■パトゥルジャン・サラタスしくじったかもしれない、と珍しくも五条は自分の行いを振り返る。部屋に響き渡るのは斬撃の音で、それはキッチンからして良い音とはどうしても思えない。ソファで寛いていてください、と有無を言わせぬ微笑みでキッチンから追い出されて早二十分。
「ね、なにしてるの……?」
「料理です」
大人しく身を置いていたリビングのソファからキッチンを振り返って恐々尋ねるが、斬撃の音が大きくて微かにしか聞こえない。調理中の音とはどうしても思えないし、右手の動きが速すぎて、五条なら追えるが普通の人が見たらどうだろう。
七海の部屋は、己の体格に合わせて天井や扉や、浴室まで大きいものを選んでいたが、キッチンも例外ではなかった。
使用頻度には見合わない広々としたアイランドキッチンが、真面目に使用されているところを五条は見たことがない。先日侵入した時など、キッチンで立ったままハイボール片手に魚を焼いていた。あんまりだと思ったし、それはそのまま口に出ていた。盛大に煽った。
「今日来ますか、手ぶらでどうぞ」と短いメッセージは、いいから早く来いという圧すら感じた。広いキッチンを揶揄したことを根に持った以外なにがあるだろう。
それであるからして、この状況は五条がしくじった以外考え難かった。趣味特技が自炊の男は、別段凝った料理をするような生活をしていなかったはずだ。知らない数年の間もそれは変わらなかったと推察していたが、今は五条の読みが外れたのだという僅かな希望に縋りたい。
「ストレス発散に料理がしたい」などと言い出すのだから、きっと出てくるのは真っ当な料理のはずだ。きっと、多分、いや七海だぞ、絶対に。
それにしてもこの状況はと考え込んでいる間に、不穏な物音が鳴り止んでいた。はっとしてキッチンを振り返る。皿を持った七海が近寄ってくるのに思わず息を呑む。
「七海、」
返事をしないまま、七海はソファ前のローテーブルにドン、と皿を置く。皿を置くのに大きな音をたてるなんてらしくない真似、やはりキレてると見上げた表情は、特に怒りに染まってもいなかった。あれ、と思う。そうしてふと下ろした視線の先にあるものに、五条は声を上げなかった自分を褒めたいと思った。らしくないなんて思った所作は、その重量によるものだった。
大きい皿いっぱいのなにかがある。白いなにか。何かというのは、見た目からはこれが何なのかわからないからだ。
「あの、これ、なに?」
「料理です」
再三繰り返されるそれは最早嫌がらせなのではと思えて仕方ない。白っぽいペースト状のものを前に二の句を継げないでいると、ああと七海は声を上げてキッチンへ向かう。そうして戻って来ると、五条が固まったままなのを気にも留めずにバケットを差し出してくる。一本。勿論切られてなんかいない。自棄になっているのがひしひしと伝わる。
「ななみ、」
「どうぞ」
「……はい」
どうしてか苦情は音に出来ずに、差し出されたバケットを受け取る。戸惑いと、好奇心と、あと少しの気持ちのせいでもある。
七海が向かいに座った。エプロンをしたまま、ラグの上で胡座をかいて片膝を立て、手にはビールの缶がある。目が据わっているのでなんというかガラが悪い。ひとつも食べる気はなさそうに五条の様子をじっと見ている。これ全部、自分が食べることになるんだろうか。
過ぎる不安を誤魔化すように、五条は七海を見遣る。サングラスのない、家用の七海だ。エプロン姿は多分初めてで、黒のそれがよく似合っていた。普段と違う白の柔らかそうなシャツは袖が捲られて、筋肉質の太い腕が見えている。
レアな光景を目に焼き付けようとしているのがバレているのか、いないのか、七海は五条が料理を口にするまで動く気がないようだった。視線が口元に固定されている。どうにも居心地が悪くて、五条は慌ててバケットに手を伸ばす。
おそらくこう食べる、の予測の元ちぎったバケットに、大きい皿に添えられていたスプーンで謎のペーストを載せる。
意を決して口に運ぶ瞬間に燻したような香りの隙間に知った野菜の姿が見えた気がした。あれと思う間もなく舌の上にはなんとも言えない食感と、酸味と、ああ、これはあれだ。
「茄子……!」
「他には」
「ヨーグルト…?」
「正解です」
「ねえこれなに?」
「パトゥルジャン・サラタスです」
「ああ、トルコの」
ご存じでしたかと、なんでもないように五条の手からバケットを取り上げて、ちぎる。食べるんだ、と少し安心する。しかしもう立ち上がって皿を持ってきたりするのも嫌なようだ。
「腱鞘炎になりそうですよ」
「なるかよその腕が」
普段とは使い方が違いますからとしれっとした顔で、スプーンでペーストをすくって載せる。大きな口はたちまちパンを吸い込んだ。
「刻み方があまかったですかね」
あれ以上斬撃を続けたらキッチンが壊れるんじゃねえのとは、思っても口に出さない。五条にだって読める空気はある。
「この前の任務、高知だったっけ」
等級こそ大したことがなかったものの、量は多いし泥まみれになって、うんざりして戻ると地元の有力者から大層感謝された上に強めに押し付けられた贈り物が、この料理の元になった大量の茄子だったそうだ。あの有名なビスケットでもくれた方がまだ良かった気がする。高専でも可能な限り配って、それでも余ったものを持ち帰って、そうしてレシピ検索したそうだ。ストレスの発散が出来そうなメニュー。正直最後のあたりが五条にはよくわからない。
「泥まみれになったんです、呪霊もそんな感じの、ドロドロしたやつで」
「うん」
「そうして戻ってみたら、クソみたいなやつから贈り物だなんだと」
「うんうん」
「なんだか腹が立って、それで」
「それでもおいしく作るのがおまえだよな」
「理不尽に苛つかれた上に不味くされては茄子も浮かばれませんからね」
なんだそれはと思ったが、これも五条は飲み込んだ。代わりに出来るだけ優しい声で労うことにする。
「おつかれ様」
でかい男が二人、座り込んで、バケットを交互にちぎりながら異国のサラダを食べている。奇妙な図だ。どう見ても可笑しい。けれど五条は愉快な気分だった。奇行も弱みも、もっと見せてくれても良いと思った。
なにより五条の気分を良くしたのは、部屋を訪れるのは初めてではなかったけれど、招かれたのはこれが初めてだったからだ。
「また何か作ってよ」
にこと笑ってそう言うと、七海は奇妙な顔をして、それから少し笑った。
「あなた、変わってますよね」