Fugue「解離性遁走、ですね」
ラーハルトは擦り切れそうな微笑みに憤怒を込めて、
「分かるように言え」と絞り出す。
「要するに、現実世界を越境して、安全な場所に逃げ込んでいるんです」
祈祷師は何気なく続ける。
「きっかけは様々ですし、何に擬態するかもわかりません。大丈夫、数日で戻ることがほとんどですから」
「数日だと?」
と、傍らの少年を――もとい、精神だけ子供に化したヒュンケルを抱きかかえる。
「ええ。まずは様子を見て、マズそうだったらまたおいでなさい」
「マズそうだったら?」
「ええ」
緊張感のないやりとりだった。
ヒュンケルの師が紹介した人物だ、信用できるはずだ。だが、こちらの心配をよそに拍子抜けするほど楽観的な診察だった。
「ねえ、お兄ちゃん」
目線も変わらぬ青年が、奇妙に高い声で呼びかける。
「晩御飯なに?」
ラーハルトはこめかみを押さえて、「貴様、説明を聞いていたのか」
「せつめい?」
つないだ手をぶんぶん振りながら、元・不死騎団長が小首をかしげる。
「何が原因だか知らないが、とっとと元に戻れ。もしくは、せめて子供の姿に変化するとか――理解しやすい変化を遂げてくれないものか」
「おれ、六歳だし、子供だと思うけど……」
「分かった。分かった、もういい」
「ねえ、父さん、まだかな」
突然の言及に、ずきりと胸が痛んだ。
「きのう迎えに来てくれるって言ってたけど、お仕事、長引いてるんだね」
淡々とした物言いが、かえって重苦しい。
しばし沈黙ののち、ラーハルトが口を開く。
「何が不満だった」
ヒュンケルが振り返る。
「普通の日々だった。普通の朝だった。何がトリガーだったんだ?」
「ふつう……?」
ヒュンケルがおどおどと返事する。
「俺が何かしたか。なぜ、突然現実から逃げた。演技か。あてつけか。言いたいことがあるならはっきり言え」
「おれ、言いたいことなんかないよ」
と、ヒュンケルが俯く。
「幸せだもん」
「だったらなぜ」
「だって、」
ヒュンケルが立ち止まる。
「あれ……?」
そのまま立ち尽くす相棒を振り返り、ラーハルトはゆっくりと歩み寄る。
銀色の前髪の奥に揺れていた瞳が、徐々に焦点を取り戻す。
「……ラーハルト?」
大きく息を吐いて、ラーハルトは恋人の目の前でひらひら手を振ってみる。
「?」
「戻ったか」
「何がだ?」
素っ頓狂な声をあげるヒュンケルを置いて、てくてく歩きだす。
「何でもない」
「待て、ラーハルト。待ってくれ……なんだか不思議な白昼夢を見ていたようだ。俺は何か言ったか?」
駆け寄ってくるヒュンケルを肩越しに感じつつ、
「気にするな」
忘れろ。
そう念じながら、小さな覚悟を決める。
これはきっと、ヒュンケルの生涯を通じて再発する、ちょっとした病だ。
常にそばにいて、見守ってやらなければ。
……ほかの誰かに、この役目は渡すまい。