痕 歯は面白い。歯は生まれついてのものだけれども、小さいながらに人それぞれの人生を背負ってきている。例えば歯並びが悪く、まるでぼろぼろの塀のような歯は、当人も親も面倒を見る習慣がなかったことを示唆するだろう。貧しさ、衛生観念、無関心、長じても周囲が指摘しなかったか、あるいは永劫頓着しない性格か。多少の懸念が抱かれる。すり減り具合は癖を見抜く術であるし、本数の多い少ないは歴戦の証だ。清国では年齢を歯数とも呼ぶのももっともだろう。
さて医学を学んだ立場から、多少歯についても心得がある福沢諭吉にとって、情人である隠し刀の歯はなかなかの上物に思われた。栄養状態がやや危惧されるものの、血で繋がれてきたらしい大きめの歯は揃っているし、右奥がややすり減り気味である点は然程心配するものではない。虫歯はなく、欠けもない。良い状態だ。そして何より気に入っているのは――
「ひゃふぁは、ひゅひひ」
「もう少し、我慢してくださいね」
犬歯だ。奥に突っ込んだ指を奥からまた前へとなぞって、諭吉はその尖った感触を楽しんだ。だらだらと顎からよだれが垂れているのを、かわいそうにと他人事のように思う。そうさせているのは自分だ。あの隠し刀をこんな屈辱的な目に遭わせてしまうだなんて!彼の命を狙う人間とて、なかなかできないだろう。もしやってのけたならば万死に値する。
犬歯が甘噛みして訴えてくるのを潮に、諭吉は名残惜しくもちゅぽんと指を抜いてやった。手首までぐっしょりと唾液に濡れている。情事を思わせる光景に腹がそわそわしたが、今は割合に真面目なひと時だ。
「うん、十分確認できました。僕が診る限り、虫歯はなさそうですね」
専用の鏡がないためつぶさには見ることが叶わなかったが(欧米ではそんな道具もあるらしい)、初見ではこんなところだろう。手を洗いがてら、隠し刀に口をゆすぐよう促す。長らく指を口に突っ込まれていたおかげで、大の男が涙目になっている。ぎゅう、と胸が苦しいまでに掴まれてどうにもたまらない。
今の自分は医師としてここにいるというのに、公私が全く切り分けらぬまま、さながら貝殻のようにがっちりと一体化を果たしている。普段の情人からは到底考えられぬ、子供のような寄る辺のなさ、自分しか頼れる人がいないという振る舞いがどうにも欲を刺激してやまなかった。
理性よ、よろけることなかれ。念じて薬を与えるべく湯さましを用意しながら、諭吉は事の始まりを振り返った。相手にとっては拷問のように長かったかもしれないが、ほんの半刻程前である。
「すまん、諭吉」
「どうしたんです?」
隠し刀が住まう長屋に遊びに来て早々、挨拶代わりに口づけをしようとしたらば両手で阻まれ、諭吉は目を丸くした。断られたことに少なからず衝撃を受けたものの、相手が心底申し訳なさそうな様子に心配が先に立つ。大人しく聞く態勢に入ると、情人は正座をして絞り出すような声を発した。
「……痛いんだ」
「え」
すわまた深刻な怪我を負ったのか。一度彼が人斬りらしい傷を負った記憶が鮮やかに蘇り、さああっと顔から血の気が引く。腹か、背中か。手足は問題なく動かせているようだ、と体のあちこちを検分していると、情人は恥ずかしそうに続けた。
「痛むのは、歯だ。病気かもしれないから、医者にかかって治療するまで待ってほしい」
知人の英国人医師、ウィリアム・ウィリスに診てもらう予定だという。とはいえ本職が歯ではないため、すぐに完治するかは不透明だ。そんな悠長な話があってたまるか。確かに虫歯は口移しされる可能性があるとは認識している。それはそれ、これはこれで、諭吉は門外漢の医師ならば他にもいるだろうにと鼻を鳴らした。
「なら、僕が診てさしあげましょう」
手袋と上掛けを脱ぐと、とっとと手を洗いに行く。相手が慌てたところで構いはしない。前々から情人の歯は好きだった――それをみすみす他人に先を越されるとは悔しい。
「本気で診るつもりなのか?」
「おや。僕の腕を疑うんですか。専門ではないから駄目だと?」
「諭吉に診てもらうのは嬉しい」
ただ恥ずかしい、と宣う男は素直で可愛らしく、諭吉は両手で顔を覆いたくなった。他にも色々お互い恥ずかしいものは見ただろうに、今更虫歯(らしい)を見られるのを厭うだなんて!
