■とびうお / クークー普通の先輩後輩みたいな、七海がそういう感じで思ってくれてたら良いな、なんて、つい先日思ったばかりのことが頭をよぎる。確かに思った、思ったけれど、じゃあ今この息苦しさはなんだろう。
「え?五条さん?」
いつも通り、七海の部屋に玄関からちゃんと来た。いつも通りじゃなかったのは、ドアを開けたのが家主じゃあなかったってところだ。
「猪野くん、じゃあまた今度……」
部屋の奥から言いかけた家主が、あと気が付いた様子で顔を上げた。入り口で立つ五条と、玄関を開ける猪野と、廊下から二人を見る七海。一同少し固まって、そうして一番最初に口を開いたのは自分だった。
「帰った方がいい?」
「は?」
「えっなんでですか!」
この部屋で誰かと出くわすことを考えていなくて、動揺する。頭が上手く回らない。いや、そうだよな別に誰かがいたって、帰ることないよなとようやく脳細胞が動き出した頃、猪野がドアを開けたままなことに気が付く。
「入ってください」
奥から七海の声がする。どうぞ〜と朗らかに猪野が誘導するままに玄関に入って、なんでこんなに動揺しているのかわからずに五条は黙ったまま靴を脱ぐ。今日ばかりは脱ぐのが面倒なブーツで良かった。ファスナーを下げながらどうしたら良いのか考える。
そもそもだ、五条は人の家に行ったことがなかった。いやあるにはあるけれど、用事があってとか仕事でとかではなくて、遊びに行ったことがなかった。今ここに来ているのはまた今日も「今日も魚料理です」とか連絡が来たからで、多分、きっと、五条的にはだけれど、遊びに来た判定で良いと思っている。
仲の良い後輩の家に、ごはんを食べに来たらその更に後輩も家に居た。
それだけのことに、どうしてこんなに動揺しているのか。二人だけだと思ったから、とか、そもそも七海の部屋で他の誰かの気配を感じたことがなかったからだとか、そうだ『私はあまり部屋に人を招いたりはしません』じゃなかったっけ!?とかぐるぐる回る思考はいつものようにスッキリ結論を弾き出したりしない。三人で一緒に食べれば良いだけじゃん。簡単なのに。
「琢真も七海のごはん食べに来たんだ?」
ようやくブーツを脱いで顔を上げる。猪野はへ?と力の抜けた声を出す。
「俺は任務帰りにお手伝いに来ただけですよ」
「おてつだい」
「も〜大変だったんですよ〜昨日の任務!」
「その辺りにして、ほら」
続くかと思った内容は七海が差し出したもので遮られる。発泡スチロールの入れ物。なんとなく、海のような匂い。
「あっ魚」
「そ〜なんですよ五条さんも見ます!?えげつない量の、」
「……サンマじゃないよね?」
目が合う魚とにらめっこしたのはつい先日だ。衝撃のビジュアルの海苔巻きは、しばらく忘れられそうにない。確かにおいしかったけれど、この短期間で再会するには少し五条のこころの傷が癒えていない。
「猪野くん、この人にはそれ以上言わないで」
「えっなんでですか」
なんで、の心の声が出てしまったかと思った。猪野だった。
「この後処理してもらうので」
「あっクイズですか?かわいいですね」
「何がですか」
えっなにが?という心の声もまた出ていなかった。七海だった。
ところでなぜ自分がこんなにもことばを飲み込んでいるのか、五条にもわからない。ともかく目の前を通り過ぎるやり取りをただ眺めて、でかい発泡スチロールの入れ物を抱えた猪野が元気よく去って行くのを見送った。
「疲れましたか」
えと振り返る。七海がこちらを見ていた。手にはなにかいいにおいのするカップがある。差し出されるのを手に取って、いつものようにソファへ。カップの中は白い。たぶんホットミルクとかだと思う。ありがとうと手に取ると、陶器のマグカップ越しに、温かいそれがどうにも沁みる。風が冷たくなってきたよね、もう秋だしなどと思考を逃しながら、湯気の出るそれをひと口含む。思ったのと全然違ってびっくりして勢いよく七海を見る。
「なにこれ!?」
「黒糖きなこホットミルク、のようなものです」
あんまりこういうの飲んだことなかったなあと続けて口に入れる。胃から温かくなって、少し落ち着く。五条の足元に座り込んだ七海は、じとこちらを見ている。
「おいしいですか」
「うん」
これこの前の黒糖だよななどと思いながら飲んでいると、七海はなにか考えるように口元に手を当てている。
「なに?」
