柚子 季節の移ろいを訴えるのは様々で、例えば朝の空気の冷たさや風の香り、鳥や虫の鳴き声、それに葉の色の変化も忘れられない。今年に別れを告げるように一斉に艶やかな着物を纏って賑わせたかと思うとゆっくりと葉を落としてゆく様は、何度目にしても巡り来る年月に胸を震わせられる。別れを告げるのが葉であるならば、彼らの今年を詰め込んだ結果は文字通りその果実だろう。春は桜桃、夏は西瓜、秋は梨、そうして秋が深まって冬に近づいてくると目立つのは、
「良い香りですね」
柚子だ。通り一つ向こうから漂う強い香りに鼻をくすぐられ、福沢諭吉は思わず足を止めた。農家が運んできたのだろうか、俄かに市でも立ったかのように風に乗った香りが人々を誘う。実際既に引き込まれた人々の喧騒で、隠し刀の長屋がある方角は随分と賑わっているようだった。まさか彼が?これから遊びに行こうと計画していたこともあり、諭吉は足を早めた。
一歩近づくごとに人々が話す言葉が意味を持って跳ね回る。どの声も喜びで弾み、バラバラとそれぞれの家路を辿り始めたようだ。腕には一抱えほどもある柚子を持ち、黄色い太陽に照り輝く顔は幸せそうである。
「運が良いねえ」
「こう言うのをなんて言うんだっけ?ありがたいもんさ」
「冥加だよ、冥加!お坊様が言ってたんだ、仏様のお恵みだってね」
冥加だよ。どこぞで聞いた際には随分嫌な目に遭ったことを思い起こし、諭吉は眉間に皺を寄せた。人々が散る中に混じった僧形の男が一瞬チラリとよこした目と目が逢う。蛇のような、ぬらりとした鋭さには覚えがある――隠し刀の、片割れだ。追いかける勇気を奮い立たせるより前に、相手の方が煙のように姿を消していた。またぞろよからぬちょっかいでも出したのだろうか?
予想違わず柚子はでんと山をなして隠し刀の長屋の前を埋めていた。そこから三個ほど摘んだ少年が最後らしく、袂に入れて駆け出そうとするその袖を諭吉は慌てて捕まえた。
「待ってください。ええと、その、これはどういうわけでしょう?」
「お兄さん、この家の人かい」
「はい」
正確には情人の家だが、諭吉は殊更に強調するように頷いた。堂々とした振る舞いにたじろいだのか、少年が観念したようにこちらを向く。どんな経緯であるにせよ、他人の家からものを取ったことに負い目を感じはするらしい。いわゆる更生の余地ありという奴だ。年は十をやっと出たところか。疑り深い眼差しを向けつつも、少年は渋々ながらに経緯を語り始めた。
「柚子売りのおじちゃんが来たんだ。大八車に目一杯柚子を載せてね、あんまり綺麗だからいっぱい人が寄っていったよ。でも、目玉が飛び出すくらいに高くってさ。こんなところで売るもんじゃないや。見せびらかしに来たのかな?何人か、買って行ったけどみんな眺めるばっかりで……あんなに綺麗なの、俺も初めて見たよ」
お月様のようにまんまるくって、黄色く香り高い。それは魅力的だったろうなと諭吉は頷いた。
「そうしたらさ、さっきのお坊さんが来たんだ。お坊さんも柚子が欲しかったみたいだけど、おじちゃんは売り物をお布施なんかにしないって断ってね。そしたらお坊さんは種だけ欲しい、っておじちゃんに言い出したんだ。不思議だろ?」
「種だけ、ですか」
「うん。それだけ良い柚子だったら、種から立派な実ができるって言ってね。柚子ができるまで時間がかかるのに。おじちゃんも気が長いって笑ってさ、お坊さんに無料で種を渡したんだよ」
しかしそこからが真骨頂だった。僧侶は種をこの長屋の前に植え、何やら念仏を唱えて祈ったらしい。するとどう言うわけだか地面が膨れ上がって芽が出、あれよあれよという間に樹が生えて葉が生い茂り、実がたわわに実った。驚いた人々に、僧侶は冥加だと言って配ってやったのだという。全て配り終えた頃には決まりが悪いのか柚子売りは姿を消し、樹も腐り落ちて跡形もなくなってしまった。残った実を、僧侶は土地を借りた賃料だと言って長屋の住人に渡すよう伝えたのだという。
「でも、ここって男の人が一人住んでるだけだろ?ちょっとくらいもらっても良いかなって」
