後始末 子供というのは、社会的にまだまだ分別がつかない生き物だと見なされている。故にどれほど大それた悪戯をしでかそうともそれは悪戯に過ぎず、叱責や多少の罰を受けることはあっても大人のように責任を負わされることはない。例外はあれども、少なくとも福沢諭吉はこれまでちょっとした思いつきで躓く羽目になったことはなかった。長じて分別がついてからは、人の道を外れることもなく、実に品行方正な生き方をしてきたので全ては最早無関係の思い出である。
が、自分の思いつきはどれほど大義名分をつけても免責されぬものであったらしい。珍しく身なりを整えた隠し刀が、彼の家で出迎えてくれたと思えば切り出された提案に、諭吉は目を白黒させるばかりだった。
「ええと、本気で仰ってるんですか?その、黒船に……正面から乗り込むと」
「冗談で済む内容ではないさ。それに、友人を訪ねに行くんだ、構える話でもない。諭吉」
「はい」
思わず肩が震えたのは、心のどこかでいつか誰かに言われるのではないかという懸念があったからだろう。どうやら自分には大義名分の下に微量な罪悪感を残していたらしい。
「まだ『返却』していないのだろう?『拝借』したのは、いつか『返却』するつもりだったのだと思っていたが。先日尋ねた時に、もうあの資料は不要だと言っていたな。ちょうどマシューが遊びに来ないかと誘ってくれたのだし、ついでに『返却』する良い機会だとは思わないか?」
「あなたって、時々憎らしいくらい口が回りますよね」
「それは褒め言葉だと受け取っておこう」
柔らかに微笑む隠し刀から滲み出る愛情を感じ取って、知らず知らずに頬が緩んでしまう。その甘い表情を見られるのは、情人である自分だけの特権なのだ。連れ合いの頭が切れること、それ自体は歓迎すべき事項である。しかし、まさか『返却』を求められるとは思いもよらなかった。建前上『拝借』と言い、表立っては到底入り込めない黒船に無理やり隠し刀と乗り込んで資料を入手したのは揺るがし難い事実である。当時は本気で『拝借』のつもりだった――ただ、肝心の『返却』方法についてはまるで考えていなかっただけだ。
要するになし崩しにしようとしていたわけだが、不可思議に顔が広く、かの黒船の首魁であるマシュー・ペリーとも懇意にしている隠し刀の目を逃れることはできないらしい。きらりと輝く相手の瞳が、自分の心の深くにある疾しさを照らし出す。
「大丈夫だ。私なら上手くやれるとも」
「あなたを疑ったことはありませんよ。もう、仕方がありませんね」
元より黒船には忍び込もうとするほど興味津々だったのだ。幕府の外国方に勤めようともそう簡単に出かけられる場所ではない。一度行くと決めれば現金なもので、横浜貴賓館で返却物を回収したらば向かおう、と諭吉は情人の胸をポンポンと叩いた。非は自分にあれども理不尽な思いのやり場くらいは欲しい。隠し刀の手が三発目を受け止めて、流れるように口付けで封じ込めてくる。
ずるい。ずるいけれども、甘くて美味しい。今日は二人でどこかに遊びに行こうと思っていたのに、と口付けの中でくだらない不満を漏らして、諭吉はもう一度を強請った。
温暖な気候に恵まれた横浜は、今日も波が穏やかに船を揺らす。これが台風とやらが現れると途端に大荒れになり、澄み渡った青空は消え失せ、全てが白黒に塗りつぶされるのが信じられない。冬の訪れさえ無縁かと思われていたが、空気は日増しに冷たくなって季節の死を告げようとしていた。船乗りらしい敏感さで、潮風から変わり目を感じ取ったペリーは、ほんの僅かな哀愁と共に隠し刀の訪問を下士官より告げられた。船長室を出て甲板に出れば、先に解き放たれた友人は下士官たちと軽口を叩き合っている。無骨な顔つきに反して冗談の上手い隠し刀は、腕が立つこともあって船乗り連中に好かれているのだ。
