人でなしの恋 江戸近隣で最も西洋に近い場所と言えば横浜だろう。外国人居留地に住む人々の生活のため、あるいは元より商売のために運ばれてきた文物がこれでもかと店先に並べられている。骨董通りなぞに店を構える日本人にいたっては、片言の英語による異人たちとの値段交渉がすっかり板についていた。
早く自分自身が米国に行きたいと気が逸る福沢諭吉は、横浜貴賓館で異人たちと交流することに加えて、異国の書物からの情報収集に余念がない。今日も長らく待ちわびていた、医学雑誌(そんなものが欧米諸国にはあるのだ)が店に届いたと知らせを受け、弾むような足取りで本町を歩いていた。この辺りは西洋式の建築物が多く、ちょっとした異国旅行のような気分にさせてくれる点も良い。
一体どんな最新情報が書かれているだろうか、前号で前半のみ掲載されていた続きは載っているだろうかと思案していると、通りの端、塀にひたりと張り付くように佇む人物が目に入る。見間違えるはずもない、己の情人である隠し刀だ。
普段であればこの偶然が呼び寄せてくれた逢瀬を喜ぶところなのだが、どうにも相手が醸す空気が物々しい。すわ荒事か、とほどほどの距離で立ち止まっていると、向こうもこちらに気づいた。諭吉と目が合っても雪解けは訪れず、ただ相手の薄い唇がゆっくりと動く。
『見るな』
「っ」
吸い込まれるようにして見つめた端から拒まれ、思わず目をそらす。相手から拒絶を、それもこんなにも冷たく突き放されるのは初めてだった。恐る恐る視線を戻すと、影がずずっと塀の向こうへと滑るのが辛うじて見て取れた。入口からの訪問ではなく、明らかな潜入だ。頭の片隅に、かつて自分が隠し刀にせがんだ『拝借』が思い浮かぶ。
「ああ、もう」
本来ならば、何もかも忘れて書店に行くべきである。お互い職務に関しては一切話したことがないのだ、今後もその機会は生じまい。頭では重々承知しているものの、胸の中のもやつきはどうにもぬぐえず、気付けば諭吉はずんずんと件の塀に向かっていた。
「……浪人風情が、知ったような口を利く」
「お前こそ」
静かに押し殺した、しかし殺伐とした気配の会話が塀越しに漏れ聞こえる。隠し刀のように鉤縄でしゅるりと移動できれば良いのだが、生憎そんな飛び道具は持ち合わせていない。さてどうしようか、と見回すと、ちょうどよい高さに積まれた飼い葉の束が目に入った。これぞ天の助け!服が汚れるのも構わず階段のように踏み越えてゆくと、ようやっと塀の向こうの様子を見ることができた。
「今なら見過ごしてやろう。引かぬのであれば、斬る」
隠し刀が対峙する侍は、半ばに被った編み笠の縁を指先でつい、となぞった。既にじわじわとした殺気が滲み出ており、なんとも物騒である。おまけに背負っている大太刀の長さと言ったら!抜刀するだけでも一苦労しそうな代物だ。腕に自信がなければ到底振り回しえまい。相当な使い手なのだろう。
「斬る前に、話さぬことだ」
隠し刀は諭吉を前にする時と変わらず、否、ずっと渇いた声で言うなり足を踏み出した。今日の差し物はどうやら小太刀の二刀流らしい。先日道場で自分と相対した時には打刀を使っていたな、と諭吉は現実逃避した。キン、キーンと刃が打ち鳴らされ、火花が散る。互いがすれ違い、刃があわやというところを掠め行く。道場剣術などではなく、本物の斬り合い、生き死にを賭けた戦いだった。
諭吉の頭を巡ったのは、隠し刀は本当に人斬りなのだ、という今更のような事実だった。彼の腕前は確かで、いざという時には非常に頼もしい。それは道場剣術に留まらず、実戦を重ねた経験によって立つ堅固なもので、自分も当てにしたことがある。にも拘らず、目の当たりにしなかったことで己が何から目をそらしていたのか、見たくなかったのかをまざまざと見せつけられたような心地に陥っていた。
人を殺すことは難しい。技術的に可能であっても、いざとなればためらってしまうのが大概で、激情に駆られるか狂気にかられるか、日常を踏み外して初めて達成しうる。隠し刀の場合は、逆だ。彼にとって、また彼が相対する浪人にとって、人を殺すことは日常の延長線上でしかない。
