In The Dark「痛そうだね」
と、ドラキーが言う。
ヒュンケルは無言で両腕の包帯を巻き取っていく。
「怪我をしているわけではないんだ」
ぽつりとつぶやく。全て外してしまうと、道具袋をまさぐって新品を取り出した。
「だったら、なんでそんなの着けているの?」
と、好奇心旺盛なドラキー。
通りすがりのくせに、しかもモンスターのくせに、ヒュンケルに対して警戒心が乏しい。出自は魔物だと自認する少年の、特有の匂いのせいかもしれないが。
「ねえ、なんで巻いているの?」
ぱたぱた飛び回るドラキーを、首をすくめて避ける。
「お前に関係ないだろ」とヒュンケルが言う。
「うん、関係ないよ。でも、それって関係ある?」とドラキー。
もっともだ。
ヒュンケルは両手を外気に晒して、しげしげと眺めた。
魔族の模様も獣の毛並みも無いその肌に、淡く紫色に光る紋様が、ゆっくりと明滅した。
ドラキーが目を丸くする。
「かっこいいね!」
「そうかな」
ヒュンケルは表情を変えずに、両手を見下ろした。
暗黒闘気の軌跡。
鍛錬につれて、徐々に目立たなくなってきている。いずれ完全に消えるだろう。
だが未だに、こうして顔を出す。治癒の遅い虫刺されみたいに。蜘蛛の巣のような模様がしつこく残って、自らの存在を叫ぶのだ。
――ここにいる。ここにいるよ。使って。君の中に、いれて。
頭を振って、ヒュンケルは前腕に包帯を巻きなおす。
訓練不足を隠すため、だけではない。
こうして意識的に抑制しないと、不意に暴発することがあるからだ。忘れないために、常に気を配るために、あえて仰々しい印をつける。
底知れない、魅力的な、力。
だがヒュンケルはこの素晴らしい可能性を、手放しに受け入れたわけではなかった。
――強大なる力を得た時には、常に注意しなさい。
――全ての強者には、責任が伴うのです。
――その力が巨大であればあるほど、恐ろしい代償が。
父の仇。モンスターの虐殺者。
己のかりそめの師であった、人間の勇者。
彼の言葉はなぜか、脳裏にこびりついたままだったのだ。どんなに磨いても落ちない、不穏な染みみたいに。
……ふざけるな。
お前はその力を使って、いったい何をした?
揺らぎそうな心を、黒い鎧で覆っていく。
命の恩人である闇の師が、そして――大魔王が、教えてくれたように。
「それ、かっこいいよ」
ドラキーが無邪気に羽ばたく。
「もっと増えたらいいのに」
「……ああ」
ヒュンケルの全身が、ほの暗い霧を帯びる。色彩が失われていく。
「そうだな」
音が消え、重力が歪む。
眠りに落ちる直前のように、深いめまい。
心地よく、抗いがたい闇のうねりが、周囲を埋め尽くすのを感じる。雄々しい怪物の手が、幼き我が子を抱きしめるかの如く。
うっとりと頬を委ねていたヒュンケルは、何かが崩れるような音に、はっとして顔を上げた。
眼前には、脆い焼き菓子みたいに消し飛んだ洞穴の壁と、小さなクレーターと化した石の床。
慌てて両手を見ると、毒々しく腫れあがった紫の蔓が、肘まで這い上がっていた。
まただ。
やってしまった。コントロールを手放した。
師は、激怒するだろう。修行と称したお仕置きを覚悟し、苦い唾液を飲み込んだ。
闇の師の沈黙と無関心、容赦なく与えられる苦痛は、勇者と過ごした生温い記憶を振り払ってくれる。
だから、俺には彼が必要なのだ。……彼が、俺を必要としていなかったとしても。
利用しているのはこっちなんだ。
そう自分自身に言い聞かせる。
それでも。もし。いつの日か。
……あの圧倒的な闇が、この体を、無条件に抱きしめてくれたなら。
勇者には見せられなかった自分自身を、いつか、彼が受けとめてくれたなら。
そんなほのかな想いを、すぐに握り潰した。
承認と愛、『父』の幻想を追い求める繊細な魂を、怒りで乱暴に覆い隠して。
急いで包帯を巻き付けながら、ふと傍らを見下ろして、硬直した。
先程まで会話していた、小さきモンスターの姿が見えない。
――俺が、消してしまったのか? ……この手で。
動揺のあまり喉元までせり上がった叫びを、必死に鎮静する。
水の底から浮かび上がってくるもう一人の自分が見える。
目を見開き、涙を流し、光に手を差し伸べる、ひとりぼっちの子供。
その白い喉を絞め殺さんばかりに押さえつけて、宵闇の奥へと送り返した。
幽鬼のように立ち上がり、自室に向かって歩き出す。
考えるな。感じるな。
……大丈夫だ。まだ、大丈夫。
腐った死体のモンスター、古びた正装に身を包んだ執事モルグは、考え深げに震源地に歩み入った。
吹っ飛ばされて泣きじゃくっていたドラキーを拾い上げて保護し、小さな背中をぽすぽすと叩いてやりながら、主人の残した瓦礫を一瞥する。
きらきら漂う塵埃を見上げて、白濁した目を細めた。
ヒュンケル様の師、恐るべき影の訪問予定まで、あと数時間だ。
弱みの証拠となる癇癪の痕跡は、お目に入らぬようにしておかねば。
若き不死騎団長候補の忠実な部下は、悠然と掃除に取り掛かる。
まだ幼さの残る主が残虐な修練で痛めつけられるのは、どうにも耐えがたいことだった。
この世の物とも思えない悲鳴を、できれば聞かずに済ませたい。
溶けた脳に宿ったわずかな感情、情けや愛に似た衝動は、極力表に出ないようにしてきたはずだった。
だが、孤独な少年の世話係という辞令は、魔王軍からの懲罰なのかもしれない。
痛みと憎しみに身を捧げ、徐々に心を失い闇に染まりゆく彼を、粛々と見届けよ、と。
――あるいは。
と、モルグはたった一度だけ目にした、不思議な光景を思い浮かべる。
眠る弟子の前で立ち尽くす、冷血なる彼の師の姿。
鋼鉄の拳を所在無く下ろしたままで、微動だにせずに。
ありえないこととは知りつつも、その背に、何かを感じずにはいられなかった。
まるで、この柔らかい命をどうすればいいのか分からずに、途方に暮れているようにすら見えたのだ。
そんなことを考えながら陥凹した床面を見下ろして、ふと手を止める。
暗黒闘気の暴走が残した破壊痕は、何かに似ていた。
人間の頭蓋骨に、似ていた。
涙を流しているようにも見える。
「……お久しぶりですな、バルトス殿」
なんとなくそう呟いて、淡々と作業を続ける。
ただの空洞と化したはずの腐った心臓が、ちりちりと痛んだ。