キッチン騒動 妖精の集落の空は東京の青空に似ていたのだなと、空を見上げる少年は今更ながらにそう思うのであった。
「少年、すまない」
普段より沈んだ静かな声。少年が視線を頭上からちらりと横に向けると、同じくこちらに視線を向けていた黄金の双眸と視線がかち合う。
「謝らないでよ。誰にだって得手不得手ってあるものさ」
「だが……」
視線を逸らし、再び俯いてしまう青色の後頭部を視界に収めた少年は、ぴったりとくっついていた背中を勿体なく思いつつ離し、隣にしゃがみ込んでいる半身の背中へと両手を伸ばした。遠慮の無い背後からの抱きつきであったが、白銀の体躯が揺れることはない。
「邪魔しないのが一番だよ。俺達は美味しいものが出来上がるまで、ここで大人しくしてよう?」
――事は、数時間前に遡る。
「オイラのオムレツの方が美味しい!」
「オイラの方がもっと美味しい!」
「もっともーっと!オイラの方が!」
「ずっとずーっと!オイラの方が!」
ベテル日本支部の一角にて響き渡る二対の羽音。聞き慣れた声音と羽音に何事かと読書に耽っていた少年が視線を上げると、二体のアイトワラスが睨み合いをしていた。片方は間違いなく、少年の膝上に頭を乗せて昼寝をしていた筈の悪魔だ。もう一体はと云えば――。
「太宰、何してるの?」
二体のアイトワラスの間でオロオロしている金髪の同級生の姿。それが、答えであった。
「同じ種族の悪魔同士だったら、友達になれるんじゃないかと思ったんだけど」
「対抗意識が芽生えちゃったかー……」
嘴が今にもぶつかりそうな距離で言い合う悪魔達の姿は少年にとっては癒やしでしかなかったのだが、当の本人達は真剣な様子である。
「あー……」
宥めて丸く収めるのも気が引けると少年が口を噤むと、太宰がぽつりと呟いた。
「ふたりとも、気合い十分なんだ」
「だな」
「自分のやりたいことがはっきりしてるんだから、水を差したくないんだよ」
「太宰」
「?」
「分かる」
どうやら隣に立つ太宰も同意見のようで、彼らは揃って頭を抱えることになるのであった。
「君達、一体何をしているんだい?」
伸び続けていく「ずっとずっとずっと」と「もっともっともっと」の言い合いと、揃って悩む同級生達の姿に思わず声を掛けてしまったのはもう一人の同級生の敦田である。そして、彼の登場がこの状況を進展させるのであった。
「だったら、素直に対決をさせてあげたらどうだ?」
「対決って……。料理対決を?」
「そんな場所、どこにあるんだよ」
「どこって」
至ってシンプルな敦田の提案。太宰と少年が異口同音に疑問を呈すと、敦田は不思議そうな顔をしながら床を指さすのであった。
「日本支部に」
***
豪華ではないが、必要な物は全て揃っているキッチン。少し前までは外回りの人達も良く立ち寄り、学食のように食事が提供されていたのだと、ここ暫く使われた様子がない水場を確認しながら敦田が説明をする。
「使って良いのか?」
「長官に許可を取ったから大丈夫さ」
「敦田、越水さんの連絡先を知ってるのか?」
「これでも数少ない戦闘員だからね。もしもの時の為にって、この間教えて貰ったよ」
違和感も疑問も一切抱いていない様子の敦田からの回答。備品の数を調べる為にと先にキッチンへ足を踏み込む同級生の背中を見つつ、俺は知らない、と小さな声で呟く太宰に対して少年も小さく頷き返す。それから、メンテナンスが終了して合流したアオガミを少年はちらりと見上げるのであった。
『長官への連絡は私にも可能だ。だが、長官は先ほどメンテナンスが終わった際、支部で支給されている端末ではなく懐に入っていた個人用の携帯端末を確認していた』
『……なるほど』
越水による敦田への手厚さへの疑惑を積み上げつつ、一度思考からはじき出して少年もキッチンの中を一通り確認するのであった。広々としたキッチンの片隅では、二匹のアイトワラス達が既にフライパンの選定に入っている。
「この広さなら、アイトワラス達だけじゃなくて俺達も作れそうだな」
己の仲魔の隣でフライパンを手に取った太宰がそう呟いた瞬間、即座に反応したのがアイトワラス達である。
「それ、良いな!オイラ、サマナーの兄さんのオムレツも食べてみたい!」
「えぇ!?俺!?」
「いいだろ、いいだろ?」
太宰の目前にある水道の上に器用に止まったアイトワラスは、目を輝かせながら己の契約者を見上げる。うっ、と呻いてしまった太宰には最早否定する事は出来ず。
「……兄さん達も?」
同じく、仲魔からの視線に少年は頷くしか出来なかったのである。
「でも俺、料理なんて」
料理と表現出来るのはせいぜい卵焼きと目玉焼きくらいの少年が戸惑うと、隣に立つアオガミが少年の肩を優しく叩くのであった。
「少年、私がサポートしよう」
少年が見上げる先にある揺らぎ無い金色の双眸。
――アオガミがいるなら、大丈夫。
己の半身に絶対の信頼を寄せている少年はほっと息を吐き出すのであった。
***
「私は、料理が出来ないとは」
背後から伸ばされた少年の腕に手を伸ばし掛け、だが触れる事が出来ずに再び視線を落とすアオガミ。事実である以上、先ほど以上の慰めの言葉が即座に思い浮かばずに少年はアオガミの頭を撫でるのであった。
アイトワラス同士のオムレツ合戦の予定がオムレツの試食会となり、ついでとばかりに敦田や騒ぎを聞きつけて足を運んできたタオまで巻き込まれた最中の出来事である。
