君は可愛い 箸が転んでも面白いという年齢があるらしい。確かに若い子女が揃いも揃って他愛もないことに喜び、泣くほどに笑っている風が折々に見受けられる。些細な感情の起伏が激しく、ちょっとしたことでも熱狂してしまうのだろう。故に、微細な世の変化にも敏感で、物の善し悪しが過剰に受け止められるのかもしれなかった。例えば、このようなやり取りはいつどこでも発生しているだろう。
「可愛い!」
「あ、本当だ可愛い!ねね、今度りっちゃんとまた来ようよ。きっとこの文箱、好きだと思うんだ」
「あの子、毬の絵が描いてあるとなんでも好きだよね」
「そうかも?ふふ、これって西洋の毬かなあ」
「どうだろう?でも、可愛いから何でもいいかな」
きゃらきゃらという陽気な笑い声と他愛もない会話を耳の端で捕らえ、隠し刀は会話の中心に目を向けた。どうやら小間物屋が新作の文箱を仕入れたらしい。長屋からも近いのでちょくちょく品揃えを覗くのだが、他の店とは異なり西洋風の柄を取り入れており、野心的で大胆な店だ。横浜でもちょっとした名店となりつつある。
店先であれが可愛い、これも可愛いと可愛いを連発する女性たちは十五六か、大店のお嬢さんという様子で後ろに丁稚が控えてにこにこ笑顔を浮かべていた。何とも微笑ましい。恐らくこれこそ太平の世だろう。
そんなに可愛いというならば見てみようと足を向けると、いらっしゃいと店主が愛想よく声をかけてきた。目礼しつつ、ずらりと並んだ雑貨類を眺める。小さいものはブローチ(これは情人の福沢諭吉に教えてもらった、西洋の装飾品らしい)に櫛、ついで細かな刺繍が施された手ぬぐい、文箱、厨子のように大きな箱もでんと控え、どこから観たら良いのかわからないほどに多い。そう広くはない店のはずだというのに、一つの国が収まっているかのようだ。
もし、目ぼしいものがあったらば情人である諭吉に買って行こうと思うも、これでは手のつけようもない。可愛いというものはどれだろう。そも、自分は何をもってして可愛いと感じるだろうか。記憶をたぐれど考えこめども、答えはどうにも出る気配がない。しばし迷って、隠し刀はいまだに品定めを続ける女性たちに声をかけた。
「あー、すまない。可愛いというのはどれなんだ?良いものであれば買いたいんだ」
「ええと……うーん、お兄さん、誰用に買おうと思ってるのか、聞かせてくれない?」
「おしのちゃんったら!知らない人に気安い言葉で返しちゃ駄目だって、お師匠さんが仰ってたでしょ」
気の強そうな女性が反応すると、すぐさまおしとやかな風の女性が袖を引いて窘める。良い友人関係なのだろう。自然な笑顔になるよう頬に指令を下すと、隠し刀はもう一押しした。
「お師匠さんの言葉は正しいな。知らない人間と気安く口をきくのは、お嬢さん方のような人の場合は良くないだろう。ただ、今回は例外にしてもらえたらば嬉しい」
いつぞや坂本龍馬に教えてもらったままに片目を瞑ると、ふ、とおしとやかな女性が肩を揺らす。狙い通りだ。龍馬が言うには、自分が片目を瞑る仕草はどうも不格好で面白いらしい。諭吉の前では最大限格好つけたいので披露していないが、気落ちしている時には見せてやろうと心に決めていた。
「ちょっと、あや、あんたこそ失礼だって、うふふ、くく」
「ふふ、おしのちゃんもでしょ、あはは」
男が片目を瞑っただけでここまで笑えるものか。心配してちらりと後ろの方を振り返ると、丁稚どもも口に手を当てて笑っている。理由は不明であるものの、効果は上々のようだった。ひとしきり笑うだけ笑い、調子づいた女性たちは次々に『可愛い』を並べてゆく。最初に選び出されたのは筥迫(はこせこ)で、緑を基調とした布地にびっしりと絵が連ねられていた。
「これは英国で流行している柄でお洒落なんだって。こっちではあんまり見ない筆遣いだよね。そうそう、この苺を咥えた鳥がちょっと不細工で可愛いんだ」
「不細工が可愛いのか?」
「不細工でも、可愛いものは可愛いんですよ」