斬り合いを目の当たりにした諭吉の頭によぎったのは、純粋な畏怖だった。自分とはまるで異なる、受け入れがたい日常を抱く相手を理解することは難しい。感情論を理性が窘め、飲み込み切れぬ思いはじわじわと別種の恐怖をもたらした。隠し刀が人を殺すのであれば、彼は殺される可能性も常に頭に入れているのだ。死んでも良いと思うほどではないにせよ、尋常ならざる覚悟は容易に察せられる。
自分のあずかり知らぬうちに、この人は死んでしまうのだろうか?どんなに強くとも、何が起こるかは未知数である。現に昨今では志士なる連中が跳梁跋扈し、あたら命を花火のようにぽんぽん打ち上げるものだから、おちおち夜道で寝落ちていられない。泥酔後に路上で眠ってしまうことを、諭吉は何より恐れていた。
さて隠し刀だが、斬り結ぶ顔に変化はない。ただ、大上段から斬り上げられる相手の太刀筋は相性が悪いのか、うまく懐に入れず苦戦しているように見受けられた。あの大太刀は持ち主の膂力もあって一層重みを増しているのだろう。並の手合いであればとうに儚くなっても不思議ではない。
しぶとく耐える隠し刀に業を煮やしたのか、浪人はやたらに強く刀を振る。太刀筋は野卑で容赦なく、一太刀でも浴びれば大怪我は免れまい。すわ当たったか、と肝を冷やすも、隠し刀が無事に防いで諭吉は安堵した。だがそれも束の間のこと、咄嗟の受け太刀に耐え切れず、隠し刀の左手に握った小太刀がカラン、と地に落ちた。勢いづいた相手の刃が隠し刀の脇腹を抉る。噴き出たのは血だ――これは本物の殺し合いなのだから。
「危ない!」
続いて襲おうとする刃の煌めきにたまらず飛び出すと、諭吉は迷わず塀を乗り越え、木刀で居合を放った。威嚇程度にしかならぬことは承知している。しかも己から暴力を振るうなどまっぴらごめんだ。けれども今、この腕を活かさなければどうしよう。隠し刀の傍近くへと間合いを詰めると、焦ったような声が耳に届いた。
「諭吉っ」
「仲間か。まとめて斬り捨ててやろう」
すう、と浪人の気迫が増す。刃の先が己に向けられ、諭吉はぎゅうと胃袋を締め付けられるような感覚に襲われた。木刀で不殺を志すなど、悠長なことは言っていられない。自分が、真剣を人に向ける?滅多に触れぬ真剣の柄に手をかけるも、未だ戸惑いの方が勝っていた。
「セイッ!」
迷いを打ち払ったのは隠し刀だった。気合を入れると、あろうことか右手に残った小太刀を相手に向かって投げつける。冷笑してすかさず横に避けた浪人に諭吉が落胆した次の瞬間、しゅるりと伸びた鉤縄が男の脚を掬い上げた。間髪入れずに隠し刀が相手にとびかかり、得物を握った手首を打って無力化する。流れるような動作で首に腕が回り――殺気立った浪人は、ぐったりと力を失った。
「すまない、諭吉。助かった」
ようやく隠し刀の声に色が戻る。冷静に得体のしれぬ相手を縛り上げるも、ベストを濡らす血はだらだらと流れるばかりで止まらない。血。幼い頃から恐れてやまず、どうにも耐えがたいもの。痛みはないのか?耐えてやしないか?命がどんどんと零れ出るのを止めねば、と思うももはや我慢の限界だった。
「あなたがご無事で、良かった」
どうにか言うなり、諭吉はすうっと意識を手放した。
不甲斐ない。己の不始末を反省しながら、隠し刀は馬上でぐったりとする情人を見やった。いつぞや血を見るのが苦手だと話してくれたものの、こうも如実に反応するとは思ってもいなかったのだ。そもそも、自分が誰かを――例え始末されても仕方のないお尋ね者相手であっても――斬る場面を見せるつもりはついぞない。不幸にも出くわした時点で引き返さず、あろうことか助太刀までされたのは自分の落ち度だ。
『見るな』
あの台詞は、見ないでほしいという願いだった。たった一言で、好奇心旺盛な情人を止められると思ったならば甘いとしか言いようがない。黒船での『拝借』しかり、彼は己が望むままについつい日常を踏み外してしまうことがある。隠し刀の言葉によって遠ざけるどころか、かえって彼を刺激してしまった可能性が高かった。