「なるほど。経緯は理解しました。良いですよ、持ってお行きなさい」
「ありがとう」
パッと顔を輝かせると、少年はたったと走って行った。後に残ったのは柚子の山、おそらく二十近くはありそうな季節の贈り物だけである。
「中身が空、と言うわけではないようですね」
試しに一つ持ってみて、その重みに諭吉は現実であることを確かめた。少年が語った内容は、お隣の国で流布した奇譚集『聊斎志異』に語られるような奇術である。片割れが何らかの詐術を用いて、柚子屋から品物を巻き上げたのはまず間違い無いだろう。隠し刀のいないうちに盗品を多量に送り付けるとは如何にも彼らしい。隠し刀が留守をしているのはもちろん、ひょっとすると諭吉がこうして訪れることまで計算に入れている可能性は高い。
「何をしましょうかね」
とは言え、思い通りになるつもりはない。勝手知ったる長屋の戸を開けると、諭吉はせっせと柚子を主人のいない家に運び込んだ。
冬の香りがする。両手いっぱいに抱えたもので前が見えないかがらも、隠し刀は勘で香りの源が自分の家であるらしいことを察した。しんみりと湿って、爽やかで、少し冷たさを覚える香り、あれはきっと柚子だ。それも大量にあるに違いない。さてどういう経緯か、想像を巡らせども答えは出ず、横からどんどんと抱えているものに追加がされるので考えをまとめる隙もない。あれよあれよという間に積み上がった山を抱えて足で戸を開けると、隠し刀は見慣れた履き物を足元に見つけて頬を緩めた。
「諭吉!来てくれたのか。すまない、少し手伝ってくれ」
「お帰りなさい。わあ、随分な荷物ですね。買い出しですか?」
「最初はそのはずだったんだが……途中から、町のみんなが方々からお裾分けをしてくれて、こんなになってしまった」
買いに出かけたのは大根一本切り、それが人参を押し付けられ卵と鶏肉(血の抜きたての良い奴だよ、と自慢された)を捩じ込まれ、かまぼこやら豆腐やらもずんずん包んで両腕に載せられたのである。人が厚意でものを分けてくれることはままあることだが、こうも熱烈に大勢から為されたことは初めてで、流石の隠し刀も受け止めきれずにいた。諭吉に手伝ってもらい、荷物を整理したところで目につくのは、囲炉裏の周りで円陣を組む柚子である。冬の香りはここから来ていたのだ。
「柚子か。良いな」
「僕が来た時には、家の前に山になっていましたよ。ご近所の方々がそれぞれ持って帰られていましたから、お裾分けは多分、そのお返しでしょう」
「ふむ」
ならばわざわざお返しはせずに済みそうだ。日持ちもしないものも多いので、今日は諭吉もいることだし何か作って二人で食べたらば幸せな夜を迎えられるだろう。味噌と醤油は足りていたか、と確認するため腰を浮かせると、諭吉が不審げに声を上げた。
「……驚かないんですね。普通、自分の家の前に柚子の山ができていたらば、もう少し疑ってみるものではありませんか?」
「前にも、何度かあったからな」
栗やら芋やら貝やら、そうした季節に合ったものが大量にお裾分けされることは、これまでもままあることだった。一番初めこそ戸惑ったものの、人間同士の付き合いはお裾分けをしあうことも含まれているのだと学んだ今ではさして驚きはしない。ひょっとすると諭吉は武家の出身であるから、市井の交わりを知らないのだろうか。里山でもあったことだと過去の話をポツポツ挙げれば、何故だか渋面が一層険しくなった。
「人の親切や好意を疑わぬあなたの姿勢は、きっと良いものなのでしょうね。ですが、人は綺麗事では生きていません。万が一ということもあります、少しは警戒してください」
「心得た」
「分かってないでしょう」
小難しい理屈で懊悩する諭吉の表情は、歪んだり滲んだり緩んだりと忙しい。その頬を摘んで軽く捻ると、隠し刀はこういう時には他に夢中になるものがあった方が良い、と思いついた。辛い時には酒が一番だ、と暗い顔でこぼした桂小五郎の顔が頭を過る。彼の悩みもまた深く入り組んでいそうだ。いつか聞いてやりたい。それこそ酒を交えればわかるだろうか?他人の悩みに首を突っ込むことなど、以前の自分でははなから勘定に入っていなかったが、今では我が身のように暗いものを抱えてしまう。情とは、因縁とは、兎角ややこしく賑やかだ。
