髪を切ったから、もしかしたら気付かないかもしれないと思ったそうだ。後から聞いた話である。
それは、夏だったからなのか高専の頃と比べてのことなのかはわからなかったけれど、最後に見た頃よりも随分大人びた表情と、確かに短く整えられた髪と、落ち着いた声で七海はそう言った。
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諸々の事務手続きを終えて、あとは書類を手渡すだけだ。七海が呪術師に戻ることになり、伊地知は少なからず興奮していた。ひとつ上の先輩は、学生時代から慕っている、頼りになる人だ。この界隈では珍しい、常識ある話の通じる術師である。日頃担当することが多い、話の通じない人ナンバーワンの顔を思い浮かべながら、少し苦笑いをする。そのナンバーワン、五条悟に学生時代から向かっていけた数少ない後輩が、七海建人その人であることも、また伊地知を少し楽しい気持ちにさせた。
自分の仕事がそれで楽になるなどとは思っていないが、それでも七海が戻ってくるとわかってから、どうにも五条の機嫌が良い。任務以外でのやり取りがどうか少しでも穏やかになれば良いなと、それでも矢張り少しの期待をして、七海の待つ応接間のドアに手を掛ける。
「なあ、熱い」
引き戸を開ける寸前で、驚いて手を止めた。部屋の中から聞こえてきた声。なんてことないことばなのに、聞いたことのない甘さを含んだその声色が、伊地知を立ち止まらせる。五条の声だった。
そもそもここにはひと通りの手続きを終えた七海しかいなかったはずだ。五条は今日他県での任務に行っていたはず。どういうことだろうと考える間に、ため息が聞こえる。
「脱がせて」
「わがままなところは変わりませんね」
「どっちが?おまえが僕を甘やかすのが好きなんだろ」
「まあ、否定はしません」
なにやら聞いてはいけない内容の気がして、回れ右をしようかと一歩下がる。部屋の中からはギッとおそらくソファが軋む音がして焦る。なにをしているんだろう。いや、ただ座っただけだとは思う、思うけれど、二人の会話の空気感が、どうにも、おかしいような気がする。
「ここ、どうなってるんですか?」
はあと、熱いため息が聞こえる。本当になにをしているんだろう。いや、でも相手は七海なのだ。昔から落ち着いていたけれど、更に大人になったはずの七海なのだ。なんらかの間違いなどあるはずもない。
「こんな色でしたっけ」
「そんな近くで見たことねえだろ」
「じゃあもっと見せて」
「んっ……な、もうちょっと優しく、」
「失礼します!!」
耐えきれずドアを勢いよく開ける。部屋の中では案の定、七海と五条がひっついていた。正しくは、ソファに座った七海の膝の上に五条が向かい合わせで座っていた。七海の右手には、絡んだ包帯が握られている。左手は五条の目元を撫でて、隠されていない青い空の色がひとつ瞬きをする。
「ほら、伊地知くんが来ましたから、離れて」
「別にいいだろ、見られたって」
「まあ、それは構わないんですけど」
する、と五条の頬を七海の手の甲が撫でて近かった顔を離す。あ、構わないんだ…という謎の感慨を振り切る。なぜならこれは茶番なのだ。おそらく。
「悪ふざけがバレているという話です」
「あっそうなの?」
ころっと空気を変えて、五条は七海の膝から降りると、こちらに近寄ってきた。
ややのけぞりながら、はあと返事をする。
「ふうん」
六眼で覗き込まれるのは、少し緊張する。宝石のように美しいそれは、ぎらと一瞬色を変える。それからいつものようににやと笑って、さすが伊地知だねえと七海の方へ戻って行く。七海の手から包帯を取り上げる。絡む二人の指先が妙に色っぽく見えるのは、さっきまでの茶番を聞かされていたせいだ。七海はその指先を目で追って、しかしなにも言わないでいる。
「髪がさあ〜伸びちゃって、後ろのとこ」
「はあ、」
「包帯が引っ掛かるから、七海みたいに切りたいなって話」
さー帰ろ、髪切りに行こ、と部屋を出て行く五条は、伊地知の横まで来て七海を振り返る。
「またね」
「けっこうです」
「照れるなよ」
「どっちが」
はは!と五条が声を上げて、部屋を出て行く。
その表情を見て、伊地知はいつかの夏を思い出していた。五条はひとりきりで、夏油や七海や、灰原たちがいる方を見ていた。サングラスの隙間から目を細めて眩しそうに、そうして彼らに声もかけずに、しばらくそうしていた。なにを思っていたのか、伊地知にはわかるわけもない。もう随分昔の話だ。
◯
「あの人は、ずっとああなんですか」
足音がしなくなってから、七海はようやく口を開いた。どれを指すのか心当たりがあり過ぎて、ええと曖昧な返事をする。
「そうですか」
七海は表情を変えないでそう言った。
どうかたくさんのものを背負っている五条がひとときでも楽しく、心安く、過ごせることが、過ごせる人がいるといいと、伊地知は思う。七海がやって来たなら、あるいは、とも。
「髪を切ったから、もしかしたら気付かないかもしれないと思ったんです」
「え?」
「あの人、高専の前で待っていたんですよ」
かわいいでしょうとこちらを見て、七海が笑った。どきりとするような大人びた色気のある顔を見ながら、なんだか気の遠のくような気持ちがした。そうして先程の茶番はどこまでが遊びだったのだろうかと、伊地知はそのことを考えている。