諭吉には、可能な限り隠し事はしないように努めている。お互いが理解し合うため、共に生きると決めた時に話し合った結果で、こんなにも腹を割って話す相手は片割れ以来のことだった。だが、絶対に口にしたくない出来事もある。人の命を大切にする諭吉を前に、惨たらしいと世間一般が眉をひそめるようなことをやすやすとこなす己は到底見せられなかった。
自分の生き方に恥ずべき点はない。ただ、相手が知った際、どう思うかが気になったのは初めてのことである。世情人情に疎い隠し刀にも、うっすらと察することはできる――人は、人殺しを恐れ、忌み嫌う。ましてや今は戦時下ではない。日常的に見ることのできる流血沙汰は、江戸ではせいぜい刑場くらいのものだ。水面下では惨事が重ねられようとも、市井の人間は目隠しされている。知らないままである方が幸せであることは多い。
「駄目だな」
未熟者、と記憶の中で研師が叱責する。お尋ね者風情の一人や二人、やすやすと捕らえられずしてどうしよう。全くその通りでぐうの音も出ない。せめて後始末はうまく終えよう。
まずはお荷物であるお尋ね者だ。幸いにして知り合いの同心が早く見つかり、引きずってきたお尋ね者を半ば押し付けるようにして渡すことができた。また頼む、とこちらの様子を気にも留めずに浮足立つ俗吏が憎々しい。とはいえ、舌打ちする元気も湧かなかった。脇腹の傷口をは応急処置として浪人の帯で縛っておいたものの、大した効果はなく、じくじくと血を零している。
幸いにして、諭吉はまだ目を覚まさず馬に揺られている。生来苦手とし、見たくもないものを見たのだから当然だ。そんな彼が、自分の窮地に際して駆けつけたのは感動的でさえある。喜びと、相手の信条を汚してしまった悔しさで内臓がかき乱されて気持ちが悪い。
諭吉は一体何を思うだろう。無茶に対する心配と怒りは免れまい。だが今回は毛色が違う。隠し刀が人殺しであると改めて目にした彼が、自分を恐れたらばと思うだけで胸が苦しくなる。こんな気持ちも初めてで、諭吉はまたも初めてをくれたのだ、と唇が歪む。
考えは遅々としてまとまらないが、足取りは確かで、隠し刀は順調に外国人居留地へと足を踏み入れていた。ベストの上から帯を巻き、ぐったりとした人間を馬で運ぶ様子を道行く人々にじろじろと見られてため息がこぼれる。
「邪魔するぞ」
「ミスターか。その様子だと、また物騒なことに絡んだようだな」
「察しが良くて助かる」
居留地の一角、英国公使館近くの小さな建物に諭吉を背負って入ると、正月飾りのように派手な顎髭を蓄えた異人が大げさに両手を挙げてみせた。彼こそはウィリアム・ウィリス、遥か英国より渡って来た医師にして外交官である。山中で治療に使う薬草を探していた彼を偶然救ったことから、隠し刀はしばしば怪我やら何やらの後始末を手伝ってもらう関係を築いていた。諭吉に教えを受けた英語学習が功を成したのは言うまでもない。
「ミスターはまた怪我をしているようだな。少しは控えたまえよ。それで、そちらの彼はどうなっている?まさか死んでいるんじゃないだろうな」
「ただ気を失っているだけだ。怪我もない。……しばらくは起きないだろう。ウィリアム、私が帰ってから彼を起こしてくれないか?」
その方が面倒をかけずに済むのだ、と伝えれば海千山千の外交官はふんと鼻を鳴らして同意した。ウィリアムに案内されるまま処置室で服を脱ぎ、黙って処置台に上がれば、後はいつも通りの非日常が片付いていった。腹が熱い。内蔵まで響いていないとは思うものの、この出血量はいただけない。
「では、ミスター。麻酔なしで良いのかね」
蓄えた顎髭に反し、つるりとした頭を陽の光に反射させると、ウィリアムは片眉を上げて注射器を示した。西洋では、処置の際に痛みを取り除く手法が主流となりつつあるという。しかし、それでは目覚めた頃に諭吉と鉢合わせることになりかねない。どうせ自分は痛みに対する我慢なぞ慣れたものだ。今は諭吉と相対することの方が恐ろしい。惰弱だ。人でなしの癖に、一丁前に刃こぼれしている。
