくすぐったい。
立香はいつも陽なたの匂いがする。出会った時から今に至るまで、朗らかな少年から凛々しい青年へ羽化しても変わらぬ、健やかな善性の匂い。彼の性質を体現するようなそれがロビンには堪らなく愛おしかった。
───身寄りも行くあても、生き延びるために必要な悪辣ささえ持ち合わせない少年少女を攫って逃げたのは、もう三年と少し前になる。
ロビンと立香、それぞれが選択を迫られた夜。
運命の一夜が明けた後のロビンが真っ先にしたことは、一度片付けた分は勿論、更にそれ以上の量の罠を森に仕掛けることだった。街を離れる最中にもあちこちに残していったから相当の数になった筈だ。正確な数字はもう覚えていないが。
幸いだったのは素人とはいえ手伝う手があったことである。勤勉な使用人だった二人は存外に器用で、物事の呑み込みも早かった。複数で手分けして行う作業の速さをロビンはあの時初めて知ったのだ、何せこういうことはいつも一人で行っていたものだから。
最後の仕上げにやたらと豪奢な装飾の馬車───十中八九、例の貴族のものだと踏んでいた───に矢を放ち、先に行かせた少年少女の後を追った。一介の狩人に出来る小細工はそれで全て施したつもりである。
何もかもが急ごしらえの逃走術。しかしながらどうやら巧くいったらしい。それは現在もロビン達が穏やかな暮らしを続けていることから分かる。去り際にささやかな土産と共に妖精達へ“誰か来たら思いっきり遊んでやれ”と頼んでいたのも功を奏したかもしれない。とにかく少女を信頼出来る相手に預け、そして託してから今に至るまで、追っ手が三人に迫ることも手配書が出回ることもなかった。
少女を預けた先は、ロビンがかつて世話になっていた教会である。もうずっと帰っていなかったうえ、出立した街からはかなりの距離があったものの、他に頼るあてがなかった故の選択だった。
独り立ちして以来、初めての帰郷。ロビンは内心何を言われるか戦々恐々としていたのだが、久方ぶりに顔を見せた元養い子を牧師達は大層歓迎してくれた。
花と子供達を愛した副院長は残念ながら他界していたが、その夫たる院長はまだ現役だった。記憶にあるそれよりも幾分か皺が深まっていたものの、老いてなお背筋はまっすぐ伸び矍鑠としていて。昔と殆ど変わらないきびきびとした立ち居振舞いにロビンは己でも意外な程安堵した。厳格という単語をそのまま人間にしたような老爺が、目を細めてこちらを見てくるのは些かやりづらかったが。
前触れのない来訪に至るまでの経緯を聞いた院長は、気の毒な少女を暖かく迎え入れてくれた。彼女も院の子供らと同じ水を飲むうちにすっかり場に馴染み、数日後には何年も前から暮らしていたような様子で年下の世話を焼いていた。ちょうどその時の孤児院に幼い子供が多く、彼らからは新しく姉が出来たように思われたらしい。
経過を見守りついでにそこから暫くロビンも孤児院に滞在した。院長への礼も兼ねて、ではあったが出来ることはそう多くない。施設の老朽化した箇所を修繕したり、壊れてしまった道具を修理したり───ちなみに立香も日々の雑務を自ら請け負うなどしてまめまめしく働いていた。じっとしているのが落ち着かないのだという───が精々だ。それでも教会の居心地は悪いものではなかった。
そうやって数週間こまごました仕事を片付けて過ごし、もう大丈夫だろうと思えたところで、ロビンは立香を連れ再び旅立った。
出立を言い出した時の院長の表情はよく覚えている。今後もここで暮らしていけば良いだろう、と慈しみ深い老爺は言った。子供達も懐いているし、寂しがるから、と。
心遣いは嬉しく、ありがたい申し出だった。だが一度巣立った鳥はもう戻らない。少女を受け入れてもらっただけで充分である。