「柚子酒と、柚子蜜は作るとして……全部湯に入れてしまうのも勿体無いな。諭吉、柚子を使って何か美味しいものを食べないか?」
「良いですね。それならば、少し心当たりがあります」
ぱ、とわかりやすく諭吉の表情が明るくなる。どうやら難局は切り抜けたらしい。今度こそ味噌と醤油を確認すると、酒や味醂同様に潤沢にあったので買い出しに出かけずには済みそうだった。振り向いてそれを告げようとするも、情人の姿に思わず口を噤む。上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げた姿に妙味を覚えたと告げたなら、彼は軽蔑するだろうか?手袋を脱いだ生身の手は、真珠のように眩しく輝いて見えた。
「そんなにじっと見ないでください」
照れが混じって赤らむ頬が愛らしい。つられて頬を赤くして、隠し刀は胸を押さえた。斬り合いをする時のように心臓がうるさくて敵わない。
「嫌だったか?」
「嫌ではありません。ただ、集中できなくなるだけです」
後でにしてください、という言葉はたまらなく甘く、残酷に響いた。
一度ざっと手元にある材料を確かめると、諭吉はすぐさま頭の中で献立を組み立てた。別段料理が得意という程ではないが、自分の知る限りでどうにか収まりそうである。見栄を切ったからにはそれなりのもの、例えば相手が口にしたことのないようなものを振る舞いたい。例えば、ハレの日のご馳走であるとか。記憶の中から味と思い出を引っ張り出すと、諭吉は鶏肉の下処理を隠し刀に依頼した。
まずは鍋に水を張り、昆布を入れる。出汁が出るまで放置する間は暇なので、続いて取り掛かるのは中身と副菜の準備だ。柚子の頭を切って中身を抉り出し、可愛い器を二つ作る。途端に柚子の香りが弾けて、長屋の中が何とも爽やかになった。出した実は絞り、醤油と合わせてポン酢を作る。この調味料は阿蘭陀から伝えられたらしい――柑橘類が豊富な日本にはぴったりの調味料だ。味を確かめて頷いていると、手際よく作業を終えた隠し刀と目が合った。
「肉はあらかた切り分けたぞ。もっと細かくするか?」
「そうですね。一口くらいで整えましょう。四つほど残して、あとは串を打っておいてください」
「承知した」
焼き鳥にポン酢をかければ、さっぱりとして乙だろう。柚子味噌を作るのも良いかもしれない。何しろまだまだ柚子はあるのだ。続いて他の柚子に手をつけると、こちらは皮を細かく包丁で削り出す。しばらく指先から香りが消えず、手袋越しにでも匂いそうだ。大根と人参も細く長く、神経細やかに切り分けてゆく。一部を残して塩で揉んで放置すると、諭吉は塩揉みしなかった分に取り掛かった。材料が同じであるため似たような味になってしまうが、一品くらいは数日楽しめるものを作っておきたい。
年中通して副菜の定番は漬物だが、柚子の漬物があれば一層季節を感じられるだろう。それに、何より自分を思い出してくれるに違いない。酢と砂糖と味醂を煮立てると、チラリと昆布の様子を見る。鍋の中で静かに揺蕩う昆布は、どこかくつろいでいた。この漬物の下準備をした辺りで次の段階に移れるだろう。切っておいた大根の残りを手拭いでぎゅっと絞ると、器を用意していなかったことに気づいてはたと止まる。作ることばかり考えて、肝心の入れ物にまで頭が回らなかったらしい。両手で手拭いを包んだまましばし固まっていると、隠し刀がすっと小壺を差し出した。
「これでちょうど良いか、諭吉」
「よくわかりましたね。ええ、これならばぴったりでしょう」
「良かった」
作業をしながらもこちらを気にかけてくれていたのだろう。彼の空間に自分がいると意識されている、その事実が諭吉は何よりも嬉しかった。水気を絞った大根を小壺に入れ、先程作った漬け汁と柚子の果汁、削った皮をぱらりとかけて蓋を閉める。一晩も寝かせれば美味しく、数日は十分楽しめるはずだ。昆布の入った鍋に火を入れながら、明日以降に食べるようにと情人に説明すると、頷きながらもどこか残念そうである。恐らくこの後口に入ると期待していたに違いない――それでは困ってしまう。
