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『ごめんなさい………………さよなら』
幼い手指から滑り落ちる命。
たなびく細い金糸。
重力に引かれる白い身体。
あっという間に固い地面に叩き付けられて、飛び散る鮮烈な赤、赤、赤。
化粧粉をまとった綺麗な白磁の肌を無遠慮に真っ赤に染め上げる血の海の上。
母だった女性は、焦点を失った瞳をどろりと天に向けている。
見ている。
足から手を離した幼い自分を。
惨めな死に方を選ばせた罪深い人間の顔を呪っている。
『濁ったらおしまいよね』
「…………――ッ!」
チェズレイはカッと目を見開いた。
飛び上がった肩が震え、酸素を求めて肺が胸を押し上げる。
心臓の鼓動が爆発するほど大きく脈動している。
長椅子の背もたれにくっついた背中がじとりと汗ばんでいる。
「はぁ……、はッ…………ァ……?」
呼吸を整えようと胸に手を当てると、ぽたりと雫がシャツの胸元を濡らした。
雨漏りかと天井を仰ぐと、目尻から雫が頬を滑り落ちていった。
白い手袋をとって指で瞳に触れる。
熱い。
(泣いていた……?)
悪夢を見ていた自覚はある。
だけども、涙が出るほどのものは久しぶりだ。
気づかないうちに精神が参ってしまっていたのだろうか。
最近は、自己催眠なしで就寝できるようになったから油断していた。自分は人並みに寝られるようになったのだと勘違いしていた。
自分が穏やかな眠りに落ちることができるのは条件付きなのだ。
ベッドであの人と、モクマと一緒に横にならなければ、チェズレイは穏やかに眠れないのだ。
「カウチでうたた寝」では、条件が満たされない。だから、悪夢を見たのだとチェズレイは自己分析した。
(モクマさんは……)
ここまで声をかけてこないということは近くにはいないのだろう。
恥ずかしいところを見られずに済んだと安堵した時、チェズレイの頬を柔らかな風が撫でていった。
「……ア……」
声が震えた。
汗ばんで熱を持った背中が風に冷やされて、寒気を覚える。
カーテンが風に揺れている。
ベランダの窓が開いている。
母の最期の時みたいに。
チェズレイはふらりと立ち上がった。
夢遊病患者みたいに窓際へ吸い寄せられるように近づく。
「…………ッ――――!」
悲鳴より先にチェズレイは駆け出していた。
カーテンの隙間から、バルコニーの手すりから足だけが見えたから。
あの人の、モクマの足袋がひっかかっているのを見てしまったから。
(どうして……!)
積極的に死に行くのは止めたはずだ。マイカの里の鍾乳洞で命懸けで止めた。
バルコニーの柵に引っ掛かっているモクマの足を素手で掴む。
あの時の小さな手ではない。
母の足首を片手で掴み取れる大きさに成長した自分の手に力をこめる。
バルコニーに足が引っ掛かって宙吊りの格好でいるモクマの姿を眼下に捉えてチェズレイは「ヒッ」と息を飲んだ。
悪夢だ。
まだ夢の中だ。
そう思うのに目の前の光景はちっとも変わらない。
チェズレイの脳裏で母の声が響く。
「脚を放して、チェズレイ」
モクマの身体から母の声がしているようにチェズレイには見えた。
『宙づりなんて死ぬよりみじめよ』
惨めでいい。生きてさえいてくれれば。
無様で、綺麗な姿でなくてもいい。
助けたい。
助けたかった。
いいや、母は助けられなかったが、モクマは助かった。ベランダよりもさらに高い高層ビル51階から飛び降りて、この手で直に抱き止めたのだ。
なのに、こんなところでモクマに命を落として欲しくない。
「お前の力じゃ引き上げられないから」
うるさい。
『子どもの力じゃ引き上げられないわ……賢いあなたならわかるわよね……?』
もう子供じゃない。
「ほら……もう、腕の感覚がないでしょ……?」
力を入れすぎて震えるチェズレイの腕を揶揄される。痺れてきたのは事実だ。
だがなんだというのだ。諦めろと?
「……ぁ」
左目からほろりと水が弾けた。
いやだ。
おちないで。
おいていかないで。
しなないで。
身を焼くほどに熱く濁った感情が目頭から雫となって生まれては鼻筋を滑っていく。
チェズレイの涙がモクマの身体に降り注ぐ。
それを目にしたモクマがふぅと長い息を吐き出した。
「…………ごめんな」
「…………あ」
『ごめんなさい………………さよなら』
チェズレイの手からモクマの足が離れてゆく。
ゆっくりと地面に向かって落ちる身体。
その後の顛末を自分は一度見ている。
「……マ……さ……、…………モクマさんッ!」
男の身体が地面に叩き付けられる――寸前でクルリと宙返りした。
近くの大木に両足を着地させ、全身をバネにして飛び上がる。
「ほっ……!」
バルコニーの手すりを両手で掴み、脚を階下へ降り下げ、その勢いのまま今度は背中側へ振り上げる。
「ふっ……!」
手すりを見下ろす形で倒立したモクマは、肘を曲げて腕立てする格好になり、腕の筋肉だけで身体を押し上げた。
再びくるくると回ってバルコニー床に着地を決める。
膝をついて腕は水平に伸ばした格好のまま静止。それから、「はああ」と大きく息を吐き出して尻を床に付けた。
一部始終を見守ったチェズレイは呆気に取られた顔でモクマを見つめた。
「モクマさん……?」
「ん、目が覚めたかい?お姫様」
モクマがチェズレイに近づく。
ふわりと鼻腔を擽るモクマの汗混じりの体臭が、チェズレイにこれは現実だと知らせていた。
「おっと、トレーニングしてて汗くさいんだった……って、うおっ」
チェズレイがモクマのシャツを引っ張り、分厚い胸板に自ら鼻を擦り付ける。
モクマは思ってもみないチェズレイの行動にビックリしながらも、背中に手を回した。
「気持ちよさそうに長椅子でうたた寝してたから起こさなかったんだけど、悪い夢でも見たかい」
「…………おわかりでしょうに」
「うん、ちょっとビックリした。お前さんが心ここにあらずでバルコニーの柵使って腹筋してた俺の足を急に掴みだすんだもの」
「紛らわしいことするあなたが悪いんですよ。ベランダの柵に足をかけて筋トレする人がいるなんて知りませんでしたから」
チェズレイが拗ねて頬を膨らませると、モクマは「ごめんて」と謝り、涙跡が残る白い頬を手のひらで包み込む。
「目が覚めたなら昼メシにしよっか」
モクマが笑いかける。
チェズレイはいたずらっぽく微笑みを浮かべて首を振った。
「いいえ、目覚めにはまだ足りません」
「ん?」
モクマの腕の中でチェズレイが目を瞑っていた。顔はモクマに向けられたまま。唇がきゅっと閉じられている。
(あー、はいはい、お望みのままにお姫様)
モクマは吐息で笑って、チェズレイの唇に自分のものを押し付けた。