招待したのは自分で、こうなることは予想通りではあるものの面白くないと思うのは狭量だからだろうか?子供っぽい感情に苦笑しつつ、ペリーはこほんと咳払いをして友人に声をかけた。
「よく来てくれたな、隠し刀。こちらは……」
ちら、と友人の隣に並ぶ日本人に目をやる。招待したのは彼一人だが、供回りでも連れてきたのか。身なりからすれば隠し刀よりも身分が上らしい青年は、ペリーの一瞥を受けて綺麗にお辞儀をして見せた。
「福沢諭吉と申します。隠し刀さんに誘われて参りました。お邪魔でしたら申し訳ありません」
驚いたことに、諭吉という青年は流暢に英語で挨拶をして見せた。見た目のまま、礼節を重んじる人物であるらしい。横浜貴賓館で何度か見かけた顔だ、と記憶を探りながら隠し刀に問えば、そうだ、と首肯された。
「私の大切な人だ。彼は黒船……お前の国の事物全般に興味があるんだ。おかしな真似はしないと誓って約束できる」
「Best friendのFriendはMy friendでもある、と?」
大切な人、という言葉に込められた意味を理解できない人間ではない。自分も些かに通った湿っぽさを抱えているだけに、ついしみったれた台詞が口をついて出る。皮肉に諭吉が顔をこわばらせたのを見てとり手を振ると、ペリーは敢えて豪快に笑ってみせた。
「ふ、そう心配するな。確かに、貴賓館では何度か顔を合わせたことがあったな。”大切”とは、よくも俺に隠していたものだ」
最後の方を隠し刀に振ると、緩やかに唇が弧を描く。食えない男だ。言下に潜んだペリーの気持ちなど、恐らく自分以上に承知の上での行いだろう。あるいは、それ故の誠実さの発露であるのかもしれない。他人の思惑に乗るのは面白くないものの、頼られたと解釈すれば悪い気はしないのだからおかしな話だ。ペリーはサスケハナ号付きの気象学者と機関士を呼びつけ、諭吉に艦内を見せ、質問には答えるように指示した。
「良いんですか?提督のご厚意に感謝します」
「構わない。お前も俺のFriendだからな」
犬ならば尻尾でも振りそうな勢いで飛び出してゆく青年は、全く好奇心の塊そのものだった。連れてきた隠し刀のことなど目もくれない諭吉に笑みが溢れる。途方に暮れているだろうな、と友人の顔を見れば、くつくつと小さく肩を揺らしていた。
「仮にも恋人だろう。置いて行かれて寂しくはないのか?」
「寂しい?大切な人が楽しそうにしていたらば、それが幸さ」
できた人物のような語り口で返すも、眉の辺りに僅かな気だるさが見てとれる。理性で手綱を握っても、己の感情には素直と言うわけだ。肩を叩いて船長室に誘うと、ペリーはいつものようにどっかりと椅子に座って身振りで葉巻を勧めた。
「お前のことだ、ただ昼食を共にしようという腹ではないだろう。他の願い事は何だ?」
「もうすぐ帰国するFriendと親しむのは普通だろう」
キョトン、としつつも懐に手を入れ、隠し刀は奇術のように次々と物を取り出した。博物図鑑、設計図、そして遠眼鏡。最後の一つは寄港地で必要に応じて他人に譲ろうと思っていたもので、備品を確認した際に失われていて係を叱ったものだった。思わず相手の顔を見れば、しれっと葉巻を吸っている。取り乱したことを悟られぬよう眉を顰めると、ペリーは静かに嗜めることにした。
「取られて困るものではない、が、わざわざ返しにくるとはご苦労なことだな」
「『拝借』したものは返すべきだからな」
あっさりと自分で盗んだことを認めた豪胆さに舌を巻く。葉巻に火を点けて馥郁たる香りに酔いしれる振りをして、ペリーは隠し刀を賞賛の眼差しで眺めた。設計図を残し、後の二つを相手に押しやれば、隠し刀の目が丸くなった。どうだ、自分も相手を驚かせるくらい簡単なことだ!