「僕がいなくても、あなたはきちんとものを食べるでしょうけれど、少しは栄養に気を配って欲しいですからね」
さも専門家のような話ぶりで言い聞かせながらも、諭吉の本音は別のところにある。自分が居なくたって、彼には自分と居たという時間を思い出して欲しい。ついで、相伴に預かる運の良い人間に由来を話してくれたならば御の字だ。この執着は少し過ぎたものだろうか?昆布に削り節を投入すると、ふんわりと漂ってくる出汁の香りにうっとりするふりをして軽く唸る。過ぎたるは及ばざるが如し、されどまあ、自分のしたことは可愛い部類に入ると考えて良いだろう。未だ情人から苦情が出ないどころか、喜ぶ風であることに心から救われる。出汁を酒などで整え、味を確認すると記憶通りの滋味深さだった。出汁さえ決まれば、味の良さは概ね保証されたようなものである。
かまぼこと椎茸を切るよう頼むと、どんぶりに卵をパカパカ割り入れてゆっくり混ぜる。確か、塩を少し入れると良いのだったか。記憶を辿りながらしょっぱくなり過ぎないよう祈りつつ卵を溶くと、黄色く滑らかな液体が艶々と光って答えてくれた。スルッとそのまま出汁に加えれば、卵出汁の出来上がりである。
「うどんを茹でましょうか。あ、そろそろ鶏肉を焼きにかかってください」
「うどん?朝炊いた米がまだ残っているぞ」
「なら、そちらは焼きおにぎりにしましょう。お腹が減っていたらば、ですが。今から作るものはうどんが合うんです」
何しろ上方料理であるため、蕎麦で食べるわけにはいかない。今ひとつ承服しかねる隠し刀は北陸の生まれと聞くから、蕎麦にこだわりこそないものの、米ではなく敢えてうどんを選ぶ理屈を受け入れられないのも道理だ。さっとうどんを茹で、少し硬さが残る程度で引き上げる。グデグデになったうどんはあまり好かない。第一、歯が丈夫なうちは程々に硬いものを食べた方が良いと思う。
具にもつかぬことに拘泥せず、二つの鉢にうどん、椎茸にかまぼこ、ついで鶏肉を綺麗に並べる。人参を紅葉の形に切れば鮮やかだったろうが、小刀がないので諦めざるを得ない。卵出汁をひたひたになるまで、うどんがほんの少しそのうねうねとした曲線を見せる程度まで入れれば下準備は無事に完了。手拭いを濡らすと、諭吉は隠し刀に自分の真似をするよう目で伝えた。
「こうやってそうっと覆ってくださいね。中身に触らないように」
「なかなか緊張するな」
苦笑しながらも手早く終えてしまうのが、隠し刀の優秀さを物語っている。蒸し器が見つからなかったので、鍋に細工をして二つの鉢を仲良く蒸し風呂に入れてやると、諭吉は最後の二品を仕上げることにした。塩揉みした大根と人参を水で軽く流してぎゅっと絞る。ややもすると絞りすぎるので心配だったが、程よい力で無事に絞れたらしく、掌を開けば紅白が鮮やかに形を保っていた。くりぬいた柚子の中に移して、絞った柚子の果汁と皮を混ぜればこれでなますの完成である。このために慎重に切り分けた柚子の帽子でぽんと蓋をすると、さながら切られる前の柚子そのままだった。
「綺麗だなあ。諭吉は趣味が良い」
「何、ほんの思いつきですよ」
可愛げのない返事をしてしまったのは、我ながらうまくやったという心がどうしようもなくくすぐられたからだ。隠し刀を前にすると、子供のように飛び上がって喜びたいはしたなさと、物分かり良い知識人を装いたい格好付けの間でぐらぐらと理性が揺さぶられる。格好つけたい時点で既に物分かりの良さから遠ざかっているのだが、取り繕うことくらいはできるだろう。せめてそれくらいは、させて欲しい。欲しがるのはここぞという時にしたいのだ。
「さ、出来を見てみましょうか」
綴蓋を開けて、立ち上る湯気の向こうから鉢にかかった手拭いの縁をペラりと捲る。ふるり、とすっかり固まった黄色が揺れた。どうやら出来は上々らしい。
「鶏は焼けましたか?」
「良い塩梅だ。柚子味噌を作ってみたから、合わせて食べよう」
「気が利いてますね」