キッチンに轟く轟音と、慌てて消化する少年の仲魔達の姿。
何事かとやってきた越水の視線に映ったのはエプロンを纏う少年達と悪魔と神造魔人の姿と――哀れにも爆発し、吹き飛んで黒焦げと化した電子レンジの姿であった。
「誰が」
どうやって、と言葉少なく問いかける越水。
「えっと」
躊躇うタオの声と同時に、その場にいる少年以外の視線がアオガミへと向けられた。正しく、原因はアオガミにあったのだから。
「使い方を間違ったんじゃなくて、アオガミとあの電子レンジの波長が悪かっただけだったろう?」
原因はアオガミ自身の解析によって即座に判明したものの、明らかに気落ちしてしまった半身をその場に居続けさせる訳にはいかず、少年はエプロンを着用したままでアオガミを連れて屋上へと駆け込んだのである。外の空気を吸って、少しでも気分転換をして欲しいと。しかし、少年の思惑通りに事は運ばず、アオガミは自責をつらつらと積み重ね続ける。
「だが、私はまな板も複数駄目にしてしまっていた」
「う……」
「卵を割る力加減も出来ず、いくつかの卵を駄目にしてしまった」
「ええと……」
美しい切断面が生まれたまな板と、卵の殻まみれになってしまった黄身と白身の光景と、続けて爆発した電子レンジを思い浮かべて少年は再び口を噤んでしまう。下手な慰めは、一層彼を傷つけると。
「アオガミ、そんなに料理をしてみたかったの?」
故に、少年は直球に尋ねて見ることにした。どうしてそこまで落ち込むのかと。
確かにアオガミは幾つも失敗をしてしまったが、学習能力の高い彼ならば難なく乗り越えられるだろう障害だ。それに対する落ち込みようが少年の想定外だったのである。
「……私は」
アオガミの視線は未だ、少年へとは向けられない。
「私は、君達との……いや」
しかし、先ほどまで触れられなかったアオガミの白銀の指先が、少年の腕へと触れる。
「君と共にする体験を自分が台無しにしてしまったのが、酷く情けない」
アイトワラス達にも申し訳ない、と言葉が続くが少年の耳には最早届いていなかった。
――要するに、だ。
アオガミは落ち込んでいる。だが、彼が吐露している感情は正確には落ち込みではない。拗ね、である。少年との時間を満足に過ごせなかった現実に対する、拗ねだ。
「アオガミ」
「少年?」
わなわなと、小さく震える少年の声と腕。何事かとアオガミが座り込んだまま後ろにいる少年の様子を確認しようとした瞬間。
再び勢いよく、少年がアオガミへと抱きつく。今度は真正面から。
驚きに体勢を僅かに崩すアオガミであるが、やはりその体躯が倒れ込むことはない。少年の唐突な挙動に慌てるアオガミに対して、少年は満面の笑みを向ける。
「アオガミ」
再び半身の首元へと両手を回し、少年は一層彼との距離を縮めた。
「今度さ、一緒にアイトワラスに料理を教えて貰おうよ。それで、今度は俺達も混じってオムレツ対決をしよう」
「だが……」
「大丈夫。俺も全然料理できないから、一緒に成長しよう」
少年にとって、人付き合いとは煩わしいものであった。
アオガミと出逢う前の彼であったのならば、アイトワラス達を諫めて事を終えて居ただろう。
だが、今は違う。
人であろうと、悪魔であろうと、その狭間の存在であろうとも。
誰かと会話を交わし、同じ時間を過ごして、成長していく。その日々が楽しくて仕方ないのだ。
「アオガミ」
――アオガミがいるからこそ。
「……そうだな」
少年の意図がどこまで伝わったのかは分からない。だが、己の背中に回された腕の感覚に少年はほっと息を吐き出すのであった。ここは、何よりも安心できる場所なのだから。
「あのー……」
「サマナーの兄さん、空気が読めてないぞ」
「だって、このままじゃ冷えちまうだろ?」
しかし、その時間もあっという間に終わってしまった。
何事かと少年が背後を振り返ると、屋上へと繋がるドアの向こうから顔を覗かせている太宰と、彼の頭を突いているアイトワラスの姿が視界に入る。
「悪い!邪魔したかった訳じゃねぇんだけど」
「皆のオムレツが出来たから、呼びに来た!」
ドアの向こうから現れたもう一匹の悪魔。少年の仲魔のアイトワラスが彼らの傍に降り立つと、にっこりとした笑顔を向けるのであった。
「兄さん達のオムレツも楽しみにしてるからな!」
それまでには自分ももっと腕を磨くぞ、と胸を張るアイトワラスをアオガミと少年は同時に見つめ、それから再び視線を合わせてうなずき合うのであった。
「じゃあ、その為にもアイトワラス達の味を知らないとね」
まず先に少年が立ち上がり、アオガミへと手を伸ばす。
「私も、しっかりとネットの情報や書籍を確認しておこう」
躊躇うことなく、アオガミは少年の手を握り返すのであった。
***
尚、後日。
再びアオガミのメンテナンス中、休憩室でアイトワラスを膝に乗せて読書を嗜む少年の耳が拾った研究員達の会話曰く。
――ベテル日本支部内に設置されている電子レンジが一斉に新品に入れ替わった。
――そんな予算がどこから降りたのだろうか。
――そういえば、長官が端末で電子レンジのカタログを確認していたような。
――流石に見間違いだろう。
「……あの人、甘いよなぁ」
ぱたん、と文庫本を閉ざしながら少年は未だ夢の中にいるアイトワラスの頭を一撫でするのであった。
メンテナンスが終わるまで、あと五分。