それにロビンにも男としての矜持というものがあった。自分の力で惚れた相手一人食わせてやれないで何が伴侶か。外から見える形はどうあれ気持ちの上では新婚なのだ。これからの人生は、二人で歩んでいきたかった。
名残を惜しむ───いつの間にか年下の子供達からたいそう慕われていた立香は特に泣き喚かれていた───孤児院の皆に別れを告げたのが夏の終わり。旅立ちに相応しい良く晴れた青空の日のことだった。
日のあるうちはそれぞれの得意分野に精を出し、月の浮かぶうちは互いに温もりを分け合って眠る。そんな旅はおよそ季節三つ分続いた。ロビンは特定の誰かとここまで長く旅をした試しがなく、立香はそもそも旅暮らし自体が初めてで。それ故に前に旅立って暫くの道中では躊躇いや不慣れさが原因の事態にたびたび直面した。けれど小さな難事なぞ、愛しく思う相手と共にいられる喜びに比べれば些末である。
───人と人との距離は縮まれば縮むだけ良い、だなどという単純なものでもない。時として近づいた分だけ瑕疵が見えたり纏わりつかれるようで煩わしくなったりすることもままある。そもそもロビンは本来───自分でも掘り起こせない深奥に仕舞い込んだ本音はともかく───他者との深い繋がりを疎んでいた。だからこそ流浪の狩人なんてものを続けてこられた、ともいえる。孤高を気取り、後腐れない関係を好んで二十数年を生きてきた。それが立香相手なら容易く覆るのを、我ながら現金だと笑ってしまう。
彼の新たな一面を見つける度に新鮮な驚きがあり、何度でも恋に落ちた。些細な欠点すらそれ以外の美点を引き立てる要素にさえ思う。あばたもえくぼ。惚れた欲目。恋は盲目。そんな言葉が頭によぎらなくもないが、それの何が悪いというのか。共に過ごす日々が募らせるのは愛しさばかり。立香と出会うまでロビンは己がこんなにも人に執着しうると気付かなかった。
蜜月のような二人旅が終わりを告げたきっかけはほんの偶然である。
ある日の道中、ロビン達は魔物が老婆を襲っている場面に遭遇した。通りがかっただけとはいえ見ないふりをするのも目覚めが悪い。魔物が大した強さでなかったのもあり、結果的に脅威から助ける形になった。
老婆の命に別状はなかった。けれど足を怪我していたため―――立香が何かの縁だからと主張したのも大いに関係する―――近くにあるという自宅まで送っていった。
実のところ、似たような出来事は旅の間に何度かあった。立香がそういう星のもとに生まれたのか、個人と深く関わるようになったロビンの運命が変化したのか。歩んだ道で騒動に行き遭うなどしょっちゅうで、すっかり慣れてしまっていた。だから今回もその一例だと諦めて素直に老婆を負ぶったのである。
森の中に佇むこじんまりとした一軒家。村から少し離れたそこが彼女の住まいだった。どこか懐かしく感じたのは、微かに記憶に残る生家が似た雰囲気だったからだろうか。久々にロビンは子供の頃を思い出した。
老婆は助けられたことに深く感謝しており、二人が旅暮らしであるのを知ると暫く滞在していくよう勧めた。熱心なそれを断り切れず、提案に甘えることにしたのが始まりだ。まさかそのまま住み続けるようになるとは、この時には欠片も想定していなかった。
十年以上前に連れ合いを亡くした孤独な寡婦は、ひょんなことから出会った若者達をいたく気に入っていた。戦争で家族を奪われてから独り暮らしだった彼女からすれば、息子が帰ってきたような気がしたのかもしれない。いかにも楽しげに薬草の見分け方や保存食の作り方を立香に伝授しているのを日々の生活の中でよく見かけた。彼女は杣人の妻として蓄えた豊富な知識を受け継がせる相手が欲しかったのだろう。