そうだ、柚子味噌を作るつもりだったのだ。色々慣れない台所仕事をこなしているうちに、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。隠し刀も食べようと思って用意していたのであれば、無駄にならなくて良かったと喜ぶべきか。食べたいものが同じであることが嬉しい。湯気の立つ鉢と先ほどの柚子たちを盆に載せて、諭吉は宴に向かった。
「「いただきます」」
二人合わせてお辞儀をする、家族めいた儀式が隠し刀は好きだった。誰もがどこかの家で、当たり前のようなことをこの家でする時、心に温かいものがとっぷりと満ちてゆく。柚子酒はまだできていないので、とっておいた日本酒を掲げた。柚子酒が出来上がった頃、共に膳を並べてこの日のことを話せたらば幸せだろう。希望を芽生えさせた端からむしり取って、隠し刀は全てを飲み込んだ。願望は携えるだけ果てしない。自分に必要なのは、実現したいという強い意志だろう。
柚子味噌とポン酢で交互に食べる焼き鳥も魅力的だが、こちらの味わいは知っている。先に箸をつけたのは可愛らしい柚子だった。果実を器にすることがこれほど贅沢だなんて!見目も良ければ香りも良い。柚子なます、というおかずはコリコリとした野菜の食感に甘酸っぱさが程よく絡み合い、口の中をさっぱりさせるにぴったりだった。
「良いな、これ。口の中が季節でいっぱいになった気分だ」
「ふふ、良いでしょう」
得意げな諭吉を観られるという点でも、この料理は優れている。続けて手をつけるのは、もちろん諭吉が丹精込めて作ってくれた蒸し物だ。パッと見たところは、どこかの料亭で見かけた『茶碗蒸し』に似ている。だがそれよりも遙かに量が多く、波打つうどんが妙な迫力を持っていた。物珍しさからしげしげと観察していると、諭吉が照れくさそうに説明を始めた。
「小田巻うどんというんです。昔、上方で緒方塾に通っていた頃にちょっとした縁がありましてね」
曰く、医者である師・緒方洪庵の手伝いで患者を訪問することがあったのだという。その日は船場の薬種問屋でお産があり、どうしてもと頼まれ洪庵とたまたま手近に居た諭吉が連れて行かれてかかりきりになった。
「ひどい難産だったんです。赤子がなかなかすんなりとは出てきてくれなくて」
時間はかかりこそすれ、母子ともに五体満足で滞りなく終えた。生まれたのが男の子ということもあり、一家の喜びようは半端なものではなかったらしい。当然酒が振る舞われご馳走も、とどんどん押し付けられてゆく中で弟子である諭吉に渡されたのが小田巻うどんだった。
「あの辺りで、おめでたい日に食べる料理なんだそうです。あんまりにも疲れていたから、優しい味が身に染みて、美味しかったな」
うん、と頷きあいながら隠し刀も汁を啜る。卵が出汁に柔らかく溶けて滑らかで、じんわりと味がする。出汁の中に変化を感じるのは、きっといくつもの具材が宝物のように埋められているからだろう。
「ですが、最後まで食べられませんでした。緒方先生は引っ張りだこで、すぐに次の患者さんによばれてしまったんです。それがどうにも悔しくって、後でこっそり他の人に作り方だけ教わっておいたまま、今日まで食べずじまいでした。ふふ、食い意地が張ってるでしょう?でも、さっきまで悔しかったこともすっかり忘れていたんですよ」
「つまりこれは……弔い合戦というやつだな?」
「少し違いますが、概ね合っています」
美味しい、と諭吉がうどんを食む。幼い表情は、昔の時が重なっているのだろうか。つん、と食事に関してはさして気にしていない風である癖に、食べ損ねた料理のことをいつまでも引きずっていた時期があるのかと思うと微笑ましい。隠し刀はもう一口啜って焼き鳥に挑み、会心の笑みを浮かべた。最高の焼き加減で、脂っ気をポン酢がまろやかにまとめ上げている。酒が進み、箸が進む。食卓の合戦は真摯に向き合えば向き合うほどに静かなもので、一度休憩しようと鉢を置くも、もう数口で空になりそうだった。
「美味しい」
「ええ、美味しいです」
満足しました、と諭吉が歌うように言う。全く他にふさわしい言葉は、どこにもなかった。
〆.