「記念にとっておけ。元よりFriendが出来れば贈るつもりのものだった」
「熊おやじは気が良い」
感謝する、と言った後は黙ったきりで、二人静かに葉巻を燻らす。なんとなく、今日は話さずにこのまま時間を過ごすことが最適のように感じられた。もう直ぐ自分は米国に帰る。そして、二度とこの国には戻るまい。隠し刀が海を渡ることはあるかもしれないが、再び巡り会う可能性は限りなく低いだろう。残された時間は、もっと有効に活用するべきではないかと自問し、ペリーは煙の輪を作った。
たまには、こんな時間が良い。無駄にぼうっとできるだなんて、なんとも贅沢な話ではないか。
「美味しかったですね。あれじゃ、幕府が出した料理を『お上品すぎる』と言って食べなかったことも道理です」
「マシューたちは、味が濃くて脂っこいものの方が好みだからな」
すっかり灰青になった空の下、隠し刀は上機嫌な諭吉に返事をした。出かける前は尻込みする素振りさえ見せたのに、念願叶うともう夢心地だ。こんなに隙が多くて大丈夫なのかと心配になってしまう。マシューも当初は警戒していたらしいが、諭吉の生来の素直さや善性にすっかり和んだらしかった。最後には米国の歌を習って共に歌う二人の姿を見ることができ、隠し刀としては今日の任務は大成功だった。
任務と言えば、と当初の目的を思い出して隠し刀は懐から本と遠眼鏡を取り出して諭吉に渡した。
「マシューからだ。Friendへの贈り物だそうだ」
「……本当に、上手くやるんですね」
「うん」
頷きながらも、どこか不機嫌さを孕んだ諭吉の物言いが引っかかる。本を懐に入れた後、おもちゃのようにして遠眼鏡を振り回し、情人はじっと遠眼鏡越しでこちらを見つめてきた。
「ふふ、直ぐそこなのによく見えませんね」
「遠くのものを見るための道具だからな。近いなら、直接見た方が早い」
酔っ払っているのか。当たり前のくだらない理屈を話しながら捕まえようとすると、諭吉はつるりとすり抜ける。酔っても強さの変わらぬ桂小五郎の姿を重ね、隠し刀は敢えて一歩離れた。一歩、二歩、三歩。諭吉の眼差しは遠眼鏡越しから揺るがなくこちらに注がれている。
「見えたか?」
「よく見えません!」
更に下がろうと背を向けると、たったと足音がして背中にごつんと生命がぶつかった。
「行かないでください」
「……遠い方が、よく見えるんじゃないのか?」
振り向けば、薄暗がりでも頬が茹っていることがよくわかる。遠眼鏡はしまったのか、押さえつけすぎたらしい目の周りに丸い跡ばかりが残っていた。身を捻って、跡を指先でなぞれば、何も知らぬ男は不可解な表情を浮かべた。
「やっぱりこの距離で見る方が好きです。何です、面白い話じゃありませんよ」
「世界一面白いとも」
くっくと漏れてしまう笑い声が、実に人の悪いものだと理解しつつも堪えきれない。拗ねて、不貞腐れる情人は可哀想で、ついでどうしようもなく可愛かった。束の間感じていたもやもやとした感情が段々と薄れ、靄が取り払われた心地がする。他人の不幸で喜ぶだなんて、それも一番大事な人の不幸を肴に喜ぶなど人として道を外れている。だが、堪らなく嬉しかった。
「マシューはもうすぐ帰国する。自由に時間を取れるのは今日くらいだろう。だがな、諭吉。お前と一緒に黒船を回れなくて私は、」
束の間、言葉を探す。過ぎ去った靄をもう一度捕まえようとして失敗し、残ったのは揶揄い半分の友人の言葉だけだった。
「私は寂しかった。どうだ、面白い話ではないだろう?」
「世界一面白いです」
ふふ、と情人が頬を緩める。ぽん、と小さな花が咲くような幸せを感じ取って、隠し刀は掠めるような口付けでお裾分けを強請った。
〆.