君の嫉妬は醜くない(水麿) 笑顔ってきっととてもいいものだ。笑えるのは本当に素晴らしいことだ。分かっているのにみっともなく足は止まった。
廊下の先のほうで、畑へ向かう水心子が仲間と笑っている。――そんななんでもない当然のこと。そのくせ熱いスープをひっくり返したようなこの心地はなに。
胸を押さえて、死角に入って、必死に呼吸を繰り返した。ばくばく心臓が暴れている。向かうつもりだったのは彼がいるほうだったのに、清麿は駆けるように踵を返した。
――ねえ、その笑顔は。
***
畑へ着いてからだった、ヘアピンを借りるのを忘れていたと気づいたのは。
近頃、ありがたくも手入れ部屋に世話になることがなかったため、横の髪の毛がだいぶ伸びてしまっていて、俯く仕事ではとても邪魔なのだ。
それをぼやいた昨日、同室の清麿が自身の私物のヘアピンをつけてくれた。髪が留められて垂れてこないことに感動した水心子に、彼は明るく笑って言った。
『明日もこれつけていくといいよ。買いに行けるまでは貸すから』
そんな優しい微笑を面映ゆく思いながら、ありがとうと返したのに。失念して出てしまうなんて、清麿に申し訳ないことをした。
――清麿も気づいてないのかな。ふと疑問に思う、これもまた変なことだけれど。でもあの気の利く彼なら、気がついて届けにでも来てくれそうなものだが――やっぱり一緒に忘れてたのかな。
まあそれならそれで嬉しいと思ってしまうのだから自分も大概だ。清麿が持ってきてくれてもくれなくても嬉しい。盲目だ、本当に。
結局彼は来なかった。水心子は畑仕事を終え廊下を歩む。
清麿は今日非番だったから、もし部屋にいたら誘って午後は街へ出よう。ヘアピンを買うついでという名目で、そんなものよりもよっぽど価値の高いデートをしたい。
うきうきと障子戸を開けた時、中の光景に驚いた。
――清麿が、転がっている。直後微かな寝息が聞こえて、よかった倒れているのではない寝ているのだとほっとしたけれど、それにしても両腕に抱かれた『水心子正秀』の本体は何だ。
彼は大事そうに、それでいて縋るように、水心子の本体の刀を抱いて眠りこけている。どうして、と思いながら近づいた時、彼の目元に涙の跡があることに気づいた。ほのかに赤い。
泣いた? 清麿が? ――水心子のいないところで、水心子の本体を抱きかかえて。
「きよまろ」
肩を揺すった。心が急いて、つい力が籠もった。もしこのまま目を開けなかったらどうしよう。なんて、そんな訳がないのに。
そうして清麿はうっすらと瞼を持ち上げた。その瞬間に残っていた涙がするりと肌を伝い落ちて、どうしようもなく焦ってしまう。
「……すいしんし」
「清麿、どうした? 何かあったのか、どうして僕抱いてるの? 僕のことで何か、あった?」
何だって聞くつもりで問いかけたのに、清麿は数度の瞬きのあと、緩く笑って身体を起こした。笑ったまま、はい、と本体を差し伸べてくる。
「ごめんね、抱いて眠ったら心地よさそうだと思って、勝手に触ってしまった。ごめんね」
「きよまろ」
彼は、にこにこと笑ったまま、それ以上何も言ってこない。何かを隠しているのは明白なのに、彼には言うつもりがないのだ。
――どうして。水心子の顔が歪む。
清麿だって刀剣男士だ、他者の命たる本体に気軽に触れたりする訳がない。ましてや抱いて眠るなんて、深い意味がなければ思いついたってできないだろう。それなのに彼は隠そうとする。偽って、流そうとして。
「なんで? ……僕じゃ、そんなに頼りないの?」
「え? …え、すい」
「そういうことだよ、清麿が隠すっていうのは! 僕は嫌なんだ、清麿のことは全部知りたい、この手に収めたい。そうじゃなきゃおさまらないよ、ねえ僕が、君が本体抱いて寝てるの見て、一番にどう思ったか分かる?」
丸い目をする清麿に詰め寄り、その手を掴んだ。瞳の揺れ方だって、なんだって、僕は君が欲しい。
「――嬉しいって、思ったんだ!」
清麿が呼吸を止めた。啄むように口づける。すぐに離れても、彼の頬を染めるには充分だった。
「ねえ清麿、隠さないで。なんだって聞くし嘲ったり乱暴に扱ったりしないから。ぜんぶだいじにするから……ねえ、どうして僕の本体なんて抱いてたの?」
くしゃ、と彼の顔が歪む。肩にその額が下りてきた。
「……さみしかったから」
寂しい? それは予想外の返答だった。寂しさを感じる理由なんてあったのだろうか。当番が別々で離れることくらいいくらでもあった。それなら、そこに今日は特別な何か?