「では、観念してください。口を開けて。どこが痛むんです?」
「右の奥……おそらく上だと思う。最初は歯が合わさると気になる程度だったんだが、段々何もせずとも痛くて」
凡そ一週間ばかり悩んだらしい。何もせずとも痛くなった最終段階は今朝始まったそうだ。虫歯と断定しきれない症状に、諭吉は他の可能性を探るべく、脳内の医学誌の頁をめくった。
歯に関する治療の歴史は古いが、原因や治療法が科学的になったのは近年のことであり、それも遥か大陸での出来事だった。歯痛となれば薬を処方され、飲む。ひどくなればやすりで削り、あるいは抜く。負の連鎖というもので、次から次へと己をすり減らす人間は少なくはない。
隠し刀は異国の医者を当てにするようであるため、おいそれとすぐに抜きはしないだろうが、さはさりながら惜しい。彼の身が少しでも減ってしまうくらいならば、自分で食べてやりたいと思うのは行き過ぎた考えだろうか?無論、行き過ぎている。同物同治でさえないこの想いは、いっそおぞましいものだ。
素知らぬ体を装って、大人しく開いた情人の口をなぞり、中へと指を突っ込んで否応なしに蹂躙する。はた目には、自分が真面目に診察しているように映るだろう。患者だってそのつもりで、自分も一応その心づもりでいる。ただ少しばかり余計な思いばかりが頭を過るだけのことで――全く以て忌々しい。
一人前の刀は健康であることが第一だから、と人でなしらしく気を使うだけあって、隠し刀の歯は状態が良かった。懸念されていた奥歯は、見る限り問題がなさそうである。などと経過を振り返ると、諭吉は神妙な面持ちで結果を待つ患者に笑みを浮かべてみせた。
「大丈夫。歯も歯茎にも異常は診られません。痛みの原因は、恐らく噛みしめが原因でしょう。他の部分に比べて、右奥が随分すり減っています。力を入れる際に、つい噛みしめてしまうのではないでしょうか?」
「そうだな……痛っ」
恐らく想像で力を入れたのだろう、ぐうと隠し刀が背を曲げる。脇腹に大けがを負った時でさえ呻きもしなかった男が、歯一つでここまで痛みを感じるとは意外な事だった。堅牢な城郭も内に入ればなんとやら、どうも悪癖は彼の致命を獲ったらしい。
「ほらほら、力を入れない。痛み止めを差し上げますから、ひとまずはこれで大丈夫でしょう。しかし、今後のためにはなりませんね」
悪癖が治らなければ、結局延々痛み止めを飲み続け、更にひどい場合は歯を砕くに至るだろう。奥歯に力が入らなければ、体全体にも関わる。たかが歯と侮るなかれ、と説くと諭吉は相手の頬の上から奥歯の辺りをつついてやった。
「精神論は好きませんが、こればかりは自分の意思一つの問題です。力を入れる時には、右だけでなく左も、そして噛み過ぎないようにするよう意識づけましょう。力を入れずに過ごすことは難しいですからね」
「善処する」
袂に入れておいた守り袋から痛み止めを取り出し、渡してやると情人は何の疑いもなく飲み込んだ。自分相手だからとわかっているものの、誰に対しても無防備なのではないかと思わせるほどの素早さである。
「ありがとう。助かった」
「当然のことをしたまでですよ。あなたを助けられたなら、僕も嬉しいです」
理性を取り繕うべく手袋をはめようとし、諭吉は自分の指に歯痕が残っていることに気づいて頬を緩めた。先ほどの歯の感触をまだ覚えている。
「あー、諭吉。意識するというのはよくわかったから、少し協力してほしい」
「僕にできることであれば、喜んで」
ふわりと気分が浮上する。はしたない顔をしていないと良いのだが。諭吉の返答に、隠し刀は唇の端を上げた。
「道場稽古で立ち合いを願いたい」
「良いでしょう」
久々ですからね、と言いつつも気分は急降下していた。薄々想定されてはいたものの、いざまともに切り出されると口惜しい。だが、隠し刀が続けた言葉で諭吉は再び踊らされた。
「うまくいったら、湯屋に行こう。自分本位ですまない」
「あなたは我儘です」
ご褒美扱いされることは嬉しい。しかし自分の意思はまるで無視されているではないか。とはいえ小さくとも歯は要所であり、抱き合いながら歯痛に悩まれるのは不本意だった。
手袋をはめ、煩悩を封じ込める。できうる限りの余裕をかき集めて、諭吉は唇の前に指を一本立てた。
「僕へのご褒美も忘れないでくださいね」
「なんなりと」
痕が欲しいと強請ったら、情人はどんな顔をしてくれるだろう。その愛らしく尖った歯で飾られた指を眺めたい。痕跡が薄れて寂しくなれば、上書きの合図だ。手袋の下に隠す喜びが、今から待ち遠しくてならなかった。
〆.