すっかり飲み終えても、七海は五条の目の前から動かない。いえと微妙な返事をする七海の、この空気には覚えがあって、まずいなと思う前に、美しい深緑が見たことのない温度に揺れる。立ち上がる七海から距離を取ろうとするけれど、ソファに座っている五条には避ける場所もない。背もたれに目一杯背を付けて、「ななみ、」と一応呼んでみる。こういう時、返事しないんだよなあ。
「近い」
「あなたに言われたくない」
もう少しで前髪がくっつきそう、くらいの距離で、黙っているのもなんなので抗議の意味を込めて言ってみる。七海はなんでもない風に返事をした後、ふと笑った。えっなに今の顔初めて見る感じ、と思うのと同時くらいに顔を逸らされる。心臓はここしばらくの間で一等速く動いている。もう夏も終わったのに、嘘みたいに顔が熱い。なんだろう、さっきまでのもやもやはすっかり吹き飛んで、同じように息が苦しいのに、嫌な感じはしない。
しかしこれは七海に知られて良いものなんだろうか。わからなくて、空になったカップを五条の手から取り上げる時に、すると手の甲を撫でていった七海の指先の理由を問えないまま「そこで待っていてください」を素直にきいてしまった。
魚料理と言われて先日の海苔巻きがどうしても脳裏を過る五条を見事に裏切って、ダイニングテーブルに置かれたのは至って普通の見た目の、魚の入ったなんらかの煮込み料理だった。
「おいしそう」
「そうですか」
向かいに座って頬杖をつく七海は、やっぱりいつもと違って見える。なんかあの、面白い圧力みたいなのはすっかり引っ込んでいる。
「何の魚かわかりますか」
「……昨日までどこの任務行ってたって?」
「九州一周お祓いツアーに」
「おまえ語彙が僕に寄ってきてない?」
「前からこんなもんですよ」
そうかなあと箸で摘んだ魚は、生きてた頃もたぶんそんなに大きくない。見た目全く普通の料理なので、躊躇わず口に入れられる。おいしい。わりともちもち……?揚げてあるみたいで、煮込みじゃなくてスープをかけてあるようだった。トマトっぽいスープでいい感じに味が付いている。クイズにするくらいだから、アジとかではなさそう。九州だと色々あるけど、時期が微妙だ。
「イタリア……?」
一緒に煮込まれてる黄色い物体がなんか見たことある気がする。ポレンタかと思えば違うらしい。
「残念。もっと南です」
トウモロコシ系のブツは何物かわかりそうもなかったので、やっぱり魚から攻めるしかない。
「六眼で見ても良いですよ」
「わかるかよ」
そもそもそういう使い方しないからなとは言っても、なんとなくサングラスを外してみる。
「うーん時期がなあ」
「本当はもっと暑い時期のもののようですよ」
「…………トビウオ?」
「はは、あなた、本当なんなんですか」
まさかの正解を引き当てて、七海はおかしそうに笑う。そう、笑うところ、よく見るようになった。
「バルバドスの料理らしいです」
向かいからフォークが伸びてくる。トビウオに刺さって、大きなひと口でお魚は七海に吸い込まれた。
「季節的にはもう終わりですが、珍しく獲れたとかで、いただいたんですよ」
「捌いたの?」
「胸ビレが大きいだけで、あとは普通ですから」
「見たかったな〜」
「地方によっては普通に売っているようですし、また機会もありますよ」
トビウオじゃなくって、七海が魚捌いてるところの話なんだけど、まあ、伝わらなくても良いかと思う。どっちにしろ、なんか見せてくれそうな返事だし。
「ストレス発散された?」
かちと目を合わせる。呪力も凪いでいるし、表情も穏やかだ。良かったと思って、にこと笑う。
「もうあんまり、そういう風には思っていないかもしれないです」
「僕と一緒にごはん食べるのが楽しくて?」
もちろん、いつもの軽口だ。本気で思っている訳じゃあない。それなのに七海は、何度か瞬きをしてああとなにか納得する。
「あなたになにか食べさせるのが、一緒に食事をするのが、楽しいのかもしれません」
ふと笑う顔はさっきすぐ隠されたそれだった。初めて見るやわらかい表情やなにか温度の高い目に、五条はこの日何度目かのことばを飲み込んだ。なにも言えなくて速くなる鼓動を数える。「今度はあなたの好きなものを作りましょうか」と伸ばされる指先は、今度こそ五条に届いた。無下限は七海を弾かない。それはつまり、そういうことなのだ。
「五条さん、次はなにが食べたいですか?」
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つづく!