可愛いの世界は奥深い。どう考えても誉め言葉にはならない形容詞の向こうに、必ず可愛いが付いて回っている。一つ理解しかけても次の例に惑わされ、さらに次で混迷を極める。あれが可愛くこれも可愛い、どれも可愛く選びようがない。散々お勧めを聞いた結果、隠し刀が理解できたのは、可愛いの道に関して、自分の伸びしろが大河のごとく横たわっているという事実だった。
つまり、彼女たちが『可愛い』と囃し立てる気持ちは全く理解できない。諭吉がどう思うかは更に謎である。反応に困っているのがわかったのか、おしとやかな女性がこてんと首を傾げた。
「お兄さんは恋仲の人に贈りたいんですよね。どんなものが好みなんでしょう?」
「そうだな……楓が好きだ。普段は渋い色合いの着物を装っているんだが、楓だけははっきりとわかるような意匠の小物を身に着けている」
生真面目で、茶目っ気があって。西洋風のものを好むらしいと付け加えると、女性たちはふわふわと頬を赤らめてまたぞろ喜んだ。己が幸せな気持ちになれるものを共有できた喜びで、今度こそ隠し刀の顔に心の底からの笑みが浮かぶ。些細な変化ではあるものの、空気くらいは伝わるのか、女性たちは俄然張り切って選び始めた。
「可愛い!良いね、あたしものろけてみたいな」
「年中のろけてるじゃないの。楓……楓の模様は海の向こうじゃあまり見ないみたいだけれども、この赤い葉っぱが散った柄なんてどうかしら?」
「おや、良いものを選びなさんしたね。そいつはヰロウといって、向こうの柳がもとになっているそうでございますよ」
女性が一つを選び出すと、速やかに店主が食らいつく。肝心の文箱を見れば、確かに普段目にする柳の柄よりも燃え立つように明るく赤い。緻密な筆遣いで、風に流れる葉が散る様は当分眺めて楽しめるだろう。しかし可愛いかどうかは相変わらずわからない。さて諭吉が喜んでくれるものか。
「……可愛いだろうか?」
「「可愛い!」」
自信を持ちなって、と女性たちがどんと背中を押す。人と命のやり取りをする時とは異なる圧に頷くと、隠し刀は財布のひもを緩めた。
隠し事をされている。寒くなったので鍋でも一つ、と情人に誘われた諭吉は、得体のしれぬ予感に眉根を寄せていた。行き先は湯豆腐屋、日本酒の揃えだけでなく、豆腐に合う洋酒を求める店主が構えるという拘りの店らしい。洋の東西が混じり合うのは、異国との交流のためだけに開発された横浜という土地柄ならではの現象と言えた。異国の言葉が聞こえるのは、対外的にも評判の良い証左だろう。
店内は日本家屋風でありながら、何故か恐らく土耳古あたりから仕入れたらしい絨毯が敷かれ、足元が温かい。隠し刀もこの店は初めて来たようで、席に案内されてからというもの、毛足の長い絨毯の手触りに病みつきになっている。思えば絨毯自体はあちこちで見かけるものの、こうして手触りを楽しむ機会は初めてかもしれない。新しい玩具に夢中になった猫を思い起こして、諭吉は口元を緩めた。
和みつつもざらりとした得体のしれぬ予感は残り続けている。酒を頼み、鍋に肴にあれこれ付け加えて店員を下がらせると、諭吉はずい、と相手との距離を詰めた。
「そんなに気に入ったんですか?」
「ああ。犬猫の毛もふわふわして良いが、これは格別だな」
まともな回答に面食らい、しばし言葉に詰まってしまう。何がふわふわ、だ!武骨な男に似つかわしくない表現に、こちらの頬まで緩んでしまう。他人にはわからずとも、情人の表情がほわりと解れているのがまた良い。店先で出会った際の、あのソワソワとした様子はどこへ行ったのだろう。
そう、隠し事だ。絶対に何か隠している。具体的には、男がそうっと背中側に置いた風呂敷包に秘密が詰まっていると推察された。贈り物だろうか?じいっと目を凝らし、形状から中身の想像を試みる。四角い。書物が二三冊は入りそうな大きさの箱のようだ。箱となれば、中身の予想は格段に難易度が上がる。歩いている時には物音がしなかったから、菓子類や布、あるいはみっしりと埋まった書物だろうか。箱そのものが贈り物である可能性もあった。