消毒液が焼けつくような熱さと痛みを齎し、燃えるような熱さの針と糸とが辻褄を合わせてゆく。幸いにしてあのお尋ね者の得物はよく手入れされていたらしい。綺麗な傷口だ、とお褒めの言葉をもらって、隠し刀は全身汗みずくとなった己に苦笑した。噛みしめすぎたのか、奥歯のあたりがじんじんと鈍痛を訴えている。
「ありがとう。恩に着る」
「礼なら後で土産話をしてくれ」
「……善処しよう」
遥々異国に渡って来た人間らしく、ウィリアムもまた好奇心が旺盛なのだ。次に会う際には、色を付けた四方山話を用意せねばなるまい。礼金を渡し、諭吉の様子をちらと確かめて街中へと逃げ出す。夜逃げも同然の足取りで、初めて里を出た時よりも心細い。誰もかれもが後ろ指を指しているようで、事実は恐るるに足らずもおぞましかった。自分は人でなしだ――そんなことは骨の髄まで理解している。
だがそれが、今はたまらなく残念だった。
助けた命がふらついている。諭吉は隠し刀との後ろ髪引かれる別れを終えて以来、梅雨が明けぬ七夕よりも会える見込みがなかった。当面彼との約束もなければ、長屋を訪れても毎度狙いすましたように不在で、たまさか居合わせた客も揃いも揃って知らぬ存ぜぬと言うばかりである。
最後の望みは長州藩や土佐藩の人間たちだが、どうにも自分から近づくことは難しい。度の強いウヰスキーで気付けしてくれた医師に尋ねても無駄足だった。出会った当初と比べて、自分は隠し刀の生活の凡そを把握しているという自負は、ただの一人合点だったらしい。約束のない二人の関係は、一方的に打ち切られても不思議はないのだと改めて思い知らされ――諭吉はぶちりと頭のどこかが切れた音を聞いた。
「いい加減、教えてくれませんか。あなたならば彼の居所を把握しているでしょう」
「買いかぶりすぎぜよ。あいつは糸の切れた凧のように自由な奴じゃ。わからいでも不思議やない」
如何にも人好きのする、愛嬌たっぷりの仕草を見せる坂本龍馬に、諭吉は穏やかな表情を保ったまま舌打ちした。運頼みにせざるを得ない状況を繰り返した長屋への訪問で、ようやく掴んだこの好機を逃すわけにはいかない。大変苛立たしいことに、目の前の男は片割れの次に隠し刀と過ごした時間が長い人物である。彼に人間らしさを与えた文字通り初めての人間で、別段これまで気にもかけなかったが、諭吉は今更のように忌々しささえ感じていた。
「……自分の懐中時計を贈るような関係の癖に」
「うん?何の話ぜよ」
「いいえ。私の独り言です」
限りなく慇懃無礼に言い放つも、拗ねた口調は隠しきれない。その証拠に、とぼけ顔でチビチビ酒を飲んでいた龍馬がにいっと満面の笑みを浮かべた。
「なんじゃ、お堅いだけかと思うちょったが、意外と可愛いところがあるぜよ。あいつも隅に置けんのう」
「揶揄わないでください」
こちらは真剣に悩んでいるというのに、蒟蒻問答ばかりで何一つ進まない。あの時隠し刀が負った怪我は深くないと推察されるも、彼は今この時も苦しんでいるかもしれないのだ。あるいは、またぞろ危険を冒すということも大いにありうる。確かに彼は以前、危ないことをする際にはまず諭吉の顔を思い浮かべるようにする、と約束してくれた。だが浮かべたところで――彼は己を大事にできるだろうか。以前であればすぐさま頷けたものが、今となってはぐらぐらと揺れている。
悔しさと怒りと悲しさと、もろもろの感情をこめて膝の上で掌を握りしめる。潰せるものなら跡形もなく滅してしまいたい。届かぬ星に必死で手を伸ばすような虚しさを噛みしめていると、ぱん、と龍馬が膝を打った。
「そうじゃ!保土ヶ谷におるわしの幼馴染に会うた時、近頃増えた同居人が煩いち言いちょった」
「保土ヶ谷の、どちらです」
前のめりになっても、取り繕うのは今更だ。保土ヶ谷宿といえば、東海道五十三次にも描かれる宿場町の一つである。横浜の中心部から外れた先、諭吉が探そうとも思わなかった場所だった。
「詳しくはわしも知らん。以蔵は気まぐれでのう。権太坂の手前か、帷子橋の辺りか……おまん、どこへ行くぜよ」
「それはあなたもご存知でしょう」
与えられた鍵が正しいものとは限らない。だが一応は礼を言うべきか。すっくと立ちあがった諭吉は、憤懣やるかたないものの、綺麗なお辞儀をして長屋を去った。隠し刀と付き合っていく上で、龍馬とはしばしば顔を合わせるようになる。きな臭い事情に関わっているであろう人物と言えども、情人の友人として尊重したかった。