同じ食卓を囲んだ日々は傍から見ても穏やかなものだった。関係が良好で生活が暖かかったからこそ、彼女が天寿を全うした後に遺言通り家財を譲り受けたのだ。
そうして幾つかの話し合いと少しばかりの言い争いを経て、ロビンと立香の二人暮らしは回り始めた。
「……ロビン?どうかした?」
「ああ、いえ、ちょっと考え事を。」
愛しい片羽の温もりを堪能しているうちについ感傷に耽ってしまったらしい。不意に言葉が途切れたのが気にかかったのか、立香が瞼をゆっくり上下させる。疑問が不審へ変わる前にロビンは預けていた重みを戻し、椅子ごと姿勢を正して彼に向き直った。
「……アンタこそどうしたんです?今日はいつもより甘えん坊ですね。買い出しなんて毎度のことでしょう?」
問い返すと瞳が泳ぐ。やや右向きに逸らされた視線は何か思うところのある証拠だ。
直接的に指摘するのは手っ取り早いが、面白くない。もう少し気付かないふりをするのをロビンは選んだ。
「……確かに今回は普段よか時間はかかります、ちょいと足を伸ばしてでかい街まで行きますから。けど、冬が来る前に必要なものを買ってこないといかんでしょう。冬越えの物資は種類が多い。そうなるといろんなもんが一気に揃う品揃えのいい市場の方が、結局買い物が一回で済んで楽なんです。」
口調はどうしても諭すようなそれになる。けれどもそんな事実、彼とて言われなくても分かっているだろう。それでもあえて言葉にしたのは理屈以外に隠された不安の根を探すためだ。
この辺りの土地は雪が多い。冬将軍が齎す厳しい寒さと氷雪が人の出入りを阻み、ただでさえ辺鄙な村は殆ど孤立状態になる。当然ながら白に覆われた森では狩猟も採集も他の季節程の成果は見込めない。長い眠りの季節を越えるためには、気軽に動けるうちにしっかりと備えておかなければならなかった。
愛しい者に凍える思いはして欲しくない。ロビンとしてもそこは譲れぬところである。
「出来るだけ急いで帰ってきます。土産には、アンタの好きな胡桃の砂糖がけを買ってきますよ。」
好きでしょう甘いもの、と言いながら右手を伸ばす。指先は過たず青年の輪郭に届き、僅かに頬にかかる髪を払った。その流れで耳元から頤までのなだらかな曲線を楽しむ。もう大人とみなしていい年齢に入ってから何年も経つのに、彼を形取る線は丸みを削ぎ落としきれない。明らかに平均より大きい双眸や種類豊富で鮮やかな表情も手伝って、実年齢よりずっと年若く、可愛らしく見える。これが東の人種独特のものなのか、それとも彼固有の特性なのかは知らないが。
「立香。」
この数年で舌に馴染んだ名前を呼ぶ。何度も何度も口にした今ではすっかり正しい発音が出来るようになった。それが密かに誇らしい。
椅子に座ったまま両手を広げ、ついでにやや足も開く。視線だけで行動を促せば、受けた立香も心得たらしい。目尻にほんのりと朱を刷き、無言で催促された通りに一歩踏み出してロビンの腿に正面から跨った。乗り上げた青年の腰にこちらも手を添えて支えてやる。痩せ型とはいえ立香も大の男。それなりの重量だが、この程度造作もない。以前のそれよりも必要な筋肉のついた重さにほっとする。
真っ向から絡む蒼と緑。彼にのみ許した距離で、ふわりと立香が微笑む。眉根が寄っているせいで苦笑にも似ているが、含まれる色はもっと柔らかい。陽だまりに咲き添う矢車菊を思わせる表情。
「……ごめん、ちょっと心配で。」
そう言って今度は彼がロビンの顔に手をやる。両側から輪郭を包む温かい手のひら。配慮を含んだ緩慢な手付きでそうっと伴侶の首を己の方へ上向かせた。
降り注ぐ声音と視線には確かに案じるものが混じっている。
「近頃は魔物が徒党を組んでふらついてる、なんて噂を聞いたからさ。ロビンに何かあったら、俺……」