方や異国のもの、方や当て物に夢中になっているうちに、店員たちがてきぱきと膳を並べてゆく。最初に置かれたのはギヤマンのグラスで、そこにとくとくと店員が透明な酒を注いだ。澄んだ水のような色合いからして、蒸留酒だろう。森林を思わせる爽やかな植物の香りが広がり、諭吉と隠し刀はそろってため息を吐いた。客の反応に気を良くしたのだろう、店員が胸を張って説明を添える。
「この酒はジンと申しまして、英国の焼酎のようなものですな。辛口が肴によく合いますよ」
自慢の肴は雉の焼いたもので、甘辛いたれがたっぷりとかけられている。パリパリとした焼き目にかかり、てらてらと輝くタレは宝石のようだ。食べる前から既に口の中にじわりと涎が溢れ、諭吉は慌てて先に盃を交わした。まずは一息。途端にかっと口中が熱くなり、堪らず唸り声が出る。強い。だが、ただ強い訳ではなく、苦み、爽やかさ、ふんだんに使われているであろう香草の香りが風のように吹き抜けてゆく。季節で例えるならば初夏だ、と諭吉はうっとりした。
「いやあ、美味しいですね。西洋の薬草が使われているのでしょうか、まるであちらの森に出掛けたような心地になりましたよ」
「驚いたな。私も同じことを考えていた」
一緒に旅行に出かけたらば、どんなに良いことか。残念ながら、現時点では旅行はおろか、留学さえも自由には行き来できぬ世相である。しかし可能となれば、遥々海を渡って、彼とこの酒が見せてくれた景色を探しに出かけてみたい。
雉の炙り焼きは予想通りに美味く、脂っこさがまたジンとよく合って気分を盛り上げてくれた。舌包みを打っているうちに湯豆腐が来るので、全く忙しくていけない。楽しいことが一挙に押し寄せるものだから、美味しい美味しいと喜ぶ情人の可愛らしさを受け止めるので精一杯である。
「諭吉」
「はい」
湯豆腐をはふはふと口の中で転がしていると、隠し刀の指先がすい、と近づいて口元を拭う。どうやら食べ物がついていたらしく、男はそのままぺろりと己の指を舐めた。途端、ジンを口に含んだ時のような熱さが体の奥底から沸き起こる。相変わらず短い舌だな、とか、無言でこちらを見ながら舐める仕草がいかがわしい、とか、あれこれ頭を巡って鍋の中の豆腐のようにぐらぐらする。思考を処理しきれずになんとか湯豆腐を咀嚼する諭吉を他所に、情人はぱっと表情を明るくした。
「わかったぞ、諭吉。やはり私は間違っていなかった」
「ええと……何の話でしょう」
「私が可愛いと思えるのは、諭吉だけなんだ」
可愛い。かつて一度くらいは言われたように思う形容詞は、一層諭吉の頭を振り回す。この男は何度人を滅茶苦茶にすれば気が済むのだろう。発言した方はすっかり上機嫌で、先から気になっていたあの包をようやっとこちらに差し出した。酒も入ってか返事もしどろもどろで、絨毯の上に置いて風呂敷を広げる。指がもつれてままならない。隠し刀が手伝ってお目見えしたのは真紅が鮮やかな箱だった。
「文箱、ですか。ありがとうございます。……綺麗な柄だ。楓、いえ、これは赤く染まっているだけで違う植物のようですね。ひょっとして、西洋の意匠ではありませんか?」
「正解だ」
柳の葉をあしらっているそうだ、と言って隠し刀はまたぞろ可愛いと言う。
「確かに、この文箱は可愛いと言えるでしょうね」
「可愛いのは、文箱を持っている諭吉だ」
よく似合っている、という男の顔は真っ赤で、諭吉はようやくこの異常事態の理由に思い当たった。隠し刀は酒に強い。水を飲むかのようにするすると飲み、多少肌を赤くすることはあっても自身をぶれさせることはない。なんならば閨にも影響がないので恐ろしくも有難い。自分の方は吐いたりなんだり相当な醜態を晒しているにも関わらず、相手がしらっとしているのはいささか悔しいと常々思っていたものだ。
