Storm「俺は、結構好きだ」
ヒュンケルは呟いて、ラーハルトの頭頂部に鼻を埋めた。
埃っぽい山小屋の寝台で。
酢漬けのニシンみたいに、二人ぴったりとくっついて。
蒼い額に皺が寄る。
「雷が?」
と、ラーハルトは絞り出すように言って、シーツをたくし上げた。
「そう」
ヒュンケルは彼の長い耳を覆うように腕を回すと、ぷあ、とあくびをした。
嵐の夜は、いつもこうだ。
ラーハルトは三度目の雷鳴で、必ず相棒のベッドに忍び込んでくる。慣れたもので、ヒュンケルは何も言わずに、大きな猫を抱きしめる。
互いの過去、心の傷については、過剰に踏み込まない。
旅を続けるうちに出来上がった、暗黙のルールだった。
子供特有の、水蜜桃みたいに柔らかな精神。
そこに振り下ろされたつるはしの残酷さを、二人ともよく知っているから。
「なぜ雷が苦手なんだ」
珍しく、ヒュンケルが禁忌を破った。
ラーハルトは鬱陶しそうに相棒を見上げ、また目を伏せた。
「今更それを聞くのか」
「聞きたいからだ、今」
天下の陸戦騎が、ここまでの醜態を晒しているのだ。ヒュンケルにも知る権利はある、と、ラーハルトは自嘲する。
稲妻が二度光るのを待って。
「あの日の夜も、雷雨だった」
ぼそりと言った。
「母が死んだ」
ヒュンケルは瞬きもせず、窓を打つ雨を見つめている。
胸に抱いたラーハルトの小麦色の髪を、一定のリズムで梳きながら。
「街まで、助けを呼びに走ったんだ」
ヒュンケルには聞こえない遠雷を拾って、ラーハルトの耳が少し揺れた。
「針のような雨を嫌って、あらゆる扉が閉ざされていた。ただでさえ人間たちから弾かれていた醜い子供の懇願は、轟音に飲み込まれた」
己の叫びも、鳴り止まぬ嵐も、全てがうるさかった。
悪魔の花嫁、悪魔の子。裏切り者、魔王の手先め。
人々だけでなく、母なる自然、天も地もすべからく、自分たち親子を責めたて、否定している。
味方は誰もいなかった。
「思い出すたびに、イライラする」
小声で吐き捨て、額を相手の胸に擦り付けると、しばし黙った。
滑稽だ。
恋人の腕の中で震えているくせに。
もう取り繕う余地もないのに、素直に助けを求められない。
「そうか」
意外にも、あっさりとした返事。
「てっきり、自分より速いからか、と思っていた」
ラーハルトは、ぶふ、と吹き出した。
「まともな慰めはないのか」
眼前に浮かぶ鎖骨を少し噛むと、銀髪の相棒はくすりと笑った。
「言っておくが、俺は貴様とは違うぞ、ヒュンケル。雷より速い」
「へえ」
「鎧の魔槍は魔力をはじくが、雷撃には弱い。それを知ったバラン様から、特訓を受けたからな」
「それを言うなら、俺はバランとダイの竜魔人親子から雷撃を食らったことのある、恐らく唯一の人間だぞ」
ヒュンケルの珍妙な対抗は無視して、ラーハルトが続ける。
「ついには、バラン様の極大電撃呪文を全てかわし切った。本気の攻撃だった。俺を思えばこその修行、我が生涯の誇りだ」
ヒュンケルはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「無駄だったな」
「なんだと」
「ロン・ベルクが魔槍を絶縁加工してくれたから」
ラーハルトは丸まっていた背を伸ばし、相棒ににじり寄った。
「なんだと?」
「色々あって」
「聞いていない」
「だからこそ、バランに無刀陣を仕掛けられたんじゃないか」
「貴様、そういう重要な上方修正をなぜ黙っていた」
「聞かれなかったから」
「クソ」
はかったようなタイミングで、ひときわ耳障りな雷が落ちた。
近い。
無言で首をすくめるラーハルトをふんわり抱いて、ヒュンケルはまた窓に目をやる。次の雷光が空を切り裂き、山脈の輪郭をあぶりだす。
「なぜ」
と、ラーハルトはしゃがれた声で言う。
「一応聞いてやる。なぜ、雷鳴が好きなんだ」
ふむ、とヒュンケルは天井に視線を移す。
「お前は速い、ラーハルト。だがバランの雷を避けることができたのは、彼が真剣にお前を狙っていたからだ」
訝し気に見上げると、ヒュンケルが小首をかしげて見返した。
「本当の雷は、そうじゃない。彼らは、分け隔てなく全てを破壊する。人間も魔物も、魔族も竜も。神の意志も生物の祈りも通用しない。ただ、選んだ者の肩口から足先へと走り抜け」
人差し指で、ラーハルトの首筋に触れる。
「心臓の回路をめちゃめちゃにして、二度と動かない玩具に換えてしまう」
するりと撫でおろし、左胸をなぞる。
「即死だ」
金色と紫色の視線がぶつかったまま、数秒動かなかった。
「いつか、俺を選んでくれるのかもしれない。そんな風に雨雲を見上げるのが、好きだったんだ。なんとなく」
沈黙を彩るように、ごうん、と風が鳴いた。どこかで何かが壊れた音。
ややあって、
「……貴様はどこまで楽観的なんだ」
と、ラーハルトが低い声で囁いた。
「選ばれるのはきっと、お前じゃない。俺だけかもしれない」
ヒュンケルは目を見開いて硬直し、しばし考えた。
予測したこともなかった、その光景について。
「そうか」
ヒュンケルは微笑して、ぎゅう、と恋人の頭蓋を締め上げた。
「そうだ。俺はなんて愚かだったのだろう」
あれほど騒がしかった空が、急速に音を失っていく。
窓を叩いていた非難と断罪の雨粒が、いつしか柔和な子守歌に変わる。
嵐の終わり。
「なあ」
最後の稲妻を見届けてから、ヒュンケルが弾んだ声で言った。
世界の真理を見たかのように。
「こうしていれば、選ばれるときにも一緒だな」
あたりはすっかり静かになり、月明かりが眩しいくらいだ。
ひっついている理由もなくなったラーハルトが、憮然として相棒を押しのける。
「御免だ。俺は全力で逃げる。ひとりで死ね」
「ひどくないか」
「貴様の詩的感傷に付き合っていたら共倒れだ」
「薄情者」
さっさと自分のベッドに戻るラーハルトに、ヒュンケルが全体重で飛び乗った。
「ぐえ」
「まだ雨が残ってる。チャンスはある、お前も道連れだラーハルト」
「やかましい。さっさと寝ろ」
「さっきまでひとの安眠妨害しておいて」
「うる……さい、くくく」
「笑ってるじゃないか」
何もかもどうでもよくなってきた。
沈み込んでいたのが馬鹿みたいだ。
沸き起こる発作に耐えられず、シーツをよじれさせながら笑い転げた。
干渉しない、踏み込まない――二人を隔てていた厳然たる障壁に、ぴしり、と、稲妻型の亀裂が走る。
しまい込んだ記憶をそっと引き上げて、丁寧に磨いてやって、清らかな小川に流す。
抱えきれなかった巨大な鬼も、言葉にしてしまえば、意外なほど小さく見えた。