そこから先を言葉にする代わりに立香は目を伏せた。澄んだ眼に憂いの蒼が宿っていて、彼が心から想ってくれているのが分かる。
「立香……」
角度を下げた黒い睫毛にこちらまで切なくなる。愛するからこそ安否を憂う気持ちは同じなのだから。
件の噂ならばロビンも耳にしている。他所から性質の悪い集団が流れてきた、と。南で行われた大規模な魔物の討伐から落ち延びてきたらしいが、真偽は定かでない。重要なのは実際に旅の商人や街道を行く乗り合い馬車が被害に遭っているという事実だ。ロビンが向かう予定の街周辺では自警団が戦々恐々としている、などとも聞く。立香の心配も的外れではない。もしも逆の立場なら絶対に一人では行かせないだろう。
とはいえ、行くのは旅慣れたロビンの方で。そうなるとまた思うことは違ってくる。
「……オレは立香の方が心配です。」
「俺?」
名前を出せば立香がきょとりと目を瞬かせた。思いもよらないことを言われた、と謂わんばかり。それに対してロビンはわざとらしい大袈裟な溜め息を吐いてみせる。
「ええ。オレがいない間に怪我なんぞしやしないか。誰かにいじめられやしないか。犬とか猫とか鳥とか変なもん拾いやしないか、とか……」
「ねえそれちっちゃい子にする心配じゃない?俺のこといくつだと思ってる?」
「おや?オレの留守中に怪我した二角獣の仔馬を見つけてこっそり世話してたのはどこのどなたで?」
「あ、あれは後からちゃんと知らせたじゃん!元気になってから群れに帰したし!!」
去年の春の出来事を蒸し返すと立香が焦ったように反駁する。一気に表情が子供めいたものに変わった青年にロビンは湧き上がる笑い声を隠さなかった。
二角獣は名前の通り、大型の馬に二対の角が生えたような姿の魔物の一種である。小規模の群れを形成し、好物の草が生えている地帯を広く移動する。一年の大半は草の生い茂る各地の平原を巡っているが、繁殖の時期である春先から初夏にかけてだけは身を隠しやすい森林で子育てを行うのだ。ロビン達が居を構えるこの森にも群れが来ていたようで、親からはぐれた一頭の仔馬を薬草摘みに森へ入っていた立香が偶然発見した。負傷していた幼い命を見捨てられなかった彼は、二角獣の子供が走れるようになるまでこっそり面倒を見たのである。今となっては笑い話でこそあるが、気付かれまいと不審な態度を取る立香に当時のロビンは相当気を揉んだものだ。
しかし、これは予期しうる問題としてはまだ良い方だ。それ以外にもっと現実化しそうな、危惧している問題がある。
「まあ二角獣は魔物の中じゃ御しやすい部類ですがね……魔物よか余程対応に困る連中がすぐ近くにいるでしょう。」
「あー……あははは……」
あえて遠回しな表現を選べば、応える立香もまた言葉を濁す。明言しないのは彼らしいが、対するロビンは眉根を寄せた。沈黙は時として百の言葉より多くを語るものだ。
そう、いつだって過酷な気候より苛烈な獣より、人間の方がずっとずっと厄介だった。
鄙びた土地柄ではよくある話だ。閉ざされた環境、情報の届きにくい僻地の住民は往々にして“余所者”を嫌う。住み始めたこの地も例外ではなく、彼らは身内間の結束が強い分、新たな来訪者を輪に加えようとしなかった。
実際、先んじてこの地に根を下ろしていた人々の中で、ロビン達が良好な間柄を築けたのは件の老婆だけである。彼女が───何が理由はともかく元々そこまで親交は無かったらしいが───属していた村人の殆どは排他的で、新しく根付こうとする者に当たりが強い。しかもそれは自分達と差異が多い程顕著になる。
つまりは他大陸の血を引き、この国では珍しい外見をした立香に対しては余計に、ということだ。