だが今日は、二人そろって初めて口にする種類の酒だった。多少元々思っていた本音であろうとも、こうもたやすくぽろぽろと零れ出るのは、酒の勢い以外にあり得まい。元より隠し刀は、自分に関しては恐ろしく真っ直ぐに愛を囁く。飾り気がない感情は心地良い。口数が少ないだけに、清水の輝きは一層眩しく感じられる。いわば今は滝のように感情を言葉にしてぶつけられている状態で、受け止めきれずに諭吉は浮き足立っていた。
「僕を可愛いだなんて言うのは、あなたくらいですよ。ほら、湯豆腐がもう少し残ってます。全部食べて、今日はもう帰りましょう」
「私だけなのか」
そうか、と今度はもにゃもにゃと複雑な表情が明瞭に浮かぶ。今日の表情筋は随分と柔らかいらしい。仕方がなしに匙で湯豆腐をすくってやると、諭吉は口を開けるように促した。
「食べてください」
「ん」
あーん、と隠し刀が素直に口を開き、放ってやった具材を飲み込む。一口、二口、そうして最後まで食べさせてやって、諭吉はえらいと褒めつつ口元を手ぬぐいで拭ってやった。危うくてどうにもいけない。人を可愛い可愛いと言っている当人の方が余程可愛いではないか、と心の中で舌打ちした。どこかに囲ってしまいこんでやりたいのに、この男は大きすぎる。
「あなたも大概、可愛いですよ」
「……お前に言われると恥ずかしいな」
「おや?僕は普段からそう思っていたんですが、お伝えしてませんでしたか」
ぱちぱち、と目を瞬かせる隠し刀がおかしくて、ついつい笑ってしまう。もらった文箱を丁寧に風呂敷で包みなおすと、諭吉は大事な可愛いものの手を取った。
なんでも可愛いと形容するのはいかがなものかと思う。もっと相応しい表現が、言葉が、感覚がこの世にはたんとあるはずだ。実際隠し刀は、小間物屋で道を説いてくれた女性たちの気持ちにはついぞ共感することはなかった。
ただこうも可愛いを連発されると自分の感覚はずれているのではないか、という不安も過る。可愛い、を感じ取れる心の海は恐らくあるはずなのだ。一体何を可愛いと言うべきか、延々つらつら考えたところで答えは出ない。
「諭吉は可愛いぞ」
しかし答えは単純極まりないものだった。自分に出会ってぱっと花を咲かせた諭吉の表情に始まり、酒にうっとりし、無心に食事を楽しみ、ちらちらとこちらを気にする様、そのすべてに今は自信を持って言うことができる。これこそが『可愛い』だ。
解れば胸がぽかぽかと温まって、骨が溶けるように体が柔らかくなる。可愛いものの前では刀もなまくらに成り下がる、これもまた真理だろう。一度口に出すと止まらなくなって、手を繋いで帰る道々も確かめれば、白い息を吐く情人が困ったような笑みを浮かべた。
「あなたが言うなら、あなたの前ではそうなんでしょうね」
「いつもではないのか?」
「あなたの前だけで充分です」
堂々と言い放つ諭吉は、どちらかと言えば格好良い。自分の前だけで十分などとは!人目がないことを確認すると、隠し刀は礼を込めて軽く口づけた。
「嬉しいな」
「……あんまり他所ではその顔をしないでください。それと、今後ジンは私以外と一緒に飲んではいけませんからね」
「心得た」
意図は不明だったが、情人の望みは可能な限り叶えてやりたい。一も二もなく応じると、諭吉がため息を零す。何か難しいことを考えているのだろうが、今の自分の思考にはただ『可愛い』という答えだけが弾き出されていた。
「さては、また『可愛い』と言おうとしているでしょう」
「どうしてわかったんだ?」
「顔に書いてあります」
「それは……多分、お前の前だけでだな」
隠し刀は心のうちを読まれてはならない。否、そもそも心のありよう自体が否定された、人でなしなのだ。今ではいくらか人間のつもりではあるものの、叩き込まれた性根は容易に変わらない。表情が他人に理解されるのは、自分が理解されたい時だけなのだ。
それを諭吉は、いとも簡単に当ててみせる。喜ぶべきか悩むべきか迷い、隠し刀はただ諭吉の手を握る手に力を込めた。ぎゅっ、と握る。ぎゅっ、と握り返される。単純な動作の繰り返しがただ嬉しい。
可愛いな、と思う。それだけでもう十分だった。
〆.