「全く、逃げる先が間違っているんですよ」
算段を付けながら、諭吉は恨み言を呟いた。保土ヶ谷は、ひどく遠い。山のそのまた向こう、隠し刀の住む長屋から歩いていくには億劫な場所だ。その労を厭わずわざわざ足を運ぶ意味も含めて、相手にはとくと理解してもらいたいところである。
確かに隠し刀は人殺しで、人でなしの所業もこなすだろう。だがそれに目を瞑ろうが瞑らまいが、彼が彼であることに変わりはないのだ。隠し通したかったものを見てしまった後で、無理やり取り繕うなど無意味だろう。どこか純朴な子供のような感情を扱いあぐねる情人が、戸惑っている姿は容易に想像された。
「会いたい時に会えないじゃありませんか」
二人の暖かさを知った今、一人の寂しさは耐え難い。それが埋めようとも埋められぬと知れば、尚更だった。
保土ヶ谷宿は小さいながらも充足し、安定した場所である。山賊狩りと野草の採取という時間つぶしにかまけつつ、隠し刀は川沿いに広がる町を見やった。うろたえ者は少なく長閑、一度汚吏を成敗した以降、苦労の多い切った張ったは無縁だ。それほど横浜の中心部が豊かな都市へと成長しつつある証左なのだろう。
だから自分のような根無し草が入り込み、通常ならば出会うはずのない諭吉に出会い、縁を結ぶに至ったと言える。諭吉。最後に見た情人の顔が気絶した状態というのは滑稽な話だ。勢いのままに逃げてしまって以来、どの面を下げて会うべきかもわからず、隠し刀は半端に遠い場所で留まっている。
本来、こうなってしまえば行き着く先は明白だ。自分の身から出た錆を、隠し通すことのできない腐臭を露にし、これから先も続けられるかを話し合わねばなるまい。遅かれ早かれ、いつかは明るみに出る事実なのだ。
二進も三進もいかない理由は、偏に己の未練がましさ、ただ一つに尽きる。今更嘘で塗り固めたり、飾り立てるものもない癖に、どうにか相手を繋ぎとめた状態のままでいられないかと甘いことを考えている。頑是ない子供と同じだ。諭吉に未来永劫降り積もる楓の葉を傍らで眺めたいと思い、無条件に受け入れてもらえはすまいかと自分勝手に望む。値するだけのものを差し出せる自信はまるでない。
くちなしの実をむしり、背負子に入れる。無心に行える上に誰かのためになれる行為は好きだった。自分が確かに役に立てている、存在しても良いのだと安堵できる。ぽいぽいと作業を続けていると、隣の藪で作業をしていた岡田以蔵が声を張り上げた。
「えい、くちなしの実はそいで十分やき。染料にする分は足りちょる」
「薬種問屋にでも納めるのはどうだ?」
「そいも十分ぜよ」
採りすぎは駄目だ、と存外丁寧な物言いで窘める以蔵の姿に束の間諭吉が重なり、消える。彼はよくこうして真っ当な人間らしさを教えてくれたもので、大して前のことでもないというのにやけに懐かしかった。
以蔵と二人で背負子を担ぎ、保土ヶ谷宿の依頼人の下へと実を運ぶ。時代の大きな変わり目にあるとは思えぬ、穏やかな光景だった。ここでは人斬りも、開国も、片割れさえも縁遠い。ずっとこの時が続けば、と一瞬思い浮かべて首を振る。ここには決定的なものが欠けていた。
掌に残ったくちなしの実をぎゅ、と潰す。何度も何度も、色が出るまで執拗に。黄色く染まった指先で、諭吉の顔に悪戯をしたいと思ったらば胸が張り裂けそうになった。益体もつかないよそ事を考えていると、黙々と先を歩く以蔵が不意に振り返った。
「ああ、言い忘れちょった。五日後に家移りするき、おまんは自分の家に帰りや」
「……引っ越し先は」
「ついてくるんやない。わかっちょるじゃろ」
ほんの少しの優しさに縋り付いた甘さを、以蔵はばさりと斬って捨てた。無理もない。隠し刀がここにいるのは、龍馬が以蔵に図々しく”お願い”をしてくれたからである。彼自身は多少の誼はあろうといえども、自分との関係はあくまで知人程度のものだ。雑用を手伝ってお返しをするのは当然で、それ以上でもそれ以下でもない。以蔵は人と人との繋がりに、綺麗な線引きをしている。隠し刀は、あくまでも線の向こう側だった。