「水心子……他の刀に、笑っていただろう」
「え?」
そうだっただろうか。いつのことだろう。そう思って、ああやっぱり一度追いかけてきてくれていたのかと思い至った。視線を移せば座卓の上には朝はなかったヘアピン。持ってこようとしてくれたのだ。
「なんとも思っていなかった……笑ってたかな」
こくんと清麿が頷く。無意識だっただけに少し気恥ずかしい。
「駄目だな…新々刀の祖として、もっと厳格に」
「ちがうよ! 悪いことなんかじゃないんだ、君のそれはいいことなんだ、喜ばしいことなんだよ! ……」
そうであるべきなんだよと、彼は呟いてせっかく上げてくれた顔を俯けてしまった。
すぐそこにあるのに、見えない秀麗な顔立ち。なんだか胸が締めつけられる。清麿の手がジャージを握ってきた。
「……喜べない、僕がおかしいんだ」
「清麿……」
「水心子は笑うべきだよ。人の身を得たものとしてそれが一番健全だ。たくさん笑って、喋って……でも、それが、他の人に向くんだって思ったら、……ばかみたいに悲しくて……」
後頭部に手を添えた。震えている。彼が見た自分は、彼にとって本当にショッキングだったのだ。
どんどん下を向く清麿の顔。――意を決して、両手で頬を掴み無理矢理に顎を上げさせた。彼はまた泣いていて、その濡れた瞳に口づけたくて、でもそこは閉ざされてしまった。当たり前なのに惜しいなんて、思いながら、瞼だけではなく彼の顔全体に唇を落としていく。
「す、水心子」
「じゃあ、こうするね」
恐る恐る目を開く清麿が愛しくて、満面で笑んだ。
「清麿の前でしか笑わない」
またその表情が震える。けれど、違うんだ、と続けて頬を撫でてやると窺う視線が向けられた。
「投げやりだったりするんじゃないよ。僕も、そう在りたいんだ。…僕の笑う顔なんて、清麿だけが知っててくれればいいんだから」
清麿に向けて笑えれば、僕はそれで幸せすぎるんだから。
ふるふると振られ始めた清麿の首の動きが、次第に大きくなる。その目から雫が落ちた。
「……いや……いやだよ……、ごめん、やっぱりそんなの駄目。水心子が楽しくても笑うのを我慢してしまうなんて、そんなの嫌だよ……」
ごめんなさい、ごめんなさい。清麿は何度もそう繰り返した。胸が痛くて、きつく抱き締める。
「清麿、あいしてる」
ひく、とその肩が跳ねた。
「……僕が、これを言うのは清麿にだけだよ。清麿たった一人が特別で、だいすきで、愛しくてたまらないんだ。それは絶対に、揺らがないから……ねえ、これを、君のおまもりにできない?」
「おまもり……」
「そう。……君と僕が繋がってる、大丈夫だって証の、お守り」
――愛してるよ、きよまろ。
お守りを、そうしてまた手渡すつもりで、そっと彼の顔を覗き込む。清麿は顔をくしゃくしゃにして、ありがとう、ぼくもだいすき、と伝えてくれた。
こちらに寄りかかり、目元にタオルを押し当てている清麿の髪の毛を梳きながら、少し笑って問いかける。
「清麿、デートしない?」
「でーと、?」
タオルを外して、ぽかんとこちらを向く瞳。審神者の部屋でプリンターのインク交換を悪戦苦闘しながら行った時に知った、マゼンタという色がこの最愛の瞳の色によく似ているのだ。そう思った時は何だか嬉しかった。――清麿の瞳は、マゼンタ。
「畑当番中、ずっと考えてたんだ。午後は僕も休みだし、ヘアピン買わなきゃいけないし……」
そこで少し残念そうな顔をした彼の毛先に口づけると、それにさえ気づいたらしく、清麿はさっと頬を染めた。
「……っていうのは、建前ってやつでさ」
タオルを掴んだ彼の両手を握る。
「清麿が僕だけのものになる時間、過ごさせてほしいんだ」
覗き込んで笑えば、彼の目元がとろり蕩ける。また泣き出してしまいそうだったので、目元へ口づけた。その瞬間、ん、と彼の口から、か細い愛らしい声。
「……」
「……」
至近距離で目を合わせて、じっと見つめ合う。こちらは拗ねたような気持ちだった。
「……そんな可愛い声聞かされちゃうと、とても外出なんてさせられる気分じゃなくなるんだけどな」
「あ、う、ごめん、わざとじゃないんだよ…だって……」
――すいしんしに触れてもらえるの、きもちよくて、つい声が出てしまうんだ。
「――そういうとこだよ!」
「なんで押し倒すんだい! デートは?」
「おうちデート、って便利な言葉を人間は歴史上で編み出してくれてね!」
「だってこれ、おうちデートとかじゃなくって、ただ、するだけ、ん、っあぅ……」