ロビンにとって村人からの腫れ物に触るような態度はどうということもない。遠巻きにされることには慣れており、むしろ詮索されないだけ楽だとさえ思う。だが、最愛の伴侶への態度についてはどうしても忌々しい。
他人を憎むことも恨むことも苦手な立香。時として痛々しい程慈しみ深い立香。そんな彼が、“見た目が違う”という理由だけで侮られ、冷遇されることがロビンには腹立たしくてならない。
それでも表に出せば要らぬ波が起きる。直撃を被るのは他でもない立香だ。仕方なく取り繕う愛想は全て彼を思えばこそである。村人に向ける上っ面の笑みの下ではいつも舌を出していた。
だが、今は装う必要がない。昼間の女だって出来るものなら叩き出したかったのだ。ロビンは存分に渋面を作る。
「……もう、そんな顔しないで。折角の優男が台無しだよ?俺は笑ってるロビンの方が好きだな。」
からかうような、窘めるような。どちらともとれる声色で囁きながら、立香はロビンの眉間に出来た渓谷を指先で撫でる。皺をなぞる人差し指は魔法だ。完全な融解、とまではいかなくとも生やした棘が少しは丸くなる。
「……平気だよ。正面切って石を投げられる訳じゃなし。よく知らないものを警戒するのは当たり前のことだ。違う?」
「知らないことと知ろうともしないことは別の話でしょう。連中は後者だと思いますが。」
「手厳しいなあ……」
にべもない返答に苦笑する立香。我がことであるのは彼の方なのに、怒っているのはこちらばかりに見える。それに何だか毒気を削がれて、ロビンは知らず肩に入っていた力が抜けてしまった。
どうしてそんな風にいられるんだろうか。不思議で仕方ない。
けれどだからこそ、その軽やかさを尊く思う。しなやかな強さを貴く思う。───愛おしいと、思う。
「……でもさ、やっぱりどう考えても家に居る俺より、外へ出かけてくロビンの方が危ないんだから。俺のことより自分のことを気にして欲しいな。お願いだから無事に帰ってきてよ?」
そう言って立香は、こてん、と上半身を斜めに傾け窺うように覗き込んだ。口ぶりは軽いが、眼底に透けて見える本音が何かは解読出来る。
それにしても、彼はここ数年で自分の魅せ方を理解したらしい。照明の加減で蒼天の虹彩に星が散る。幾度と眺めては惚れ込みなおす空。この目に見つめられるのに一番弱いのをしっかり悟られている気がした。
「……大丈夫です。オレが何年風来坊やってたと思うんです?ちゃあんと逃げ帰ってきますよ。」
完全に弛緩しそうになる表情筋を何とか持ちこたえて、言語らしい言語を綴る。内容が情けないのはご愛敬だ、立香が笑ってくれるのなら、それだけで。
「……ふふ、そこは倒してくる、とかじゃないんだ?」
「そんなんは兵士の仕事です。オレは単なる猟師で、アンタの夫ですから。守るのは自分の命とアンタだけですよ、立香。」
首を伸ばして、羽帚のような口づけを目蓋の上に贈る。そこにかかってしまった靄を取り払うように。
呪いにもならない気休めだが、幸い効果はあったらしい。芝居めいた台詞がおかしかったのか、皮膚に触れた唇がくすぐったかったのか、何にせよロビンの伴侶はくすくす笑った。
「───そうだね。いつもみたいに、無事で帰ってきて?俺の素敵な駒鳥さん。」
悪戯っぽく吹き込まれるのは、立香が時折使う呼び方。何かの流れで名前の由来を話してから戯れでそう呼ぶようになった。恥ずかしいのか二人きりの時にだけ、彼の唇は小鳥と囀る。他愛ない睦事の一つ。ただ一人にだけ許し、許された愛称。
「……ええ、勿論。アンタとこの家に誓って、必ず。」
裏切りたくない人と、守りたい場所。ロビンにとってかけがえのない二つに嘘は吐かない。
仲睦まじい空気の中、夜は更けていく。身を寄せあって一つになった影を伸ばす洋燈の火が、恥じらうが如くゆらゆらと揺れた。