「すまない」
「えい」
謝るほどのことではない、と言う以蔵の眼差しは柔らかで、物騒な解決法に頼ろうとする人間には到底見えなかった。彼もまた人でなしだ、と胸の中で独り言して不思議に思う。だからと言って、自分たちが分かり合うこともない。分かり合おうともしない。
諭吉と分かり合えなくとも分かち合うことはできないか、とうだうだ妄想を広げるうち、己で己をまやかす術を会得していたらしい。急な権太坂を降りたあたり、宿場町の端に会いたくて止まぬ諭吉の姿が見えた。どこに居たって、見たいと願う人の姿はわかるというもので、俄然心は舞い上がる。
「どいたがよ」
足を止めたことに気づいたらしく、以蔵が再びこちらを振り向く。夢は、夢だ。逃げ出した自分を、どうして諭吉が求めてくれよう。駆け寄りたいと思うと同時に、足が石のように固まってしまって動かない。うう、と唸って隠し刀は覚悟を決めた。
「なあ、以蔵。あそこに……紺色の羽織を着た男が見えるか?」
「おまんが言うんは、白い手袋をしたあん人のことか」
現実だった。今こそが正念場、縁の切れ目も結び目も今この時にかかっている。
「頼む、私の分もまとめて納品してくれ。礼は払う」
「構わんき」
あっさりとした知人は、隠し刀が背負子をおろした端から掴んでたったと坂を下りて行った。先ほどまでは加減をして歩いていたのだろう。敵として相対すれば苦労しそうだ。無関係のことを考えながら、自分も足を速めて坂を下る。半ば転ぶように、飛ぶように迫ると流石に気づいたのか、夢幻は虚像を打ち砕いた。
「おかえりなさい」
「う」
怒るだろう、幻滅するだろう、あるいは求めてくれるだろう、様々なご都合主義が塵へと消える。日常が懐に滑り込み、背中に手が回された。鬢付け油と煙草と、ついで汗の匂いが混じって鼻をくすぐる。恋焦がれた存在に、エレキテルが流されたように隠し刀はわなないた。
「返事はどうしましたか」
ぎゅう、と一気に腕に力をこめられ、夢ではないと文字通り痛感する。ぽんぽんと相手の背中を叩いて、隠し刀は白旗を上げた。
「ただいま」
「ええ」
よくできました、と諭吉が頭を撫でる。その手の優しさに釣り合わぬ、己の愚かさが呪わしい。
「助けてくれて、ありがとう」
「あの時は咄嗟でした。間に合って本当に良かった。……あなたがどうにかなるかと思って、心臓が破れそうだったんですよ」
「置いていって……逃げ出して、すまなかった」
言いながら、隠し刀は自分が諭吉から逃げたのは二度目だと気づいて唇を噛んだ。都合が悪くなったらば逃げるなど、不誠実にもほどがある。それにも拘らず諭吉は穏やかなままで、ただこちらの薄い唇をちょんちょん、と指でつついて、言った。
「血が出そうになるほど噛む人がありますか。何度僕の気を失わせたら気が済むんです?」
「す、すまない」
「気を失うのは、閨だけで十分です」
もう随分してませんね、などと言われて正気でいられる人間がいたらば是非ともご教授頂きたい。爆発しそうになる自我をどうにかこうにか抑えて、隠し刀はおそるおそる問いを放った。
「……私は人を殺すような人間だ。それでも良いのか?」
「知ってましたし、今はちゃんと解っていますよ。それを良しとすることは到底できません」
想像通りの回答にしばし思考が空白になる。解っていたではないか。人殺しなどという非日常は、世間一般からは目を開けようが開けまいがわからぬ暗夜に等しい。ましてや、人を救おうとする人間からすれば対極の概念と言えよう。
「ですが、あなたを好きであることに変わりはありません」
「ゆきち」
「はい」
愛しい、悲しい、哀しい。息苦しくて生き苦しい。線の向こうに放り出された身の上ながらもたった一つ、欲しいものをかき抱いて、隠し刀はようやく息を吐いた。
「大好きだ」
なるほど、これが恋なのだ。かつて二人の間に重ねたやり取りを思い出せば、僅かなうちによくぞ育ったと感慨深くなる。まだ湿り気を帯びた黄色い指先で、隠し刀はちょん、と諭吉の頬に自分の印をつけた。
〆.